以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
クリストファー・コロンブスは偉人では無い。
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,476 | 足利義政が、一色氏の三河国の旧領を改めて一色義春に与える。しかし、第11代室町幕府三河国守護細川成之は、此れを拒み、国領を渡さなかった。 | |||
| ≈ | 1,476 | 1 |
吉見信頼が、元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃する。しかし吉見は、陶弘護に敗れ、以下の所領を奪われた。 ①吉賀(現在の島根県鹿足郡) ②長野(現在の島根県益田市) ③北九州 其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見は其の後も、長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。陶の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。 |
|
| 1,476 | 4 | 21 |
佐田忠景を始めとする宇佐郡(現在の大分県豊後高田市・宇佐市)衆が、周防国から豊前国へ渡る。其の後瀧池山に布陣し、以下の城に籠城する大友親繁・少弐政資等の征伐を開始した。 ①馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市大谷・西谷) ②岩石城(現在の福岡県田川郡赤村添田町添田) 此の時、豊前国守護代の杉弘勝が京都に居た為、大内政弘は、宇佐郡衆の中から大将を出す様佐田忠景に求め、佐田は此れに応じた。 |
|
| 1,476 | 4 | 29 |
今川義忠が、以下の城を落として凱旋している最中に、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて、横地氏・勝間田氏の残党に討たれて戦死する。 ①横地城(現在の静岡県菊川市東横地) ②勝間田城(現在の静岡県牧之原市勝田) 其の後、家督相続を巡り、以下2名が対立した。 ①小鹿範頼の嫡男小鹿範満 ②今川氏親 小鹿は、以下の支援を受けて家督を代行した。 ①太田道灌 ②扇谷上杉家 氏親は、北川殿と共に、小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主長谷川正宣の下に身を寄せた。 |
|
| ≈ | 1,476 | 5 | 畠山政長が、河内国を確保する事を意図し、遊佐長直を派遣する。 | |
| ≈ | 1,476 | 5 | 太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田は八幡山城(現在の静岡県静岡市駿河区八幡山)、上杉は狐ヶ崎(現在の静岡県静岡市葵区川合付近)に布陣した。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社(現在の静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)にて和睦した。 | |
| ≈ | 1,476 | 6 |
少弐政尚が、旧領を回復すべく、以下の人間を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。 ①宗職盛 ②宗国久 そして、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。 |
|
| 1,476 | 6 | 20 | 佐田忠景が、余(現在の大分県宇佐市院内町上余)の合戦を始めとする宇佐郡の戦いで敵を多数討ち取ったとして、大内政弘から感状を得る。 | |
| 1,476 | 7 | 4 | 大内政弘は、宇佐郡衆に感状を与える。 | |
| 1,476 | 8 | 12 | 大内政弘が門司彦九郎に、西暦1,476年6月20日に覗山城の合戦で負傷した事を労う軍忠状を送る。 | |
| 1,476 | 9 |
以下2名が、三河国に出陣し、三河国守護代東条国氏を自害に追い込む。 ①一色義直 ②一色義春 |
||
| ≈ | 1,476 | 9 |
室町幕府が、以下2名に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国にて合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じる。 ①大友政親 ②大内教幸 |
|
| 1,476 | 9 | 7 | 室町幕府が、大内教幸に対し、豊前国での停戦を命じる。 | |
| 1,476 | 10 | 1 | 足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内赦免の条件であった。 | |
| 1,476 | 11 | 29 | 花の御所が炎上する。 | |