西暦1,476年は、駿河国の今川家に家督争いが生じ、応仁の乱の和睦交渉が本格化した年である。3月1日、今川義忠が横地城(現在の静岡県菊川市東横地)・勝間田城(現在の静岡県牧之原市勝田)を落として凱旋している最中、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死した。其の後、家督相続を巡って小鹿範頼の嫡男小鹿範満と今川氏親が対立し、小鹿は太田道灌と扇谷上杉家の支援を受けて家督を代行、氏親は北川殿と共に小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主長谷川正宣の下に身を寄せた。5月頃には太田道灌が上杉定正の命により300名を率いて駿河国へ出陣して八幡山城(現在の静岡県静岡市駿河区八幡山)に、上杉政憲も足利政知の命により300名を率いて狐ヶ崎(現在の静岡県静岡市葵区川合付近)に布陣したが、北条早雲が室町幕府の意向を受けて下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で浅間神社(現在の静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)にて和睦し、最終的に北条早雲の仲裁により今川氏親が家督を継いだ。西国では、1月頃に吉見信頼が元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃したが陶弘護に敗れ、吉賀(現在の島根県鹿足郡)・長野(現在の島根県益田市)・北九州の所領を奪われ、其の所領は益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。豊前国では、4月21日に佐田忠景を始めとする宇佐郡衆が周防国から渡海して瀧池山に布陣し、馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市大谷・西谷)・岩石城(現在の福岡県田川郡赤村添田町添田)に籠城する大友親繁・少弐政資等の征伐を開始、6月頃には少弐政尚が宗職盛・宗国久等4,000名を率いて豊前国に入り古城に籠城し、陶弘護が3,000名を率いて覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣したが勝負は付かなかった。大内政弘は6月20日に佐田忠景へ、7月4日に宇佐郡衆へ感状を与え、8月12日には門司彦九郎に軍忠状を送っている。9月には一色義直・一色義春が三河国に出陣して三河国守護代東条国氏を自害に追い込み、9月頃から9月7日にかけて室町幕府は大友政親・大内教幸に豊前国での停戦と和睦を命じた。10月1日には足利義政が大内政弘に和睦を求める書簡を送り、大内は日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たり、大内の手元に留め置かれていた室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが赦免の条件とされた。11月29日には花の御所が炎上している。北条早雲は西暦1467年9月21日に足利義視の伊勢国逃亡へ随い、西暦1468年10月8日の義視の帰洛の際も伊勢国へ留まり、妹北川殿の夫である今川義忠の下へ身を寄せた人物であり、西暦1473年に生まれた甥今川氏親の家督を巡って此の年仲裁に立った事になる。小鹿範満を支えた太田道灌と扇谷上杉家は、西暦1473年12月13日に上杉政真が五十子で戦死した後、評議の末に西暦1443年生まれの上杉定正を第11代当主へ迎えた家である。陶弘護は西暦1470年3月頃に大内教幸の誘いを退けて以来、西暦1471年西暦1472年と大内家の西国を守り続けて来た当主であり、此の年は吉見信頼を退け、九州では少弐政尚と対陣した。足利義政が大内政弘へ和睦を求めた事は、西暦1466年11月10日に幕府が大内政弘征伐を決定して以来十年を経ての方針の逆転であり、遣明船の唐荷が赦免の条件とされた点は、西暦1453年に大内氏が日明貿易へ参入して以来握って来た交易の実権が、乱の決着を左右する材料となっていた事を示している。決着は翌西暦1477年1月5日、足利義視が恭順を誓い、日野富子の仲介で両軍が和睦する形で訪れる。

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年月日 出来事
1,476 足利義政が、一色氏の三河国の旧領を改めて一色義春に与える。しかし、第11代室町幕府三河国守護細川成之は、此れを拒み、国領を渡さなかった。
1,476 1 吉見信頼が、元山城(現在の山口県山口市阿東徳佐下)を攻撃する。しかし吉見は、陶弘護に敗れ、以下の所領を奪われた。
①吉賀(現在の島根県鹿足郡)
②長野(現在の島根県益田市)
③北九州
其の所領は、益田貞兼や大内家の家臣に当てられた。吉見は其の後も、長門国へ軍勢を送る等して威嚇したが、合戦には至らなかった。陶の正室は益田兼堯の娘であったが、益田家と吉見家は犬猿の仲であった。
1,476 3 1 今川義忠が、以下の城を落として凱旋している最中に、塩買坂(現在の静岡県菊川市高橋)にて、横地氏・勝間田氏の残党による一揆勢に不意を突かれ、流れ矢を受けて討死する。
①横地城(現在の静岡県菊川市東横地)
②勝間田城(現在の静岡県牧之原市勝田)
其の後、家督相続を巡り、以下2名が対立した。
①小鹿範頼の嫡男小鹿範満
②今川氏親
小鹿は、以下の支援を受けて家督を代行した。
①太田道灌
②扇谷上杉家
氏親は、北川殿と共に、小川城(現在の静岡県焼津市西小川)主長谷川正宣の下に身を寄せた。最終的に、北条早雲の仲裁により、今川氏親が家督を継いだ。
1,476 4 21 佐田忠景を始めとする宇佐郡(現在の大分県豊後高田市・宇佐市)衆が、周防国から豊前国へ渡る。其の後瀧池山に布陣し、以下の城に籠城する大友親繁・少弐政資等の征伐を開始した。
①馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市大谷・西谷)
②岩石城(現在の福岡県田川郡赤村添田町添田)
此の時、豊前国守護代の杉弘勝が京都に居た為、大内政弘は、宇佐郡衆の中から大将を出す様佐田忠景に求め、佐田は此れに応じた。
1,476 5 畠山政長が、河内国を確保する事を意図し、遊佐長直を派遣する。
1,476 5 太田道灌が、上杉定正の命により、小鹿範満の支援の為、300名の兵を率いて駿河国へ出陣する。又、上杉政憲も、足利政知の命により、300名の兵を率いて駿河国に入った。太田は八幡山城(現在の静岡県静岡市駿河区八幡山)、上杉は狐ヶ崎(現在の静岡県静岡市葵区川合付近)に布陣した。其の後、北条早雲が、室町幕府の意向を受けて駿河国へ下向し、今川氏親が成人する迄小鹿範満が家督を代行するという案で、浅間神社(現在の静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)にて和睦した。
1,476 6 少弐政尚が、旧領を回復すべく、以下の人間を始めとする4,000名の兵を率い、豊前国に入る。
①宗職盛
②宗国久
そして、馬ヶ岳城・岩石城等の古城に籠城した。陶弘護が兵3,000名を率いて覗山城(現在の福岡県行橋市稲童)を築いて対陣して合戦となり、大内方が60名、少弐方が6名の戦死者を出したが、勝負は付かなかった。
1,476 6 20 佐田忠景が、余(現在の大分県宇佐市院内町上余)の合戦を始めとする宇佐郡の戦いで敵を多数討ち取ったとして、大内政弘から感状を得る。
1,476 7 4 大内政弘は、宇佐郡衆に感状を与える。
1,476 8 12 大内政弘が門司彦九郎に、西暦1,476年6月20日に覗山城の合戦で負傷した事を労う軍忠状を送る。
1,476 9 以下2名が、三河国に出陣し、三河国守護代東条国氏を自害に追い込む。
①一色義直
②一色義春
1,476 9 室町幕府が、以下2名に対し、内藤藤左衛門尉・仁保盛安が豊前国にて合戦しているのを止めさせ、和睦する様命じる。
①大友政親
②大内教幸
1,476 9 7 室町幕府が、大内教幸に対し、豊前国での停戦を命じる。
1,476 10 1 足利義政が、大内政弘に和睦を求める書簡を送る。其の後大内は、日野富子の仲介の下、足利義視と共に東軍との和睦交渉に当たった。大内の手元に留め置かれていた、室町幕府の遣明船の唐荷引き渡しが大内赦免の条件であった。
1,476 11 29 花の御所が炎上する。
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