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≈は「頃」を意味しています。
クリストファー・コロンブスは偉人では無い。
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,470 | 河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に使者を遣わせ、土貢を献上する。 | |||
| 1,470 | 陶弘護が、周防国守護代に就任する。 | |||
| 1,470 | 河野教通が、第9代李氏朝鮮国王成宗に対し、使者を送る。 | |||
| 1,470 | 1 | 10 | 伊勢貞親が朝倉孝景に対し「朝倉殿の注進の旨を足利義政殿に披露した所、京都での情報と大きく違っている。先ずは戦功を以って態度を示して下さい」という主旨の書簡を送る。足利は、御内書や国拝領御判を受け取っておきながら合戦を行わない朝倉を信用していなかった。此の時越前国の内外は、西軍が大勢を占めていた。朝倉は、合戦を仕掛けて敗北すれば、東軍の情勢が悪化する為、表向きは西軍に従いながらも、越前国坂北郡(現在の福井県あわら市・坂井市三国町・丸岡町地区)の深町氏等の有力国人や大寺社を味方に勧誘する等して、合戦の準備を進めた。 | |
| 1,470 | 1 | 14 |
野田泰忠率いる軍が、山名是豊に合流する。其の後は、以下等を転戦した。 ①神呪寺(現在の兵庫県西宮市甲山町) ②山田荘(現在の大阪府吹田市) ③三宅館(現在の大阪府吹田市) |
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| ≈ | 1,470 | 2 | 1 | 野田泰忠が、西軍が山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町字大山崎)に出陣するとの報告を受け、山名是豊率いる軍と共に三宅氏の陣営を出発し、山崎へ向かう。其の後は山崎城(現在の京都府乙訓郡大山崎町字大山崎)に砦を構えた。 |
| 1,470 | 2 | 15 | 山崎城にて合戦が行われる。 | |
| ≈ | 1,470 | 3 | 畠山義就が勝龍寺(現在の京都府長岡京市勝竜寺)に入り、陣城とする。 | |
| ≈ | 1,470 | 3 |
大内教幸が、大内政弘の留守中に周防国を奪取する事を意図し、長門国赤間関(現在の山口県下関市赤間町)にて、以下の人間と共に挙兵する。 ①内藤武盛 ②仁保盛安 ③吉見信頼 ④周布和兼 大内は、百計を巡らせて陶弘護も誘ったものの、陶は応じなかった。 |
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| ≈ | 1,470 | 3 |
足利義政が、大内教幸を大内家当主として認め、以下2名に対し、備後国・安芸国・周防国の討伐を命じられた大内の援助を命じる。 ①大友親繁 ②益田兼堯 |
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| 1,470 | 3 | 7 |
以下に出陣していた西軍が、山崎にて東軍と交戦する。 ①勝龍寺(現在の京都府長岡京市勝竜寺) ②植野(現在の京都府乙訓郡大山崎町下植野付近) |
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| 1,470 | 3 | 11 |
以下の人間が連署で、京都に居る吉見信頼に書簡を送る。 ①内藤弘矩の兄内藤武盛 ②豊田元秀 ③杉重隆 ④杉弘重 ⑤二保武安 ⑥間田弘縄 ⑦陶弘護 以下の主旨の内容であった。 足利義政に忠節を致せという細川勝元殿の書簡を頂きましたが、大内教幸殿は老齢である為、大内殿の息子加嘉丸を奉公させるという事で大内殿に一味同心したので、細川殿に此れを取り次ぎ、速やかに公方の私信と室町幕府の安堵状を下される様にして頂きたい。 |
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| 1,470 | 3 | 14 | 多賀高忠が、観音寺城馬場に於いて、六角高頼方を破る。 | |
| ≈ | 1,470 | 4 | 此の頃、今八幡宮(現在の山口県山口市上宇野令)の神主は、国が傾こうとしている事を憂い、毎日夜に神殿にて密かに祈りを捧げていた。或る日、此の神主は京都にて、大内政弘に 摩利支天像の掛け軸を、陶弘護に太刀を渡した。 | |
| ≈ | 1,470 | 4 | 1 | 小倉宮の血を引く西陣南帝が、紀伊国有田郡(現在の和歌山県)にて挙兵する。 |
| 1,470 | 4 | 9 | 西陣南帝が紀伊国海草郡藤白(現在の和歌山県海南市)に入る。郡の者の大半が西陣南帝に味方した。 | |
| 1,470 | 4 | 11 |
第186世興福寺別当経覚が、大友親繁に、長野宗雄を以下2ヶ所の代官職に任命させる。 ①田川郡糸田荘(現在の福岡県) ②田川郡田原荘(現在の福岡県田川郡川崎町) 長野は此の頃、大内氏と不和になり、大友氏の被官となって、糸田荘・田原荘で合わせて以下を納めさせられた。 ①進納500貫文 ②補任料50貫文 ③奉行分25貫文 |
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| ≈ | 1,470 | 4 | 30 | 西陣南帝が大和国に入る。 |
| ≈ | 1,470 | 5 | 後花園上皇の、後南朝の残党征伐の治罰の綸旨が発せられる。 | |
| 1,470 | 5 | 14 |
勝龍寺城の搦手北の門で東軍と西軍が交戦する。安富又次郎が、お供を連れて以下2ヶ所を焼き払った。 ①馬場(現在の京都府長岡京市) ②古市(現在の京都府長岡京市神足麦生付近) |
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| 1,470 | 5 | 16 |
山名是豊率いる軍が勝龍寺城に出陣する。其の後、野田泰忠率いる西岡被官衆は、東軍の布陣する以下3ヶ所に火を放った。 ①上里館(現在の京都府京都市西京区の上里地区) ②石見城(現在の京都府京都市西京区大原野石見町) ③井内館(現在の京都府京都府長岡京市井ノ内地区) そして、向日河原(小畑川の河原)で合戦が行われた。 |
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| 1,470 | 5 | 26 | 大内政弘の家臣で筑前国守護代の仁保盛安の息子仁保十郎が、大内政弘の陣営を出て東軍に寝返る。 | |
| 1,470 | 6 | 3 | 山城国淀(現在の京都府京都市伏見区淀本町)にて東軍と西軍が交戦する。 | |
| ≈ | 1,470 | 6 | 10 |
山名宗全を始めとする西軍諸将が西陣南帝を天皇に擁立し、京都御所に迎え入れようとしているとの風聞が立ち始める。山名は、以下3名を味方に付けている東軍の権威に対抗する為に、西陣南帝の天皇擁立を画策していた。 ①後土御門天皇 ②後花園上皇 ③足利義政 しかし、後南朝と所領が重なっていた畠山義就は、西陣南帝の天皇擁立に反対した。 |
| 1,470 | 6 | 18 | 仁保家の総領仁保弘有が、安芸国西条(現在の広島県東広島市西条地区)衆を率いて、大内武治と共に大内政弘に背いて東軍に寝返る。 | |
| 1,470 | 6 | 19 | 摂津国茨木にて東軍と西軍が交戦する。 | |
| ≈ | 1,470 | 7 |
此の頃から2ヶ月程、多賀高忠が築城させた如意ヶ嶽城(現在の京都府京都市左京区鹿ケ谷菖蒲谷町)を拠点に、以下2名や被官が山科や勧修寺へ出陣し、西軍と戦う。 ①武田国信 ②多賀高忠 |
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| 1,470 | 7 | 10 | 仁保十郎が、奈良を経由して西下する。 | |
| 1,470 | 7 | 12 | 西軍が賀茂御祖神社(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町)を焼失させる。又同日、東軍は八坂神社を焼失させた。 | |
| 1,470 | 7 | 23 | 畠山義就が、足利義視を始めとする西軍諸将の説得により、西陣南帝の天皇擁立を了承する。 | |
| 1,470 | 8 | 15 | 勧修寺に立て籠もり防衛線を敷いていた逸見繁経率いる軍が、西軍の襲撃を受ける。結果、逸見を始めとする200名が討たれ、勧修寺は燃やされた。 | |
| 1,470 | 8 | 16 | 西軍が、醍醐寺(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)の東軍を破り、醍醐寺・民家を焼失させる。 | |
| 1,470 | 9 | 1 |
陶弘護が、以下2名に対し、大内政弘に与して本意を達するべく計略を巡らし、疎意の無い事を誓う誓書を送る。 ①益田兼堯 ②兼堯の嫡男益田貞兼 |
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| 1,470 | 9 | 14 | 山科家が、広橋綱光を通じて丹波国宮田荘の当知行安堵を室町幕府に申請する。 | |
| 1,470 | 9 | 15 | 朝倉孝景が、坂井郡河口荘本庄郷(現在の福井県あわら市)・大口郷(現在の福井県あわら市)の済物を押領する。 | |
| ≈ | 1,470 | 10 | 武田信賢率いる軍が、如意ヶ嶽城に集結する。体制の立て直しを行った。しかし此の頃から両軍で、寝返りが横行し始めた。 | |
| 1,470 | 11 | 8 | 少将殿御局が、長坂口(現在の京都府京都市北区鷹峯千束町・鷹峯一ノ坂・鷹峯長坂・鷹峯堂ノ庭町)の関所の件に於ける山科家からの依頼状を紛失した為、第17代室町幕府武家伝奏広橋綱光に女房奉書を再提出する。 | |
| 1,470 | 11 | 22 |
山科言国が申し上げた長坂口の関所の件に就いて、女中を通じて少将殿御局に取り次ぎ、足利義政に伺いを立てた所、足利から、奉行に命じて奉書をを作成させる様にとの沙汰が有った。此れにより、山科家に当知行安堵の奉行人奉書が発給される事となったが、同日、広橋綱光が、飯尾為信に対し以下の主旨の書簡を送る。 ①広橋頼光殿が此の様な書簡を下され、大沢重胤が持参して奉書を整えました。 ②山科言国が申し上げた長坂口の関所の管理に就いて、従来の知行に従い、奉書を作成する様に殿御沙汰が有りました。 此の件に就いては、少将殿御局を通じて申し上げた所、御渡しされたので、ご承知おき下さい。 |
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| 1,470 | 12 | 12 | 大内教幸が、安芸国へ向けて出発する。 | |