西暦1,469年は、足利義視が西軍に走って「西幕府」が生まれ、応仁の乱が二人の将軍を戴く構図に固まった年である。1月頃、後花園上皇が足利義視征伐の為に東軍へ治罰の院宣を発給し、足利義政も自軍に義視征伐を命じたが、1月5日に西軍が比叡山へ使いを出して義視を迎え入れ、1月7日には延暦寺に立ち寄っていた義視が山名宗全の屋敷に入って西軍に寝返り、勢い付いた西軍は義視を将軍とする西幕府を形成した。5月頃には大内政弘の要請により足利義視の内書が鎮西・四国の諸大名へ多数送付され、1月27日頃には足利成氏が義視の西軍参加を待って、足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘(現在の栃木県足利市)への攻撃を開始している。西国では、1月6日に陶弘房が京都の陣営にて死去し、大内政弘が京都で従軍していた隙に豊前国・筑後国の賊徒等が蜂起、陶弘護は大内政弘の命で加冠し「弘」の字を貰って元服し、第8代陶家当主に就任した。大内政弘率いる軍は9月2日に東軍へ帰順した池田氏の居城池田城(現在の大阪府池田市城山町)を落城させたが、11月19日には山名是豊・宇野政秀率いる大軍を前に兵庫の確保に失敗し、11月25日に池田城を出発した。丹後国では、1月頃に摂津之親が第19代室町幕府丹後国守護に就任した後、5月頃に武田信賢が足利義政から丹後国を与えられて第20代室町幕府丹後国守護となり、5月12日には逸見真正が粟屋賢家等を討ち入らせ細川政国も天竺賢実率いる軍を差し向けて一色氏を宮津湾や府中に追い込んだが、丹後国守護代延永直信が必死に防戦し、9月頃には山名宗全の命で但馬国から駆け付けた垣屋氏の援軍と共に普甲寺(現在の京都府宮津市小田)に布陣して天竺賢実を討ち取った。近江国では、6月頃に六角高頼が観音寺城奪還の為に出陣し、室町幕府は六角政堯を罷免して京極持清を第20代室町幕府近江国守護に据えたが、激昂した高頼は観音寺城を奪還して籠城、山内政綱・伊庭貞隆・伊庭行隆を配して東軍を撃退した。しかし9月1日の押立城を皮切りに京極方が攻勢を強め、9月23日に多賀高忠が金剛寺城を、9月25日に慈恩寺城を破り、10月1日には観音寺城下石寺で六角方を破って観音寺城を落城させ、多賀は足利義政から感状を受け取った。京都でも6月2日に西軍が松尾の谷の城を落として西芳寺等を焼き、畠山義就率いる軍が谷ヶ堂を攻め落として西岡被官衆を丹波国へ逃亡させ、8月17日には東軍が清水寺・六道珍皇寺・建仁寺を焼失させている。九州では大友親繁が第12代室町幕府筑後国守護に就任して豊後国守護職と兼任し、12月24日には南朝皇胤の末裔を称する兄弟が吉野と熊野で蜂起した。足利義視は西暦1439年3月3日に足利義教と側室小宰相局の間に生まれ、西暦1443年に出家し、西暦1464年12月23日に還俗して足利義政の後継者と定められ、西暦1468年12月26日に延暦寺へ逃走した人物であり、其の足で西軍の陣へ入って将軍を戴く二つの幕府が並び立つ形が生じた。陶弘護は西暦1455年10月13日に生まれ、西暦1467年9月20日に龍文寺で受衣した人物であり、父陶弘房の死により十四歳で家督を継いだ事になる。吉野と熊野で蜂起した兄弟が称した南朝皇胤の血筋は、西暦1392年11月19日に後亀山天皇が後小松天皇へ三種の神器を渡して以来、西暦1443年10月16日の内裏襲撃、西暦1457年12月18日の赤松氏遺臣に依る八尺瓊勾玉の奪還と、半世紀以上に渡って皇統の正統を争い続けて来た側の末裔である。大友親繁の筑後国守護就任は、西暦1468年11月頃から始めた九州侵攻の成果に当たる。

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年月日 出来事
1,469 大友親繁が、第12代室町幕府筑後国守護に就任する。豊後国守護職との兼任となった。
1,469 河野教通が、伊予国へ帰還する。
1,469 1 後花園上皇が、足利義視征伐の為、東軍に治罰の院宣を発給する。此れを受けて足利義政は、自軍に足利義視征伐を命じた。
1,469 1 足利義政が、御料所である丹後国与謝郡(現在の京都府与謝郡伊根町・与謝野町、現在の京都府宮津市・京丹後市・福知山市)の分郡守護に摂津之親を任じる。此れにより摂津は、第19代室町幕府丹後国守護に就任した。又、間人(現在の京都府京丹後市丹後町)の門四郎家国が、李氏朝鮮に派遣された。
1,469 1 5 西軍が、比叡山に使いを出して足利義視を迎え入れる。
1,469 1 6 陶弘房が、京都の陣営にて死去する。大内政弘は京都にて従軍していた為、此の隙に豊前国・筑後国の賊徒等が蜂起した。其の後陶弘護は、大内政弘の命で加冠し、大内から「弘」の字を貰い元服した。斯うして弘護は、第8代陶家当主に就任した。
1,469 1 7 延暦寺に立ち寄っていた足利義視が、山名宗全の屋敷に入る。此れにより足利は、西軍に寝返った。勢い付いた西軍は、足利を将軍とする「西幕府」を形成した。
1,469 1 24 数日前に朝倉孝景が斯波義敏に降参したとの報が京都に齎される。
1,469 1 27 足利成氏が、足利義政の代官長尾景人の守備する下野国足利荘(現在の栃木県足利市)への攻撃を開始する。成氏は、足利義視が西軍に参加するのを待ち、攻撃の機会を窺っていた。
1,469 1 31 西軍が山科を襲撃する。武田信賢は、山科郷民と協力して此れを退けた。
1,469 3 12 足利義政が、越前国人深町久清に対し、朝倉孝景に従い斯波義廉を討つ様命じる。足利は深町の知行の安堵を約束した。
1,469 5 大内政弘の要請により、足利義視の内書が鎮西・四国の諸大名に多数送付される。
1,469 5 武田信賢が、足利義政から丹後国を与えられ、第20代室町幕府丹後国守護に就任する。同時に、摂津之親の後任として、細川政国が、丹後国与謝郡の分郡守護に任じられた。
1,469 5 4 山名是豊の息子の山名頼忠が、九日城(現在の兵庫県豊岡市九日市上町)を攻める。
1,469 5 12 逸見真正が、以下の人間を丹後国に討ち入らせる。
①粟屋賢家
②温品氏
③青江氏
此れを受けて細川政国も、天竺賢実率いる軍を丹後国へ差し向けた。細川勢は優位に戦いを進め、一色氏の勢力を宮津湾や府中(現在の京都府宮津市)に追い込むが、丹後国守護代延永直信率いる軍が、必死の防戦に努めた。
1,469 5 30 谷ヶ堂(現在の京都府京都市西京区松室地家山)を本拠とする、野田泰忠率いる西岡被官衆が、西軍の鶏冠井政益率いる軍が籠城していた鶏冠井城を襲撃する。
1,469 6 六角高頼が、観音寺城奪還の為出陣する。此れを受けて室町幕府は、六角政堯の近江国守護職を罷免し、京極持清を第20代室町幕府近江国守護に据えた。此れに激昂した高頼は、観音寺城を奪還し、修復して籠城した。京極持清は、以下2名を観音寺城に派遣した。
①多賀高忠
②政堯
対する高頼は、以下3名を観音寺城と其の支城及び砦に配置し、東軍を撃退した。
①山内政綱
②伊庭貞隆
③伊庭行隆
1,469 6 観音寺城に派遣された多賀高忠に代わり、武田信賢に京都の東口の確保が命じられる。武田は、瓜生山(現在の京都府京都市左京区一乗寺松原町)に北白川城を築かせた。
1,469 6 2 西軍が、松尾(現在の京都府京都市西京区松尾谷松尾山町付近)の谷の城を落とす。又同日、以下と民家が焼失した。
①西芳寺(現在の京都府京都市西京区松尾神ケ谷町)
②峰ヶ堂(現在の京都府京都市西京区御陵峰ケ堂)
1,469 6 2 畠山義就率いる軍が、谷ヶ堂を攻め落とす。西岡被官衆は丹波国へ逃亡した。
1,469 6 13 西幕府が、大野氏・河野通春に対し、以下2名の征伐を命じる御教書を発する。
①河野通秋
②河野通光
1,469 6 30 朝倉孝景が、深町久清に加勢を依頼する。朝倉は深町に、知行の安堵を約束した。
1,469 7 24 西軍が以下に攻め込む。
①摂津国
②丹波国
1,469 7 28 以下2名が、丸岡城(現在の京都府亀岡市余部町古城)の防備に当たる。
①野田泰忠
②細川勝元方の安富又次郎
1,469 8 9 伊勢貞親が朝倉孝景に対し「『貴方の側に参じて忠誠を尽くすべき』とのご意向を述べられ、実に立派な事でございます。では、御内書を書いて下さい」という主旨の書簡を送る。
1,469 8 17 東軍が以下の寺を焼失させる。
①清水寺
②六道珍皇寺(現在の京都府京都市東山区小松町)
③建仁寺(現在の京都府京都市東山区大和大路通四条下る小松町)
1,469 8 18 東軍が籠城していた安照寺城(現在の大阪府高槻市真上町)が西軍に落とされる。此れにより、野田泰忠の下に、以下2名の抱えている忍頂寺城(現在の大阪府茨木市)が苦戦しているとの報告が入った。
①薬師寺長忠
②四宮長能
1,469 9 延永直信率いる軍が、山名宗全の命で但馬国から駆け付けた以下2名率いる援軍と共に、普甲寺(現在の京都府宮津市小田)に布陣する。
①垣屋宗忠の息子垣屋平右衛門尉
②垣屋出雲守
そして、細川勝元方の天竺賢実等と交戦し、天竺を討った。
1,469 9 1 京極持清方が、六角高頼方の押立城(現在の滋賀県東近江市下里町)を落城させる。
1,469 9 2 大内政弘率いる軍が、東軍に帰順した池田氏の居城である池田城(現在の大阪府池田市城山町)を落城させる。
1,469 9 6 京極持清方が、六角高頼方の梁瀬城(現在の滋賀県東近江市五個荘簗瀬町)を落城させる。
1,469 9 8 武田信賢勢の以下2名が、丹後国へ攻め入る。
①逸見繁経
②粟屋元隆
しかし、一色氏被官で丹後国守護代の延永直信が此れを退けた。
1,469 9 23 京極持清方の多賀高忠が、六角高頼方の山内政綱の守備する金剛寺城(現在の滋賀県近江八幡市)を攻め、落城させる。近江国甲賀郡佐治荘(現在の滋賀県甲賀市甲賀町小佐治付近)の佐治城を本拠とする佐治氏は、山内に付いて活躍したものの、部下の戦死者を多数出し、佐治為重の息子も戦死した。
1,469 9 25 多賀高忠が、慈恩寺城(現在の滋賀県近江八幡市)に於いて、六角高頼方を破る。
1,469 10 1 多賀高忠が、観音寺城下石寺に於いて、六角高頼方を破る。多賀高忠率いる軍は、観音寺城を落城させ、其の後東軍は、六角高頼を追撃した。多賀は足利義政から感状を受け取った。
1,469 11 18 興福寺の新供衆が、三国湊の件に関し、朝倉孝景に書簡を送る。
1,469 11 19 池田城に居た大内政弘率いる軍が、以下2名の率いる大軍を前に、兵庫の確保に失敗する。
①山名是豊
②宇野政秀
1,469 11 25 大内政弘率いる軍が池田城を出発する。此の頃野田泰忠は丹波国に居た。
1,469 12 24 南朝皇胤の末裔を称する兄弟が、以下2ヶ所で蜂起する。
①吉野(西陣南帝(兄)が蜂起)
②熊野(西陣南帝の弟が蜂起)
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