西暦1401〜1500年は、室町幕府の足利将軍家が日御座の御剣を新調し中山王国と交流を持った時代である。河野教通と河野通春の間で伊予国の内紛が激化し、応仁の乱が勃発した。コロンブスが新大陸に到達し先住民を虐殺、大航海時代が幕を開けた。

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コロンブスの先住民大量殺人に関する電子書籍 クリストファー・コロンブスは偉人では無い。
年月日 出来事
1,467 一条兼良の文庫である桃華坊文庫には、105kgもの文書が収められていた。
1,467 1 30 畠山義就が、自身の陣営に加わった山名宗全の支援の下、5,000名を率いて上洛する。其の後、大智院派の管領する千本地蔵院に滞在した。そして、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)に布陣した。畠山は、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政に圧力を掛けた。
1,467 2 5 畠山政長が椀飯を務める。
1,467 2 6 足利義政が、春日万里小路(現在の京都府京都市中京区坂本町・舟屋町付近)に所在する畠山政長の屋敷への御成を取り止め、花の御所(現在の京都府京都市上京区築山南半町付近)に畠山義就を招く。義就が足利に圧力を掛けた結果であった。山名宗全の支持を失った政長は、畠山家の家督を事実上奪われた。
1,467 2 9 足利義政が、畠山政長の管領職を罷免し、春日万里小路の屋敷を畠山義就に明け渡す様命じる。政長は此れを拒否し、神保長誠等と共に自身の屋敷の防衛を強化した。同日足利は、山名宗全の屋敷の酒宴に出席し、義就が饗応した。足利は、義就・山名を支持する姿勢を示した。
1,467 2 12 斯波義廉が第20代管領に就任する。
1,467 2 12 室町幕府が、評定始を行う。
1,467 2 15 山名宗全が椀飯を務める。
1,467 2 19 以下2名が御所巻を画策する。
①細川勝元
②畠山政長
花の御所を包囲して威圧し、足利義政に畠山義就征伐の命令を出させる事を意図した。しかし、其の計画を細川の正室春林寺殿が山名宗全に漏らした為、以下が先に花の御所を制圧した。
①山名
②畠山義就
③斯波義廉
そして、内裏から以下2名を迎え入れ、花の御所に避難させる事に成功した。
①後花園上皇
②第103代天皇後土御門天皇
1,467 2 21 足利義政が、畠山家の争いは畠山家同士で決着する様、畠山政長方・畠山義就方の双方に命じる。加えて、細川勝元に政長の援助の中止を命じた。細川は、義就による山名宗全の援助の中止を条件に承諾した。其の後細川は、武士の風上にも置けないとして批判された。山名達は、足利に対し政長・細川の追放を訴え、畠山家の争いは畠山家同士で決着する様命じられているにも拘らず、義就に加勢した。
1,467 2 21 深夜、畠山政長が、春日万里小路の自身の屋敷を焼き払い、神保長誠の助言により、自身の一族や成身院光宣を含む2,000名の兵を率い、上御霊神社(現在の京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)に布陣する。
1,467 2 22 早朝、畠山義就が兵3,000名余を率い、畠山政長の布陣する上御霊神社を襲撃する。以下3名も加勢した。
①朝倉孝景
②山名宗全
③山名政豊(宗全の命により加勢)
細川勝元は此の段階では動かず、静観した。政長は持ち堪えられず、丸一日の合戦の末、上御霊神社の拝殿に放火し、細川の屋敷に退却した。足利義視は義就を支援し、細川は面目を失った。神保長誠は、其の後奮戦し、上杉定正に其の武勇を激賞された。
1,467 2 25 朝倉孝景が、在洛する以下2名を襲撃し、追放する。
①斯波持種
②持種の息子斯波義孝
1,467 3 2 政所内談始が行われる。
1,467 3 28 足利義政への伺事が行われる。
1,467 3 29 足利義視が、畠山政長・畠山義就両陣営に対し和睦を呼び掛ける。しかし失敗に終わった。
1,467 4 細川勝元が、土岐政康を第23代室町幕府伊勢国守護一色義直の統治する伊勢国へ派遣する。
1,467 4 7 節句であった此の日、山名宗全を始めとする諸大名が花の御所に参賀する。しかし、細川勝元は欠席した。諸大名は、細川が戦をする積もりなのだと悟った。
1,467 5 細川勝元方の兵が、山名宗全方の年貢米を略奪する事件を相次いで起こす。更に細川方の兵は、宇治川や淀川等の各地の橋を焼き、四門を固めた。
1,467 5 山名方の分国から京進される年貢を、細川方が以下の国で没収する。
①丹波国
②丹後国
1,467 5 少弐教頼が、対馬の宗氏勢力等を動員し、大内政弘領である筑前国に侵攻する。
1,467 5 箱崎津(現在の福岡県福岡市東区箱崎)寄住の以下2名が、朝鮮人漂流民を送還する為に朝鮮に使いを出す。
①藤原安直
②藤原直吉
1,467 5 30 大内政弘が、自身の味方の武士が箱崎津に到着した事を記す。此の頃の遣明船は大量の朝貢品・貿易品を調達する必要が有り、箱崎には重要貿易品であった硫黄が保管されていた。
1,467 6 細川勝元が、斯波義敏を第17代室町幕府越前国守護斯波義廉が統治する越前国へ派遣する。義敏は、義廉方を圧迫した。
1,467 6 細川勝元が、赤松政則の家臣宇野政秀を播磨国へ派遣する。赤松は、赤松家の旧領であった播磨国・備前国・美作国に侵攻させた。旧領だった事もあり、旧臣・牢人・寺社・百姓・土民が協力し、数日で旧領を奪回した。
1,467 6 細川勝元が、諸大名に上洛を要請する。畠山政長等が参集した。斯うして、細川の屋敷と花の御所を中心とした京都北部から東に布陣した細川方と、堀川西岸に建てられた山名宗全の屋敷と京都中央に位置する斯波義廉の屋敷を拠点とする山名方の構図がはっきりし、前者が東軍、後者が西軍と呼称された。其々以下の陣容であった。
①東軍
❶細川
❷足利義視
❸政長
❹斯波義敏
❺武田信繁の弐男武田信賢
❻成身院光宣
❼細川勝久
❽京極持清
❾赤松政則
❿富樫政親
②西軍
❶山名宗全
❷足利義尚
❸畠山義就
❹斯波義廉
❺一色義直
❻朝倉孝景
❼甲斐敏光
❽六角高頼
❾土岐成頼
1,467 6 一色義直が、武田信賢との確執及び若狭国・三河国を復旧する目的から西軍に与した為、丹後国守護職・伊勢国守護職を罷免される。
1,467 6 山名宗全が、大内政弘に出陣を要請する。
1,467 6 4 領地を巡って相論を起こしていた以下2名が、担当奉行を通じて足利義政に証文等を提出する。
①訴人:壬生晨照(担当奉行:諏訪忠郷)
②論人:大宮長興(担当奉行:飯尾貞有)
1,467 6 5 前日の諏訪忠郷の提出した証文に理が有ると考えた飯尾貞有が、余酔と称し、花の御所での証文提出を欠席する。
1,467 6 8 飯尾貞有が、足利義政に大宮長興の証文を提出する。しかし足利は、飯尾の対応を不快とし、壬生晨照の支証に分が有るとして、壬生方の勝訴の裁許を下した。
1,467 6 10 2日前の裁許により、足利義政による御判御教書の発給が決定される。此の当時、斯波義廉が西軍に属していた為、御判御教書の発給に難渋し、前年から発給されていなかった。管領を介さず、御判奉行伊勢貞藤に直接下される事となった。
1,467 6 11 大内政弘が、周防国・長門国を始めとする8ヶ国の数万の兵を率い、山口を出発する。以下2名も此の中に居た。
①河野通春
②陶弘房
弘房は、家の事は陶弘護に任せていた。大内の本隊は海路で、以下を経由して瀬戸内海を東上した。
①野上(現在の山口県周南市)
②柳井(現在の山口県)
③屋代島(現在の山口県大島郡周防大島町)
④室津(現在の兵庫県たつの市)
1,467 6 14 足利義政による御判御教書が発給される。広慶院が日野富子に口添えを依頼し、日野が諏方忠郷に言い付け、発給に至った。
1,467 6 21 山名宗全が評定を開き、五辻通大宮東(現在の京都府京都市上京区観世町)に本陣を置く。そして軍勢を招集した。
1,467 6 22 若狭国小浜の一色義直の勢力を駆逐していた武田信賢が上洛する。
1,467 6 22 越前国の斯波義敏が攻め入ったとの報告を受け、斯波義廉が困惑する。
1,467 6 27 夜明け前、花の御所の隣の一色義直の屋敷を襲撃する事を意図し、武田信賢が花の御所と山名宗全の屋敷の中間に位置する実相院(現在の京都府京都市上京区実相院町)を、成身院光宣が実相院に近接し一色の屋敷に隣接する土倉正実坊を其々占拠する。そして夜明け頃、武田・成身院等が、足利義政を味方に付ける事を意図し、一色の屋敷を襲撃し占拠した。一色は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。此れが成功し、細川勝元は、戦火から保護するという名目で花の御所を占拠して足利義政を保護し、自身の屋敷に本陣を置いた。斯うして東軍は、西軍征伐の大義名分を得た。西軍は、実相院・正実坊の奪還を試みたが、東軍の反撃により失敗し、山名の屋敷付近まで退却した。
1,467 6 27 東軍と西軍が、一条大宮(現在の京都府京都市上京区下石橋南半町)にて市街戦を繰り広げる。そんな中、西軍は山名宗全の屋敷近くの細川勝久の屋敷に目を付け、斯波義廉が、朝倉孝景・甲斐敏光を引き連れて細川の屋敷へ向かった。此れに対し東軍は、京極持清が細川の救援に向かい、一条通を西進して斯波率いる軍を襲撃した。しかし、朝倉の反撃に遭って敗走した。其の後赤松政則が、一条通を南下し、正親町通(現在の京都府京都市上京区の中立売通)を進んで迂回して斯波率いる軍を襲撃した。疲弊していた斯波達は退却した。自邸で抵抗していた細川は、此れを焼き払って退却し、第8代室町幕府阿波国守護細川成之の屋敷に逃げ込んだ。戦闘は翌日の18時迄続いた。最終的に以下や民家等が焼失した。
①行願寺(現在の京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)
②知恩寺(現在の京都府京都市左京区田中門前町)
1,467 6 27 山名宗全が、分国の兵を招集し、以下が呼応する。
①垣屋氏
②田結庄氏
③八木氏
1,467 6 28 此の日から翌日に掛けて、以下の人間等の屋敷が炎上する。
①細川勝久(屋敷は現在の京都府京都市下京区富小路通四条下る徳正寺町の徳正寺に所在)
②細川教春
③第8代室町幕府淡路国守護細川成春
1,467 6 29 足利義政が両軍に対し、停戦して和睦する様命じる。此れにより両者痛み分けとなったものの、足利と花の御所を押さえた東軍が優位となった状態で停戦となった。
1,467 7 伊勢貞親が、足利義政に呼び戻され、伊勢国から上洛する。此れにより足利義視は孤立した。
1,467 7 足利義視が、牙旗を下され東軍の主将となる。足利は、東軍から山名家の縁者を追放し、東軍と通じた奉行衆を殺害した。
1,467 7 古市胤栄が上洛する。西軍に属した。
1,467 7 4 足利義政が、細川勝元に足利将軍旗を与える。
1,467 7 8 祇園会が中止となる。
1,467 7 12 飯尾為数が、西軍に通じたとして、足利義視に暗殺される。又同日、両軍の間で戦闘が発生し、上京の多くが焼失した。
1,467 7 14 武田氏被官白井備中守が討死する。
1,467 7 14 斯波義廉が、東軍への降参条件として、朝倉孝景の首級を要求する。
1,467 7 15 武田信賢率いる軍が、二条通(現在の京都府京都市中京区)に下る途上、朝倉孝景勢の待ち伏せに遭い、約80名が討ち取られる。
1,467 7 15 後花園上皇が、以下の内容の書簡を伏見宮貞常親王に送り、出家の意思を伝える。
此度の戦は、時の流れとはいえ、只々驚いています。出家は私の本望ではありましたが、在位中は其れを忍んでいました。後土御門天皇の御代の始めの儀式を執り行う事が出来ました。今となると、俗世への執心等無い所に、此の様な大乱が起こり、いよいよ世俗との関わりを断とうと思いまして、出家の本意を遂げようという心境です。後土御門天皇の始めに此の様な事が起こってしまい、只々恥入っております。出家の意思が万が一漏れた場合、武家が止めるでしょう。そうなっては口惜しい事です。無上菩提の妨げにならない様、呉々も内密に進めて下さい。
1,467 7 23 西軍が金閣寺に布陣する。
1,467 8 2 武田信賢率いる軍が、斯波義廉の屋敷を襲撃する。しかし退却した。
1,467 8 5 後花園上皇が、以下2名を室町幕府に遣わせ、停戦を要請する。
①伏見宮貞常親王
②第85代関白一条兼良
しかし、細川勝元は無視した。
1,467 8 8 後花園上皇が、以下2名を室町幕府に遣わせ、再度停戦を要請する。
①足利満詮の息子義賢
②正親町三条実雅
1,467 8 10 武田信賢率いる軍が、斯波義廉の屋敷を襲撃する。しかし数名が朝倉孝景勢に討たれた。
1,467 8 19 大内政弘率いる軍が、20,000〜30,000名の軍勢で播磨国兵庫津(現在の兵庫県神戸市兵庫区)に入る。此の内2,000〜3,000名は河野通春が率いていた。細川勝元は、以下2名に花の御所への動座を求めた。
①後花園上皇
②後土御門天皇
1,467 9 細川勝元等が、伊勢貞藤が西軍に与したとして室町幕府から追放する。
1,467 9 5 大内政弘が、尼崎にて、若衆が敵対した為、焼き討ちにして現地住民を殺害する。
1,467 9 8 大内政弘が、河野水軍・村上水軍・三島水軍等の瀬戸内水軍を率い、大物浦の以下の場所にて、上陸を阻止しようとする細川勝元・赤松政則の軍と交戦し、撃破する。
①難波(現在の兵庫県尼崎市西本町付近)
②水堂(現在の兵庫県尼崎市立花町付近)
此の戦闘により、河野通春等は戦功を挙げた。其の後大内率いる軍は、尼崎を焼き払い、10,000名の兵と2,000隻の船団と共に上洛し、東寺に布陣した。そして後に焼失した梶井門跡(現在の京都府京都市北区紫野下築山町付近)に移り本陣とした。其の後大内達は、兵站基地や大輪田泊(現在の兵庫県神戸市兵庫区)で激しい攻防を展開し、軈て戦線は、摂津国・丹波国・近江国の周辺諸国へと移っていった。通春と河野教通の兄河野通生は、摂津国へ向かった。
1,467 9 8 夜、足利義視が出発する。足利義政が伊勢貞親を呼び戻した事が切っ掛けであった。此の行動に失望した義政は、後継者を足利義尚とする事を検討し始めた。
1,467 9 20 西軍が下京に火を放つ。
1,467 9 20 大内政弘率いる軍が、東寺に布陣する。
1,467 9 20 陶弘護が、龍文寺(現在の山口県周南市長穂門前)にて、第3世龍文寺住職器之為璠より受衣し、法名を「孝勲」、号を「忠建」と称す。
1,467 9 20 河野氏の奉行人が連署奉書を発し、河野教通から忽那通光に、恵良城での勲功の賞として、以下2ヶ所の所領が与えられる。
①出作(現在の愛媛県伊予郡松前町)
②鹿子
1,467 9 21 足利義視が、伊勢国国司木造教親の陣所の中山殿に入る。木造は足利に「北畠教具を頼りなさい」と助言した。足利は、軍事力・経済力を保持していながら、幕政には不干渉で中立の立場を取り、和歌等の貴族的文化を持っていた北畠に惹かれ、伊勢国への逃亡を決意した。其の後足利は、木造に警護され、武者小路通(現在の京都府京都市上京区)を東へ向かい、蛸薬師通(現在の京都府京都市中京区)を経由して一条通(現在の京都府京都市右京区)へ向かった。釘貫門は、東軍の富樫政親の兵が守っていたが、木造は「三条公敦殿は病気で東山に居り、足利殿が見舞いに参るのである。開門せよ」という主旨の発言をした。しかし富樫は不審がって開けず「鍵が無い」と答えた為、木造は、予てから準備していた合鍵で開門した。そして足利は、近江国坂本(現在の滋賀県大津市坂本・坂本本町・下阪本)に入り、石川次郎の館にて、お忍びで来ていた日野富子と暇乞いをし、北条早雲を伴って伊賀国を経由し、伊勢国に入った。
1,467 9 21 大内政弘が上洛する。此れにより、畠山義就を始めとする西軍は勢い付いた。
1,467 9 29 武田信賢率いる軍が、等持院(現在の京都府京都市北区等持院北町)に布陣する畠山義就勢に矢を射掛ける。しかし反撃に遭い、退却するも途中で討たれ、三宝院(現在の京都府京都市伏見区醍醐東大路町)に駆け込んだ。畠山は追撃し、三宝院を攻めた。武田信繁の四男武田元綱が奮戦したものの、東軍は敗れ、畠山によって三宝院に火を放たれ、落とされた。斯うして東軍は、京都の東北部の隅に封じ込められた形となり、追い込まれた。
1,467 10 4 北畠教具が、足利義視を保護する為に長谷寺(現在の奈良県桜井市初瀬)を出発する。そして以下2名を迎え、伊勢国丹生(現在の三重県多気郡多気町)に屋敷を造り、逗留させた。
①足利
②北条早雲
此の際武田信賢は、足利義稙を守り、西軍に送り届けた。
1,467 10 4 足利義政が、畠山義就に停戦勧告を行う。しかし畠山は耳を貸さなかった。
1,467 10 11 畠山義就率いる軍が、土御門内裏(現在の京都府京都市上京区元浄花院町付近)を占拠する。西暦1,467年9月29日から同日迄の戦いで、以下を含む公家の屋敷37戸、
①近衛殿
②鷹司殿
③日野殿
④花山院殿
⑤広橋殿
⑥西園寺殿
及び、以下を含む大名の屋敷や奉行衆の宿所80戸が焼失した。
①吉良氏
②大館氏
③細川教春
④飯尾之種
此れにより、下京の大半は西軍が制圧した形となった。
1,467 10 11 山名宗全率いる軍が、細川勝元の屋敷を襲撃する。
1,467 10 12 以下2名が上洛する。
①細川勝元の家臣秋庭元明
②赤松政則の家臣浦上則宗
秋庭・浦上は、細川の命により大内政弘率いる軍と摂津国で交戦したものの撤退し、大内の後を追っての上洛であった。しかし、此の時点で下京の大半が西軍に占拠されていた為、東寺を経由して東に迂回した。
1,467 10 14 武田信賢率いる軍が、畠山義就勢と交戦する。武田側は24名の首が取られた。
1,467 10 14 以下2名が南禅寺(現在の京都府京都市左京区南禅寺福地町)に布陣する。しかし此れが西軍に察知された。
①秋庭元明
②浦上則宗
1,467 10 16 早朝、東軍本体と連絡が取れずに孤立していた以下2名の布陣していた南禅寺山(現在の京都府京都市左京区南禅寺南禅寺山町付近)に、大内政弘率いる軍が攻撃を開始する。
①秋庭元明
②浦上則宗
此の戦いにより、以下が灰燼に帰した。
①南禅寺
②青蓮院(現在の京都府京都市東山区粟田口三条坊町)
秋庭・浦上の陣は、俄仕立てで防御も不十分であったが、摂津国での雪辱に燃え、大石等を投げ落として防戦し、大内率いる軍を退けた。次に、山名宗全率いる軍が日ノ岡(現在の京都府京都市山科区)から攻め上ったが、大石等を投げ落とされ、退けられた。三番手として、遊佐氏・誉田氏が山科から攻め上った。しかし東軍が木々の間や岩陰から矢の雨を浴びせ、此れを退けた。次に、四番手として甲斐氏・朝倉孝景が如意ヶ嶽から下って攻め込んだが、谷が深く充分な戦闘が行えない中、石礫を浴びて退却した。
1,467 10 18 後花園上皇が、花の御所にて出家する。其の後室町幕府は、後花園上皇に対し、西軍征伐の綸旨の発給を求めるも、後花園上皇は断固として拒否した。
1,467 10 29 武田信賢が、勝定院(現在の京都府京都市下京区七条御所ノ内本町)の陣所を畠山義就率いる軍に攻められ、退却する。
1,467 10 29 南禅寺山を攻めていた西軍が、攻撃を止めて洛中に戻る。以下2名は其の隙に北へ迂回して、吉田山(現在の京都府京都市左京区吉田神楽岡町)・上御霊神社を経由して東軍本陣と合流した。
①秋庭元明
②浦上則宗
以下2名は、其々の家臣と再会出来た事を喜んだものの、東軍の戦況は厳しく、花の御所や其れに隣接する相国寺・細川勝元の屋敷等の上京の拠点に押し込められた。
①細川勝元
②赤松政則
1,467 10 30 以下の人間が率いる西軍30,000名程度の軍勢が、朝倉孝景等と合流し、烏丸小路(現在の京都府京都市の烏丸通)・東洞院通・高倉通を経由して、相国寺及び其の周辺を襲撃する。
①畠山義就
②畠山義統
③大内政弘
④一色義直
⑤土岐成頼
⑥六角高頼
対する東軍は、相国寺にて立て籠もって、以下の人間が率いる3,000騎が迎え撃った。
①細川勝元の猶子細川勝之
②細川勝元の重臣安富元綱
③武田信繁の参男武田国信
三条坊門殿は、以下2名が500騎余で守備していた。
①伊勢国の住人関民部少輔
②備前国の住人松田次郎左衛門尉
しかし、西軍の猛攻の前に直ぐに敗れ、松田は討たれ、関は相国寺に退却した。軈て、西軍に内通した相国寺の僧が、相国寺に火を放つと、高倉殿を守備していた武田信賢と、足利義政邸である烏丸殿を守備していた京極持清は、西軍が相国寺を攻め落としたと思い込み、出雲路(現在の京都府京都市北区出雲路立テ本町)に退却した。火の手を見た西軍は、一斉に相国寺に突入した。相国寺を破られたら隣は花の御所という後が無い東軍は、総力を挙げて白兵戦を展開した。以下3名は、配下500名と馬廻だけで総門を固め、石橋から攻め入る大軍を迎え撃って7度退けたが、東門から西軍が再度攻め込んだ為、東門へ向かい、其処で配下の兵と共に戦死した。
①勝之
②元綱
③元綱の弟安富盛継
次に、大内・土岐が総門を攻め立てた。しかし、浦上則宗等の奮戦により、大内の花の御所侵入は阻止された。其処で、大内率いる軍は、相国寺仏殿の焼け跡から攻め込んだが、以下2名等が防戦し、西軍の侵入を阻止した。
①国信
②赤松政則
しかし東軍は、相国寺を放棄せざるを得なくなった。其の後、時雨が降り、火や煙が少し収まった頃、朝倉・大内が相国寺に陣取り、攻め口が無く戦闘に参加出来なかった一色・六角も此れに続き、相国寺一帯は30,000名の西軍の軍勢に押さえられた。西軍は、討ち取った首級を8輌もの車に載せ、意気揚々と自陣に帰還した。一方足利義政は、日野富子に避難を勧められるも聞かず、いつも通り酒宴に興じていた。
1,467 10 30 後花園上皇が、両軍和睦の為、天下静謐の祈りを神仏に捧げよという主旨の院宣を寺社に発給する。更に後花園上皇は、両軍に勅使を派遣し、和平せよと命じた。しかし細川勝元は、天下静謐とは山名宗全を討つ事であるとし、自軍を鼓舞した。
1,467 10 31 畠山政長が、東軍の危機的状況を打開すべく、4,000名の兵を率い、花の御所の四足門から出撃する。四足門に面した室町通を上り、東へ向かい、相国寺の塔頭の1つである普廣院の焼け跡から西軍に突撃した。細川勝元からの援軍を東からの横槍として投入し、西軍は混乱状態に陥り、6,000名が討たれ、撤退した。特に、一色義直の兵が、相国寺内の蓮池の側で多数の戦死者を出した。西軍は、此れ以上攻めるとなると、花の御所が戦場となる事から、諸将が躊躇い、戦意が低かった事が敗因であった。斯うして畠山は相国寺を掌握したが、其の後朝倉孝景率いる軍が相国寺を奪還した。西軍は相国寺を占拠したものの東軍を攻め切れず、決着の付かない儘戦闘は終了した。前日と併せて、相国寺での戦いは双方に甚大な被害を齎した。
1,467 11 13 六角高頼が、馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)にて六角政堯と交戦する。
1,467 12 31 朝廷が、西軍に与した以下の公家等の官爵剥奪を決定する。
①正親町三条公治
②葉室教忠
③教忠の息子葉室光忠
④阿野季遠
⑤清水谷実久
此の公家達は、日野家と対立していた三条家の一族や縁者が多く含まれていた。
デビアス社創業者セシル・ローズの鉱物支配に関する電子書籍 ンデベレ王を騙し鉱物を奪取。