西暦1466年は、伊勢貞親が京を追われ、室町幕府が大内政弘征伐を決定した年である。10月15日、幕府政所執事伊勢貞親が足利義視を処刑すべきだと足利義政に進言すると、諸大名の猛反発を招き、伊勢は近江国、次いで伊勢国へ逃れ、義視は山名持豊の屋敷に逃れて細川勝元に無実を訴えた。大内政弘征伐は11月10日に細川勝元の要請により決定され、室町幕府による大内政弘の勧誘が失敗した事が背景として有った。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / 韓国の旧暦 / 日本の旧暦 / ヒジュラ暦 / フランス革命暦 / ソビエト連邦暦

≈は「頃」を意味しています。

年月日 出来事
≈ 1,466 1 伊勢貞親が、斯波義廉の守護職を罷免させるべく策動していた。
1,466 3 21 三国湊(現在の福井県坂井市三国町山王付近)が内膳司領とされた事に関し、興福寺学侶・衆徒が訴える。
1,466 5 14 此の時点で、後土御門天皇即位の際に壬生晴富に下賜される予定であった1村が、まだ壬生に下賜されていなかった。壬生は、今回仰せつけられなければ、窮困してどうしようもないと嘆いた。
1,466 5 24 河野通生が、忽那通光に、忽那島の東分検断職を安堵する。
≈ 1,466 6 古市胤栄が、斯波義廉から所領を与えられる。
1,466 8 21 正岡俚孝が、河野氏奉行人奉書を発し、忽那通光に対し、井出郷(現在の愛媛県)の得重の地頭職を安堵する。
1,466 10 15 第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢は京を追われ、近江国、次いで伊勢国へ逃れた。対する義視は、山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。
≈ 1,466 10 30 室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に、河野の支援を止める様第18代相国寺鹿苑院(現在の京都府京都市上京区相国寺門前町)僧録龍崗真圭に説得させる。
≈ 1,466 11 3 武田元綱率いる軍が、風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃する。戦闘は、恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に展開され、2週間程続いた。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した以下2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。
①忽那通光
②山崎城(現在の愛媛県伊予市上三谷)主東俊之
1,466 11 10 細川勝元の要請により、室町幕府が、大内政弘征伐を決定する。室町幕府は、吉川経基に対しても出兵を命じた。室町幕府による大内政弘の勧誘が失敗した事が背景として有った。
1,466 12 9 河野教通が、忽那通光の恵良城に於ける戦功を賞する。
1,466 12 19 河野教通が、忽那通光に対し、恵良城に於ける戦功を称揚する感状を与える。