西暦1,466年は、幕府政所執事伊勢貞親の失脚と大内政弘征伐の決定により、翌年の大乱への道が定まった年である。1月頃、伊勢貞親が斯波義廉の守護職を罷免させるべく策動していた。3月21日には三国湊(現在の福井県坂井市三国町山王付近)が内膳司領とされた事に関し、興福寺学侶・衆徒が訴えている。5月14日の時点では、後土御門天皇即位の際に壬生晴富に下賜される予定であった1村が、まだ壬生に下賜されておらず、壬生は、今回仰せつけられなければ窮困してどうしようもないと嘆いた。5月24日、河野通生が忽那通光に忽那島の東分検断職を安堵し、6月頃には古市胤栄が斯波義廉から所領を与えられている。8月21日には正岡俚孝が河野氏奉行人奉書を発し、忽那通光に対し井出郷(現在の愛媛県)の得重の地頭職を安堵した。10月15日、第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢は京を追われ、近江国、次いで伊勢国へ逃れた。対する義視は、山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えている。10月30日頃には室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に河野の支援を止める様、第18代相国寺鹿苑院僧録龍崗真圭に説得させた。11月3日頃、武田元綱率いる軍が風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃する。戦闘は恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に展開され、2週間程続いた。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努め、通生に従軍した忽那通光と山崎城(現在の愛媛県伊予市上三谷)主東俊之は奮戦し、通生は其の戦況を教通に報告している。11月10日には細川勝元の要請により室町幕府が大内政弘征伐を決定し、吉川経基に対しても出兵を命じた。室町幕府による大内政弘の勧誘が失敗した事が背景に有った。12月9日、河野教通が忽那通光の恵良城に於ける戦功を賞し、12月19日には其の戦功を称揚する感状を与えている。伊勢貞親が処刑を進言した足利義視は、西暦1464年12月23日に足利義政に請われて還俗し後継者と定められた人物であり、西暦1465年12月11日の足利義尚の誕生で立場が揺らいだ矢先の事であった。義視が山名持豊の屋敷へ逃れて細川勝元へ訴えたという此の一件で、後に東西へ分かれる二人が同じ側に立っている。大内政弘は西暦1465年9月23日に父大内教弘の跡を継ぎ河野通春を支援し続けた当主であり、説得も勧誘も退けられた末に幕府が征伐を決めた事で、伊予国の争いは中央の大名を巻き込む形へ広がった。忽那氏への安堵は西暦1444年以来続く形であり、西暦1464年8月25日の河野通秋から忽那通賢への安堵に続いて、此の年は通生から通光へ受け継がれている。壬生晴富の嘆きは、西暦1431年以来続く大宮家と壬生家の家職を巡る争いの傍らで、朝廷の家が実入りの当てを幕府や天皇の下賜に頼らざるを得なかった事を伝えている。翌西暦1467年1月30日には畠山義就が山名宗全の支えを得て上洛し、2月9日に政長が管領職を追われ、2月12日には斯波義廉が第20代管領へ据わる。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / 韓国の旧暦 / 日本の旧暦 / ヒジュラ暦 / フランス革命暦 / ソビエト連邦暦

≈は「頃」を意味しています。

皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー
年月日 出来事
1,466 1 伊勢貞親が、斯波義廉の守護職を罷免させるべく策動していた。
1,466 3 21 三国湊(現在の福井県坂井市三国町山王付近)が内膳司領とされた事に関し、興福寺学侶・衆徒が訴える。
1,466 5 14 此の時点で、後土御門天皇即位の際に壬生晴富に下賜される予定であった1村が、まだ壬生に下賜されていなかった。壬生は、今回仰せつけられなければ、窮困してどうしようもないと嘆いた。
1,466 5 24 河野通生が、忽那通光に、忽那島の東分検断職を安堵する。
1,466 6 古市胤栄が、斯波義廉から所領を与えられる。
1,466 8 21 正岡俚孝が、河野氏奉行人奉書を発し、忽那通光に対し、井出郷(現在の愛媛県)の得重の地頭職を安堵する。
1,466 10 15 第8代室町幕府征夷大将軍足利義政の独裁を支えていた幕府政所執事伊勢貞親が、足利義視を処刑すべきだと義政に進言する。此れは諸大名の猛反発を招き、伊勢は京を追われ、近江国、次いで伊勢国へ逃れた。対する義視は、山名持豊の屋敷に逃れ、細川勝元に無実を訴えた。
1,466 10 30 室町幕府が、河野通春の孤立を意図し、大内政弘に、河野の支援を止める様第18代相国寺鹿苑院(現在の京都府京都市上京区相国寺門前町)僧録龍崗真圭に説得させる。
1,466 11 3 武田元綱率いる軍が、風早郡(現在の愛媛県松山市)を襲撃する。戦闘は、恵良城(現在の愛媛県松山市上難波)を中心に展開され、2週間程続いた。此の時、河野教通は上洛していた為、河野通生が、風早郡・忽那島の水軍を指揮して防戦に努めた。通生に従軍した以下2名は奮戦し、通生は、其の戦況を教通に報告した。
①忽那通光
②山崎城(現在の愛媛県伊予市上三谷)主東俊之
1,466 11 10 細川勝元の要請により、室町幕府が、大内政弘征伐を決定する。室町幕府は、吉川経基に対しても出兵を命じた。室町幕府による大内政弘の勧誘が失敗した事が背景として有った。
1,466 12 9 河野教通が、忽那通光の恵良城に於ける戦功を賞する。
1,466 12 19 河野教通が、忽那通光に対し、恵良城に於ける戦功を称揚する感状を与える。
皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー