西暦1,465年は、伊予国を巡る攻防が大内家の支援によって逆転し、京都では足利義尚の誕生が後継争いの火種となった年である。壬生晨照が官務に就任し、大宮長興から官務の地位を奪い返した。3月13日には河野通春と河野教通の弟河野通生が、土居家分の地頭職を善応寺に寄進している。4月頃、大内教弘が室町幕府からの伊予国への出陣要請を了承し、4月10日には足利義視が日野重子の旧邸である高倉殿を「今出川殿」と改めて移住した。5月13日、室町幕府が、細川勝元等が「河野通春の不義が露顕した」として河野征伐を申し出た事に関し協議する。5月25日には細川賢氏が観念寺(現在の愛媛県西条市上市)に、6月19日には大祝氏の在所に禁制を掲げた。7月頃、室町幕府は細川勝元の申し出を受け入れ、細川賢氏・細川成之を始めとする近国の諸将に河野通春征伐を命じ、山名是豊にも伊予国への出兵を命じている。此の頃、幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入ったが、途上で病に罹り、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内は興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野を支援する。大内に呼応した河野通春方の南宮内少輔・得能三郎等は禅城寺(現在の愛媛県松山市道後姫塚の義安寺)にて自害し、重見通実等は和気郡湊山(現在の愛媛県松山市港山町)にて戦死、土佐国一方守護代細川持益は河野通春に降伏した。9月頃、細川勝元は讃岐国・土佐国の国人領主等を通じて大野氏・森山氏・重見氏に河野通春を反抗させ、通春を湯築城から追い払って土佐国守護代新開遠江守を入城させたが、通春は港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がって細川勢と対峙している。9月23日、大内教弘が興居島(現在の愛媛県松山市)にて病没し、大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援して室町幕府と対峙し、10月頃には興居島から港山城を救援しつつ湯築城へ兵を派遣して落城させ、森山氏・重見氏も討たれて細川勝元勢は駆逐された。細川勝元は10月17日・10月29日に毛利豊元へ、12月頃には毛利煕元・小早川煕平へ重ねて援軍を依頼している。京都では8月17日に足利義視が足利義政・日野富子の勧めにより日野良子を正室に迎え、12月11日には足利義政と日野富子の間に足利義尚が生誕した。義政は足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし次期征夷大将軍として据え、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立し、富子は自身の兄日野勝光と結託して幕政へ関与し始めた。12月24日には足利義政が小早川元平に越智郡大島の1/4の地頭職等を安堵している。大内教弘は前年の西暦1464年12月11日に室町幕府から河野通春征伐を命じられた当人であり、其の教弘が敵と定められた相手を支援した事で、伊予国の情勢は一年で覆った。西暦1462年に湯築城を捨てて島嶼部へ退いた通春が、三年を経て其の城を取り戻した事になる。足利義視の還俗は西暦1464年12月23日の事であり、其の一年後に義尚が生まれた事が、後の後継争いの起点となる。壬生晨照と大宮長興の官務を巡る争いは西暦1431年以来続いており、西暦1449年11月頃に長興が奪還した地位が此の年に再び晨照の手へ戻った。越智郡大島の地頭職は西暦1461年6月26日に幕府が小早川煕平へ1/4を返した所領である。

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年月日 出来事
1,465 壬生晨照が官務に就任し、大宮長興から官務の地位を奪い返す。
1,465 3 13 以下2名が、土居家分の地頭職を善応寺に寄進する。
①河野通春
②河野教通の弟河野通生
1,465 4 大内教弘が、室町幕府からの伊予国への出陣要請に関し、了承する。
1,465 4 10 足利義視が、日野重子の旧邸である高倉殿を「今出川殿」と改め、移住する。
1,465 5 13 室町幕府が、細川勝元等が「河野通春の不義が露顕した」として、河野征伐を申し出た事に関し、協議する。
1,465 5 25 河野通春征伐の為に伊予国に下向していた細川賢氏が、観念寺(現在の愛媛県西条市上市)に禁制を掲げる。
1,465 6 19 細川賢氏が、大祝氏の在所に禁制を掲げる。
1,465 7 室町幕府が、細川勝元の申し出を受け入れ、以下を始めとする近国の諸将に、河野通春征伐を命じる。
①細川賢氏
②細川成之
同時に勝元は、室町幕府に、近国守護へ其の主旨の御教書を出す様要請した。又此の頃、河野征伐の幕命を受けて大内教弘率いる軍が伊予国に入った。伊予国へ向かう途上、大内は病気に罹ったが、室町幕府から派遣された板坂三位が治療に当たった。其の後大内は、興居島に布陣して港山城を牽制していたが、突如河野を支援した。此の頃、山名是豊も、室町幕府から伊予国への出兵を命じられた。
1,465 7 室町幕府が、以下に対し、細川勝元への合力を要請する。
①毛利豊元
②小早川煕平
③吉川之経
④出羽祐房
⑤徳屋氏
1,465 7 大内教弘に呼応した河野通春方の以下2名等が、禅城寺(現在の愛媛県松山市道後姫塚の義安寺)にて自害する。
①南宮内少輔
②得能三郎
1,465 7 重見通実等が、和気郡湊山(現在の愛媛県松山市港山町)にて戦死する。
1,465 7 土佐国一方守護代細川持益が、河野通春に降伏する。
1,465 7 18 室町幕府が、以下2名に対し、細川勝元に協力する様命じる。
①小早川煕平
②吉川元経
又細川自身も、以下2名に対し、出兵を促した。
①毛利豊元
②出羽祐房
1,465 8 17 足利義視が、以下2名の勧めにより、日野良子を正室に迎える。
①足利義政
②日野富子
1,465 9 以下の人間が、安芸灘の島々から渡海し、細川勝元方の軍に合流する。
①毛利豊元
②小早川煕平
③吉川之経
④出羽祐房
⑤徳屋氏
1,465 9 細川勝元が、讃岐国・土佐国の国人領主等を通じ、伊予国へ影響力を与え、以下の人間に河野通春に反抗させて圧迫し、通春を湯築城から追い払い、土佐国守護代新開遠江守を入城させる。
①大野氏
②森山氏
③重見氏
通春は、港山城に籠城し、河野教通の留守の為に伊予国に居た河野通生と繋がり、細川勢と対峙した。
1,465 9 15 細川勝元が、伊予国の在地領主である大野氏に、河野通春征伐を命じる。
1,465 9 23 大内教弘が、興居島(現在の愛媛県松山市)にて病没する。大内政弘が家督を継いだ。政弘も河野通春を支援し、室町幕府と対峙した。教弘の死去を伝え聞いた細川勝元は「上意に叛いたから天罰が下ったのだ」と語った。
1,465 10 細川勝元方の兵が、伊予国に進軍し、河野通春率いる軍と交戦する。大内政弘方の兵も、河野の軍に加わっていた。河野は、大内教弘の援軍を受けて、細川方の兵を退けた。
1,465 10 大内政弘が、興居島から港山城を救援しつつ、湯築城へ兵を派遣し、落城させる。又、以下も討たれ、細川勝元勢は駆逐された。
①森山氏
②重見氏
1,465 10 17 細川勝元が、河野通春征伐に関し、毛利豊元に支援を求める。
1,465 10 29 細川勝元が、毛利豊元に、河野通春との戦闘中に味方の土佐国守護代新開遠江守等が戦死した旨を伝え、伊予国への出兵と援軍の派遣を要請する。
1,465 12 細川勝元が、河野通春の勢力が衰退しない為、重ねて以下2名に書簡を送り、援軍を依頼する。
①毛利煕元
②小早川煕平
1,465 12 11 以下2名の間に足利義尚が生誕する。
①足利義政
②日野富子
義政は、足利義視を無理矢理還俗させて自身の猶子とし、次期征夷大将軍として据えて、細川勝元を執事として政務から離れる積もりであったが、義尚の誕生により、義尚を征夷大将軍にさせようとする富子と対立した。富子は、自身の兄日野勝光と結託し、幕政へ関与し始めた。
1,465 12 24 足利義政が、小早川元平に越智郡大島の1/4の地頭職等を安堵する。
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