以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
クリストファー・コロンブスは偉人では無い。
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,471 | 1 | 13 | 陶弘護率いる軍が、鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて、大内教幸率いる軍を破る。大内は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)へ敗走した。大内は、備後国の東軍に援助を命ぜられ、廿日市に兵を派遣し、自らも周防国・安芸国の国境まで進軍していた。 | |
| 1,471 | 1 | 14 | 山名是豊が、備後国へ帰国する為の条件として、山崎城の守衛を命じられる。 | |
| 1,471 | 1 | 19 | 陶弘護率いる軍が、江良城(現在の山口県萩市吉部上)にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。 | |
| ≈ | 1,471 | 2 | 武田元綱が、毛利豊元の誘いに乗り、大内政弘に与し、西軍に寝返る。此の頃若狭武田氏が分郡守護を努める安芸国は、大内を始めとする西軍に押されていた。 | |
| ≈ | 1,471 | 3 | 粟生(現在の京都府長岡京市)にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。 | |
| 1,471 | 3 | 20 | 細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院(現在の奈良県奈良市高畑町)門主政覚に伝えられる。 | |
| ≈ | 1,471 | 4 | 仁保十郎が、東福寺(現在の京都府京都市東山区本町)の東軍の陣中に加わる。其の後仁保は西下し、大内家の領国を経由し大内教幸と合流した。 | |
| 1,471 | 4 | 13 | 山名頼忠が、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋は、山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ、居留守役として在城していた。垣屋平右衛門尉が宵田城(現在の兵庫県豊岡市日高町久斗)から駆け付け、奈佐等を富辺羅山(現在の兵庫県豊岡市戸牧)に追い崩した。其の敗報を聞いた山名は敗走した。最終的に奈佐氏は滅びた。 | |
| 1,471 | 4 | 21 |
垣屋宗忠が、普甲寺にて以下と交戦する。 ①武田氏 ②天竺氏 |
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| 1,471 | 4 | 23 |
九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した以下2名を挟み撃ちにした。 ①垣屋平右衛門尉 ②垣屋出雲守 垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った為、山名は退却した。平右衛門尉と出雲守は反撃に転じ、山名を普甲寺に押し返し、以下を破った。 ①武田信賢 ②天竺賢実 此の普甲寺の戦は乱戦となり、出雲守は、戦線が勝っていたにも拘らず、負けたと思い戦線を離脱して九日城に退却し、物笑いとなった。九日城には、山名宗全が、家臣であった宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。 |
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| 1,471 | 6 | 8 | 河野教通の手によって、浦戸神社(現在の愛媛県今治市大三島町)が造営される。 | |
| 1,471 | 6 | 9 |
以下の書簡が朝倉孝景宛に送付される。 ①足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡 ②足利義政による、朝倉を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状 |
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| 1,471 | 6 | 20 | 武田信賢が病死する。 | |
| 1,471 | 6 | 26 | 夜、朝倉氏景が、細川成之の屋敷に馳せ参じる。 | |
| 1,471 | 6 | 27 | 朝倉氏景が、征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見する。朝倉は、御剣を拝領した。 | |
| ≈ | 1,471 | 7 | 粟生にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。 | |
| 1,471 | 7 | 11 | 朝倉氏景が越前国に入る。若狭国を経由したが、越前国下向の手配は全て赤松氏被官中村三郎が行った。 | |
| ≈ | 1,471 | 8 | 京都で天然痘が流行する。此れにより両軍の士気は大きく下がった。 | |
| ≈ | 1,471 | 8 | 斯波義廉が、朝倉孝景を一乗谷(現在の福井県福井市城戸ノ内町)付近にて攻撃する。朝倉は富樫政親に支援を求めたが、富樫にとって朝倉は旧敵であった事から拒否された。此れに怒った朝倉は、第14代加賀国守護(北半国)赤松政則経由で、富樫成春の弐男富樫幸千代の擁立を画策した。 | |
| 1,471 | 8 | 9 | 勝龍寺城にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。 | |
| 1,471 | 9 | 10 | 西軍諸将の要請を受けた西陣南帝が、北野天満宮松梅院に入る。そして、西陣南帝は天皇として擁立された。山名宗全は、自身の妹の居る西陣(現在の京都府京都市上京区薬師町付近)近くに所在する比丘尼寺の安山院を行在所とし、西陣南帝を迎えた。四条氏が、西陣南帝に奉仕した。 | |
| 1,471 | 11 | 16 | 山科言国が申し上げた諸々の件に就いて、女中を通じて少将殿御局に取り次ぎ、更に飯尾為信経由で伺いを立てた所、足利義政から、奉書を作成する様にとの沙汰が発せられる。 | |
| 1,471 | 12 | 13 | 陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。 | |