西暦1,471年は、朝倉孝景の東軍寝返りと西陣南帝の天皇擁立という、応仁の乱の帰趨を分ける二つの出来事が起きた年である。1月13日、陶弘護率いる軍が鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて大内教幸率いる軍を破ると、教幸は残党を引き連れて吉見信頼を頼り津和野へ敗走し、1月19日には江良城(現在の山口県萩市吉部上)でも残党が破られ、其の後教幸が吉見の助けを借りて長門国阿武郡を攻撃した際も、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いで教幸勢は潰走した。陶弘護は12月13日、再度益田貞兼に誓書を送り大内政弘方として同盟を結んでいる。越前国では、3月20日に細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し朝倉氏景も斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院門主政覚に伝えられ、6月9日には足利義政が朝倉を第18代室町幕府越前国守護に補任する御内書と管領副状が送付された。朝倉氏景は6月26日夜に細川成之の屋敷へ馳せ参じ、6月27日に征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見して御剣を拝領し、7月11日に越前国へ入った。8月頃には斯波義廉が一乗谷(現在の福井県福井市城戸ノ内町)付近で朝倉孝景を攻撃し、朝倉は富樫政親に支援を求めたが旧敵である事から拒否され、怒った朝倉は赤松政則経由で富樫幸千代の擁立を画策した。9月10日、西軍諸将の要請を受けた西陣南帝が北野天満宮松梅院に入って天皇として擁立され、山名宗全は自身の妹の居る西陣近くの比丘尼寺安山院を行在所として西陣南帝を迎え、四条氏が奉仕した。但馬国では4月13日に山名頼忠が円山川東岸に布陣して九日城の垣屋宗忠を攻めたが垣屋平右衛門尉が宵田城から駆け付けて奈佐等を富辺羅山に追い崩し、4月21日には垣屋宗忠が普甲寺で武田氏・天竺氏と交戦、4月23日の再度の攻撃でも垣屋氏が富辺羅山を破って山名を普甲寺に押し返し、武田信賢・天竺賢実を破ったが、乱戦の中で垣屋出雲守が勝っていたにも拘らず負けたと思い九日城へ退却して物笑いとなった。6月20日には武田信賢が病死している。安芸国では2月頃に武田元綱が毛利豊元の誘いに乗って大内政弘に与し西軍へ寝返り、京都周辺では粟生や勝龍寺城で交戦が続いたが、8月頃に京都で天然痘が流行し、両軍の士気は大きく下がった。朝倉孝景は西暦1467年2月22日の御霊合戦で畠山義就に加勢して以来西軍の主力を務めた武将であり、西暦1468年9月19日に伊勢貞親から東軍勧誘の書簡を受けて越前国へ下向し、西暦1470年1月10日には戦功を以って態度を示す様求められていた。守護職を約束された上での寝返りは、西軍の一角を崩す最も大きな転機となる。陶弘護は西暦1455年10月13日に生まれ、西暦1469年1月6日に父陶弘房の死により第8代陶家当主となった人物であり、西暦1470年3月頃に赤間関で挙兵した大内教幸の誘いを退けた末に、此の年其の教幸を二度に渡って破った。西陣南帝の天皇擁立は、西暦1392年11月19日の皇統の合一が譲国の儀を経ずに行われて以来、西暦1443年10月16日の内裏襲撃、西暦1469年12月24日の吉野・熊野での蜂起と続いた後南朝の動きの到達点に当たる。陶と大内教幸の争いは翌西暦1472年も続き、1月頃に吉見信頼が嘉年城へ進み、2月5日には教幸が長門国阿武郡で破れて豊前国へ落ちる。富樫政親は西暦1464年に第15代加賀国守護へ就任した人物であり、朝倉との不和が加賀国の分裂を招いて行く。

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≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
1,471 1 13 陶弘護率いる軍が、鞍掛山(現在の山口県岩国市玖珂町)にて、大内教幸率いる軍を破る。大内は残党を引き連れ、大内家の家臣吉見信頼を頼って津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町田二穂)へ敗走した。大内は、備後国の東軍に援助を命ぜられ、廿日市に兵を派遣し、自らも周防国・安芸国の国境まで進軍していた。
1,471 1 14 山名是豊が、備後国へ帰国する為の条件として、山崎城の守衛を命じられる。
1,471 1 19 陶弘護率いる軍が、江良城(現在の山口県萩市吉部上)にて、大内教幸の残党を破る。教幸は其の後も、吉見信頼の助けを借りて兵を集め、長門国阿武郡を攻撃したが、大内政弘の母の命により砦を築いていた陶弘護が此れを防いだ。教幸率いる軍は潰走した。
1,471 2 武田元綱が、毛利豊元の誘いに乗り、大内政弘に与し、西軍に寝返る。此の頃若狭武田氏が分郡守護を努める安芸国は、大内を始めとする西軍に押されていた。
1,471 3 粟生(現在の京都府長岡京市)にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。
1,471 3 20 細川勝元方から、朝倉孝景が斯波義廉の命に背いて東軍に参仕し、朝倉氏景も、越前国へ下向し、斯波義敏の被官となった旨が第21世興福寺大乗院(現在の奈良県奈良市高畑町)門主政覚に伝えられる。
1,471 4 仁保十郎が、東福寺(現在の京都府京都市東山区本町)の東軍の陣中に加わる。其の後仁保は西下し、大内家の領国を経由し大内教幸と合流した。
1,471 4 13 山名頼忠が、円山川東岸に布陣し、奈佐太郎の支援を受けて、九日城に居た西軍の垣屋宗忠を攻撃する。垣屋は、山名宗全の孫亀石丸を養育しつつ、居留守役として在城していた。垣屋平右衛門尉が宵田城(現在の兵庫県豊岡市日高町久斗)から駆け付け、奈佐等を富辺羅山(現在の兵庫県豊岡市戸牧)に追い崩した。其の敗報を聞いた山名は敗走した。最終的に奈佐氏は滅びた。
1,471 4 21 垣屋宗忠が、普甲寺にて以下と交戦する。
①武田氏
②天竺氏
1,471 4 23 九日城の河向かいに布陣していた山名頼忠が、九日城を攻める。山名に味方した奈佐太郎は、富辺羅山に布陣し、一色信長を支援した以下2名を挟み撃ちにした。
①垣屋平右衛門尉
②垣屋出雲守
垣屋氏は、富辺羅山を集中的に攻め、此れを破った為、山名は退却した。平右衛門尉と出雲守は反撃に転じ、山名を普甲寺に押し返し、以下を破った。
①武田信賢
②天竺賢実
此の普甲寺の戦は乱戦となり、出雲守は、戦線が勝っていたにも拘らず、負けたと思い戦線を離脱して九日城に退却し、物笑いとなった。九日城には、山名宗全が、家臣であった宗忠と共に、孫の亀王丸を養育しながら住んだ。
1,471 6 8 河野教通の手によって、浦戸神社(現在の愛媛県今治市大三島町)が造営される。
1,471 6 9 以下の書簡が朝倉孝景宛に送付される。
①足利義政が此度の条々は全て承知し、朝倉氏景の東軍帰属も明白となった為、重ねての御内書が発給された旨を伝える細川勝元の書簡
②足利義政による、朝倉を第18代室町幕府越前国守護に補任する旨の書かれた御内書・管領副状
1,471 6 20 武田信賢が病死する。
1,471 6 26 夜、朝倉氏景が、細川成之の屋敷に馳せ参じる。
1,471 6 27 朝倉氏景が、征夷大将軍直臣の待遇で足利義政に謁見する。朝倉は、御剣を拝領した。
1,471 7 粟生にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。
1,471 7 11 朝倉氏景が越前国に入る。若狭国を経由したが、越前国下向の手配は全て赤松氏被官中村三郎が行った。
1,471 8 京都で天然痘が流行する。此れにより両軍の士気は大きく下がった。
1,471 8 斯波義廉が、朝倉孝景を一乗谷(現在の福井県福井市城戸ノ内町)付近にて攻撃する。朝倉は富樫政親に支援を求めたが、富樫にとって朝倉は旧敵であった事から拒否された。此れに怒った朝倉は、第14代加賀国守護(北半国)赤松政則経由で、富樫成春の弐男富樫幸千代の擁立を画策した。
1,471 8 9 勝龍寺城にて東軍と西軍が交戦する。山名是豊も東軍として参戦した。
1,471 9 10 西軍諸将の要請を受けた西陣南帝が、北野天満宮松梅院に入る。そして、西陣南帝は天皇として擁立された。山名宗全は、自身の妹の居る西陣(現在の京都府京都市上京区薬師町付近)近くに所在する比丘尼寺の安山院を行在所とし、西陣南帝を迎えた。四条氏が、西陣南帝に奉仕した。
1,471 10 7 河野教通が、大山祇神社へ馬を寄進する。
1,471 11 16 山科言国が申し上げた諸々の件に就いて、女中を通じて少将殿御局に取り次ぎ、更に飯尾為信経由で伺いを立てた所、足利義政から、奉書を作成する様にとの沙汰が発せられる。
1,471 12 13 陶弘護が、再度益田貞兼に誓書を送り、大内政弘方として同盟を結ぶ。
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