以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
クリストファー・コロンブスは偉人では無い。
| 年月日 | 出来事 | |||
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| ≈ | 1,472 | 西陣南帝の天皇擁立に賛成していた足利義視が、反対に回る。足利は、朝倉孝景の寝返りによって東軍が勢いを取り戻しつつあった事から、態度を変えた。 | ||
| 1,472 | 神保家の家老格である氷見の鞍川氏が、能登畠山家に影響され、畠山義就方に呼応する動きを見せる。此れを受けて神保長誠は、300名余の率いて越中国へ帰国し、此れを鎮定した。同年神保は、射水郡・婦負郡の守護代に就任した。又神保は、越中国射水郡倉垣荘(現在の富山県射水市・富山市)等の寺社本所領を押領し、勢力の拡大に努めた。 | |||
| ≈ | 1,472 | 1 | 吉見信頼率いる軍が嘉年城(現在の山口県山口市阿東嘉年下)に進軍する。吉見は、大内教幸に長門国西部の諸城を攻略させる形で攻撃を開始し、陶弘護が此れを迎撃した。 | |
| 1,472 | 1 | 17 |
陶弘護が、以下の内容の京都の大内政弘宛の戦況報告の書簡を送る。 ①吉見・三隅・周布・小笠原諸氏による嘉年城包囲 ②益田貞兼が高津城(現在の島根県益田市高津町上市)等の諸城を攻略 ③自身の軍による嘉年城攻略 |
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| 1,472 | 2 | 5 |
陶弘護率いる軍が、長門国阿武郡(現在の山口県阿武郡阿武町)にて、大内教幸率いる軍を破る。大内は豊前国へ敗走し、馬ヶ岳(現在の福岡県行橋市大谷)に入った。仁保盛安も厳島神領に逃れ、以下へ加勢する計画を立てた。 ①玖珂郡山代(現在の山口県岩国市錦町・本郷町・美和町周辺) ②佐波郡得地(現在の山口県山口市徳地地区) |
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| 1,472 | 2 | 11 |
陶弘護が益田貞兼に、近況を伝える以下の主旨の内容を含む書簡を送る。 ①大内教幸は西暦1,472年3月4日に没落し、仁保盛安は安芸国の厳島神社の神領地である宮内村(現在の広島県廿日市市)に逃れたが容れられず、安芸武田家の分領の伴(現在の広島県広島市安佐南区)に退く積もりで、現在国衆と申し合わせて、計略の最中である。 ②仁保から吉見信頼へ宛てた書簡を途中で奪い取ったが、其の書中に玖珂郡山代・佐波郡得地へ加勢する事が書かれている。よって、益田殿の一層の奔走を祈る。 ③吉見信頼の分領並びに庄内郷(現在の山口県防府市牟礼)・黒谷郷(現在の山口県山口市徳地深谷付近)方面への発向計画はどうなっているのか。当方で得た情報によれば、吉見勢は山代及び地福(現在の山口県山口市阿東町大字地福上・大字地福下)方面への進出を企んでいる為、此れを牽制する為にも、背後から吉見領への進攻を急いで貰いたい。 |
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| 1,472 | 2 | 23 |
以下2名による和睦交渉が開始される。 ①細川勝元 ②山名宗全 此の時点で東軍は、大義名分や戦況に於いて優位に立っていた。西軍の降伏で話が進んでいたが、以下3名が反対し、不調に終わった。 ①東軍 ❶赤松政則 ②西軍 ❶畠山義就 ❷大内政弘 |
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| ≈ | 1,472 | 6 | 細川勝元が、細川勝之や家臣と共に髷を落とし、隠居の姿勢を見せ、自身の嫡男である細川政元に家督を継がせる意向を示す。政元の母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘の春林寺殿であり、山名家の血を引く政元に家督を継がせる事で、和睦を進める狙いが有った。 | |
| ≈ | 1,472 | 6 | 山名宗全が切腹を試みるが、未遂に終わる。 | |
| 1,472 | 6 | 16 |
関目彦右衛門尉宛の室町幕府奉行人連署奉書に、以下の主旨の内容が記される。 津田隆光が、借りた物に就いて室町幕府に提訴した。以前、論人である関目は、支状を提出した儘在国しているという。余りにも勝手な振る舞いであり、言語道断である。不日政所に参る様に。 |
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| ≈ | 1,472 | 9 | 山名宗全が、家督を山名政豊に譲り、隠居する。 | |
| 1,472 | 12 | 24 |
津田隆光宛の室町幕府奉行人連署奉書に、以下の主旨の内容が記される。 関目彦右衛門尉は、西暦1,466年の徳政令を破棄する奉書を得ていたが、借状には此の旨が掲載されていなかった為に、関目の主張を退ける。津田は質券の地である近江国富田荘(現在の滋賀県長浜市)の内の知行分を以って本利一倍分を勘定する様に。 |
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