西暦1496年は、美濃の船田合戦が決着し、ポルトガルではユダヤ人政策が追放へと転じた年である。西暦1495年に近江国へ逃れていた石丸利光は5月頃に細川政元へ兵糧代を頼んで室町幕府に支援を依頼し、5月3日、土岐政房が織田寛定征伐の為尾張国に布陣した隙を突いて、利光の息子石丸利高が細川政元・六角高頼・梅戸貞実の支援を受け、利光の進軍中止の指示を拒んで伊勢国・津島・竹鼻・墨俣の経路で美濃国侵攻に向かった。6月20日、石丸利高率いる軍は墨俣で待ち構えていた斎藤利綱率いる軍を破り、土岐成頼が開門した城田寺城へ入城したが、土岐政房の差し向けた斎藤妙純が朝倉貞景と京極高清に援軍を要請し、斎藤方は6月24日に長良川を渡って25日から城田寺城の包囲を開始した。救援に向かった六角高頼率いる軍は美濃国と伊勢国の国境を遮る京極高清率いる軍に敗れて500名余を失い、梅戸貞実も長野氏の妨害により美濃国へ入れず救援に失敗、6月27日には織田寛広の派遣した尾張国勢が、7月6日には朝倉貞景の派遣した越前国勢が包囲網に加わった。7月9日、敗北を悟った石丸利光は自身の切腹と引き換えに土岐成頼と日運を助命する事を条件とする降伏の書簡を送って承諾され、翌10日、籠城を主張する石丸利元を宥めた上で共に自害、7月26日には土岐政房の説得で土岐成頼が城田寺城を出て、7月30日、城田寺城に火が掛けられ土岐元頼も自害した。此の敗北により斎藤利藤も隠居させられている。ポルトガルでは、マヌエル1世がカスティーリャ女王イサベル1世の娘イザベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャを妃に迎えるに当たり、スペイン側がポルトガル領内でのユダヤ教徒追放を求め、マヌエル1世が此れに応じた結果、キリスト教以外の宗教儀式が違法となり、ユダヤ人に対して追放令が出された。西暦1492年にスペインを追われてポルトガルへ逃れ、西暦1495年に奴隷身分から解放されたばかりの人々は、再び行き場を失った事になる。3月にはクリストファー・コロンブスがバルトロメ・デ・ラス・カサスを副総督としてイスパニョーラ島に残し、一行225名がインディオ30名を連れて帰国の為出港している。九州では、大聖院宗心・市河親清等の工作により大友政親と大友義右の不和が再び表面化した。西暦1484年の家督譲渡以来、西暦1485年の逐電、西暦1487年の和解、西暦1489年の讒言と揺れ続けた父子であり、西暦1493年の政変では政親が足利義澄を、義右が足利義稙を支持して割れていた。6月13日に政親は筑前国へ逐電、6月23日には北九州の大内領侵攻の為に豊後国臼杵から出航するも船が遭難して赤間関に流され、大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院に幽閉された。7月7日に大友義右が後継者の居ない儘病死すると政親による毒殺の噂が流れ、激怒した大内義興が征伐の兵を差し向け、7月20日、大友政親は舟木地蔵院にて切腹に追い込まれ、伴衆18名も後を追って自害した。8月には大友親治率いる軍が大友氏館にて大聖院宗心の擁立に加担した市河親清・朽網繁貞等の重臣を鎮圧し、両軍合わせて約500名の戦死者を出した末に第18代大友家当主へ就任した。12月26日には少弐政資が援軍を伴って筑前国へ侵攻し、第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪して肥前国青山城主留守氏を追放し、飯盛山城・高鳥居城等で防戦する河津氏等の筑前国人衆を攻撃した。西暦1478年10月20日に太宰府で大内政弘に破られて以来、十八年振りの旧領回復の試みであった。畿内では9月に細川政元が赤沢朝経を南山城へ派遣して畠山氏と古市氏に圧力を掛け、11月頃に両氏が南山城から撤退している。又、資金不足で修繕の出来ぬ儘朽ちていた文庫は、5月頃に壬生晴富が其の惨状を記して屋根の葺き替えを申し付け、9月18日の指示を経て、9月20日に仮屋の上葺が3日間で完了した。西暦1494年3月に壬生が書き留めた惨状から、二年を経ての応急の手当であった。マヌエル1世は翌西暦1497年3月19日、国内の全ユダヤ教徒へ形式的な改宗を強い、内心の信仰の調査は20年間猶予する形を取る。

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年月日 出来事
1,496 マヌエル1世が、イサベル1世(カスティーリャ女王)の娘のイザベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャを妃に迎えるに当たり、スペイン側はポルトガル領内でのユダヤ教徒追放を求め、マヌエル1世がこれに応じる。結果、ポルトガルでキリスト教以外の宗教儀式は違法となり、ユダヤ人に対しては追放令が出される。
1,496 以下2名の不和が再び表面化する。
①大友政親
②大友義右
原因としては、少弐家対大内家の争いや、足利義稙の催促に如何に対応するか、といった点での意見の対立であったが、此れは以下の人間の工作によって引き起こされた。
①大聖院宗心
②市河親清
③内宮内助
④田北七郎兵衛
⑤田原中務丞
⑥小原新四郎
1,496 3 クリストファー・コロンブスがバルトロメ・デ・ラス・カサスを副総督としてイスパニョーラ島に残し、コロンブス一行225名がインディオ30名を連れて、帰国の為出港する。
1,496 5 壬生晴富が以下の内容を記す。
文庫の破損と修理の件に就いて、近年資金不足の為、修繕を行う事が出来ず、日を追う毎に朽ちて損傷が進んでいます。此の為、後土御門天皇が足利義澄殿に勅命を出し、足利殿も費用の徴収を命じましたが、捻出する事は出来ませんでした。又、文庫の仮屋は先日の大風雨で破損した後、まだ修繕されていない為、漏湿が酷く、言葉に尽くせない程の惨状です。
1,496 5 壬生晴富が、文庫の破損と修理の件に就いて記した翌日、文庫の屋根の葺き替えに就いて申し付ける。
①清元定
②波々伯部氏
1,496 5 大友義右が病を発症する。
1,496 5 近江国に居た石丸利光が、細川政元に対し、兵糧代を頼んで室町幕府に支援を依頼する。
1,496 5 3 土岐政房が織田寛定征伐の為尾張国に布陣した隙を突いて、石丸利光の息子石丸利高が、以下3名等の支援を受けて、美濃国侵攻の為、伊勢国へ向けて出発する。
①細川政元
②六角高頼
③梅戸貞実
利高は、利光の進軍中止の指示を拒否し、以下2名率いる2つの軍勢に分かれて進軍した。
①土岐元頼(総大将)
②日運(副将)
進軍ルートは以下であった。
①伊勢国
②津島(現在の愛知県)
③竹鼻(現在の岐阜県羽島市)
④墨俣(現在の岐阜県大垣市)
1,496 5 22 斎藤妙純の仲裁により、以下2名が和睦する。
①斎藤方の尾張国上四郡守護代織田家織田寛広
②石丸利光方の尾張国下四郡守護代織田家織田寛村
1,496 6 此の時点でまだ文庫の修繕が為されておらず、風雨による漏湿が酷い状態であった。
1,496 6 13 大友政親が、筑前国へ逐電する。
1,496 6 20 石丸利高率いる軍が、墨俣で待ち構えていた斎藤利綱率いる軍を破る。其の後石丸率いる軍は北上し、城田寺城(現在の岐阜県岐阜市城田寺)へ向かった。土岐成頼は、城田寺城を開門し、石丸率いる軍は入城した。此れを受けて土岐政房は、斎藤妙純を城田寺城へ差し向けた。妙純は、以下2名に援軍を要請した。
①朝倉貞景
②京極高清
1,496 6 20 京極高清が、弥高山(現在の滋賀県米原市)に着陣する。京極は、以下を鵜飼(現在の岐阜県岐阜市黒野)に派遣した。
①浅井氏
②三田村氏
1,496 6 23 大友政親が、北九州の大内領侵攻の為挙兵し、立花山城(現在の福岡県福岡市東区下原)を目指し、豊後国臼杵から出航する。しかし、船は遭難し、赤間関に流され、大内義興の家臣杉信濃守に捕えられて舟木地蔵院(現在の山口県宇部市船木)に幽閉された。
1,496 6 24 斎藤妙純方の軍が、城田寺城包囲を意図し、長良川を渡る。
1,496 6 24 六角高頼率いる軍が、城田寺城へ救援に向おうとするも、美濃国と伊勢国の国境を遮る京極高清率いる軍に敗れ、500名余を失う。
1,496 6 25 斎藤妙純方の軍が、城田寺城包囲を開始する。
1,496 6 25 梅戸貞実が、斎藤妙純方の長野氏の妨害により、美濃国へ行けず、石丸利光の救援に失敗する。
1,496 6 27 織田寛広が派遣した尾張国の軍勢が城田寺城に到着し、包囲網に加わる。
1,496 7 6 朝倉貞景が派遣した越前国の軍勢が城田寺城に到着し、包囲網に加わる。
1,496 7 7 大友義右が、後継者の居ない儘病死する。此の際、大友政親が義右を毒殺したとの噂が流れた。
1,496 7 大内義興が、大友政親が大友義右を毒殺したとの話を聞いて激怒し、政親征伐の兵を差し向ける。
1,496 7 9 敗北を悟った石丸利光が、自身の切腹と引き換えに以下2名を助命する事を条件に降伏する旨の書簡を斎藤妙純方に送る。
①土岐成頼
②日運
斎藤方は此れを承諾した。利光は、籠城を主張する石丸利元を宥めた。
1,496 7 10 石丸利光が、石丸利元と共に自害する。又此の日、斎藤妙純方が城田寺城を奇襲した。
1,496 7 20 大友政親が、舟木地蔵院にて切腹に追い込まれる。伴衆18名も後を追って自害した。
1,496 7 26 土岐政房の説得により、土岐成頼が城田寺城から出る。
1,496 7 30 城田寺城に火が掛けられる。此れを受けて、土岐元頼は自害した。
1,496 7 石丸利光方の敗北により、斎藤利藤が隠居させられる。
1,496 8 大友親治率いる軍が、大友氏館(現在の大分県大分市顕徳町)にて、大内義興が大聖院宗心を大友家当主に擁立しようとする動きに加担した以下の重臣等を鎮圧する。
①市河親清
②朽網繁貞
此の戦いで両軍合わせて約500名が戦死した。此れにより大友は、大聖院の家督継承を阻止し、第18代大友家当主に就任した。
1,496 9 細川政元が、赤沢朝経を南山城へ派遣する。以下に対して圧力を掛けた。
①畠山氏
②古市氏
1,496 9 18 文庫の仮屋の葺き替えを行い、適切に取り計らう様指示が出る。
1,496 9 20 文庫の仮屋の葺き替えに関し、上葺が完了する。雨の中でも作業を行い、3日間で完了した。
1,496 10 6 壬生晴富が町広光に対し、文庫の漏湿に関し報告する。
1,496 11 以下が南山城から撤退する。
①畠山氏
②古市氏
1,496 12 26 少弐政資が、以下2名の援軍を伴い、筑前国へ侵攻する。
①大友政親
②大友親治
大内家の領地を攻撃し、旧領回復を狙った。第72代宗像大宮司氏佐の下に在った重代の宝物を強奪し、肥前国青山城(現在の佐賀県唐津市山本)主留守氏を追放した。更に少弐率いる軍は、以下等で防戦する河津氏等の筑前国人衆を攻撃した。
①飯盛山城(現在の福岡県福津市内殿)
②高鳥居城(現在の福岡県糟屋郡篠栗町若杉)
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