西暦1495年は、細川政元に擁立された足利義澄が将軍位に就き、美濃では家臣同士の争いが船田合戦へと燃え上がった年である。1月16日に予定されていた足利義澄の元服の儀は加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為に延期され、1月23日5時に改めて執り行われて、朝廷からの将軍宣下により足利義澄が第11代室町幕府征夷大将軍に就任、細川政元は第29代管領に就任し、伊勢貞宗と共に若年の将軍に代わって政務を担った。西暦1481年に伊豆国堀越で生まれ、西暦1485年に香厳院の跡取りと定められた身が、西暦1493年の明応の政変を経て将軍位へ届いた事になる。美濃では1月5日、石丸利光が大宝寺の開堂式に出席予定であった持是院家の斎藤妙純を道中で暗殺しようと謀ったが悪天候により失敗し、翌6日には船田城で兵を招集して加納城の斎藤を奇襲しようとしたものの西尾直教の密告で発覚、1月15日に土岐成頼の仲介で和睦したが、斎藤は荒田川を挟んで数百mしか離れていない加納城の増強に努めた。5月5日に斎藤利綱と石丸利元が正法寺で対陣し、石丸利光は5月25日に斎藤利藤の孫斎藤利春を、6月30日には斎藤利藤の末子日運を、7月3日には土岐元頼を船田城へ迎え入れた。7月6日に石丸利元が正法寺の門東に柵を設けて加納城と川手城の交通を遮断し周辺に放火すると、7月11日には石丸利定が安養寺を急襲した上で加納城を包囲したが、長井秀弘の固い守りに苦戦して利定は討死し、石丸勢は500名余の死傷者を出して退却、7月14日に織田寛広の援軍約数千名が安養寺の西南に布陣した事で斎藤方の勝利が確定的となった。7月22日には斎藤利安・斎藤利綱率いる3,000名と石丸利信率いる1,000名が激突して古田勝信・古田信清が討たれ、7月28日、石丸利光は船田城に火を放ち、六角高頼を頼って500騎を連れて近江国へ逃れ、伊庭貞隆の世話を受けた。此の争いは翌西暦1496年に城田寺城で決着を見る。10月頃には土岐成頼が嫡男土岐政房に家督と美濃国守護職を譲り、剃髪して舎衛寺に隠居した。西暦1477年12月に応仁の乱の終結に際して足利義視・足利義稙を美濃国へ迎え入れた守護であった。3月24日、大内義興は陶武護の讒言を受けて内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害し、同日其の嫡男内藤弘和も殺害された。弘矩は西暦1482年に大内館で陶弘護を刺した吉見信頼を斬殺した当人であり、讒言した武護は其の陶弘護の嫡男である。義興は後に真相を暴いて武護を誅殺した。4月頃には畠山義豊が紀伊国へ進軍し、呼応した勢力が田辺に乱入して鬪雞神社の社壇が破壊され、7月1日と7月4日には西暦1493年に正覚寺城から逃れた畠山尚順方の小守護代野辺六郎右衛門率いる軍が田辺へ進軍して愛洲構を攻略している。12月頃には畠山義豊の家臣遊佐弥六が山城国守護を名乗って南山城に進駐し、第20世大乗院門主尋尊は此れを古市氏を援護する為ではないかと推測した。又、2月10日には台風で文庫の仮屋が破損し、文書を雨や露から守る為の修繕が行われている。国外では10月25日にマヌエル1世がポルトガル王に即位し、西暦1492年にジョアン2世が奴隷の身分に落としたユダヤ人を、すぐに解放した。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / 韓国の旧暦 / 日本の旧暦 / ヒジュラ暦 / フランス革命暦 / ソビエト連邦暦

≈は「頃」を意味しています。

皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー
年月日 出来事
1,495 1 5 石丸利光が、瑞龍寺(現在の岐阜県岐阜市寺町)の僧悟渓宗頓を招いての大宝寺(現在の岐阜県岐阜市大宝町)の開堂式に出席予定であった持是院家の斎藤妙純を道中で暗殺しようと謀ったが、悪天候により延期されて失敗する。
1,495 1 6 石丸利光が、自身の居城である船田城(現在の岐阜県岐阜市水主町)で兵を招集し、加納城(現在の岐阜県岐阜市加納丸之内)に居る斎藤妙純を奇襲しようとしたが、西尾直教が斎藤に石丸の反逆を密告し、発覚する。
1,495 1 15 石丸利光が、土岐成頼に仲介を頼み、斎藤妙純と和睦する。西尾直教は追放された。しかし其の後斎藤は、加納城の増強に努めた。加納城は、石丸の居る船田城と荒田川を挟んで数百mしか離れていなかった。
1,495 1 16 足利義澄の元服の儀が執り行われる予定であったが、加冠役の細川政元が烏帽子を被る事を嫌がった為、足利は花の御所で1日中待たされ、西暦1,495年1月23日に延期となった。
1,495 1 17 細川義春が病死する。
1,495 1 23 大内氏から3,000疋が、相国寺大智院競秀軒に届けられる。
1,495 1 23 5時、足利義澄の元服の儀が執り行われ、朝廷からの将軍宣下により、足利が第11代室町幕府征夷大将軍に就任する。細川政元は第29代管領に就任し、伊勢貞宗と共に、若年である足利に代わり政務を担った。
1,495 2 10 台風により、文庫の仮屋が破損する。其の為、文書を雨や露から守る為の修繕が行われた。
1,495 3 24 大内義興が、内藤弘矩を大内政弘の屋敷にて殺害する。又同日、弘矩の嫡男の内藤弘和も、義興の差し向けた兵により殺害された。弘矩・弘和勢力の拡大を恐れた陶弘護の嫡男陶武護が「弘矩が大内高弘の擁立を画策している」と義興に讒言していた。後に義興は真相を暴き、武護を誅殺した。
1,495 4 畠山義豊が紀伊国に進軍する。此れに呼応して、畠山に与する以下が挙兵し、田辺(現在の和歌山県)に乱入した。此れにより、鬪雞神社(現在の和歌山県田辺市東陽)の社壇が破壊された。
1,495 5 5 斎藤妙純の弟斎藤利綱が、正法寺(現在の岐阜県岐阜市薬師町)に入る。石丸利光の弟石丸利元も間道から正法寺に入り、北に斎藤軍、南に石丸軍という形で対陣した。
1,495 5 25 石丸利光が、惣領家の斎藤利藤の孫斎藤利春を船田城に迎え入れる。
1,495 6 28 斎藤利春が、風邪で急死する。
1,495 6 30 石丸利光が、斎藤利藤の末子日運を船田城に迎え入れる。
1,495 7 1 畠山尚順方の奥郡(紀伊国の熊野)小守護代野辺六郎右衛門率いる軍が、田辺に進軍する。愛洲構(現在の和歌山県田辺市中三栖の衣笠城)を攻略した。
1,495 7 3 石丸利光が、土岐元頼を船田城に迎え入れる。
1,495 7 4 野辺六郎右衛門率いる軍が、愛洲構(現在の和歌山県田辺市中三栖の衣笠城)を攻略する。
1,495 7 6 石丸利元が、正法寺の門東に柵を設置する。そして、以下の城の交通を遮断して周辺に放火し、商家を焼き払った。
①加納城
②川手城(現在の岐阜県岐阜市正法寺町)
1,495 7 11 西方寺(現在の岐阜県岐阜市加納新本町)に布陣していた石丸利光の一族である石丸利定が、先鋒として出陣し、斎藤妙純方の安養寺(現在の岐阜県岐阜市加納地区)を急襲する。其の後利定率いる軍は、踵を東に向け加納城を包囲した。加納城を守備していた長井秀弘は城門を開いて迎撃したが、利定が敢えて城内に攻め込まなかった為、東門の周辺で激しい戦闘となった。利定率いる軍は、加納城の固い守りに苦戦し、利定は討死した。最終的に利定率いる軍は、500名余の死傷者を出して退却した。
1,495 7 13 石丸利定と共に出陣していた石丸利元が、船田城に帰還する。
1,495 7 14 斎藤妙純方の織田寛広の援軍約数千名が、安養寺の西南に布陣して睨みを効かせる。此れにより、斎藤方の勝利が確定的となった。
1,495 7 22 斎藤妙純が、西郡の土岐元頼方である古田氏征伐の為、自身の同母弟である以下2名率いる3,000名の軍勢を派遣する。
①斎藤利安
②斎藤利綱
石丸利光も、一族の石丸利信率いる1,000名の軍勢を派遣し、両軍が激突した。最終的に斎藤は56名の戦死者を出した。又、石丸勢は130名余の戦死者を出し、中之元城(現在の岐阜県揖斐郡大野町中之元)を守備していた以下2名も討たれ、斎藤方の勝利に終わった。
①古田勝信
②古田信清
1,495 7 28 石丸利光が、船田城に火を放ち、六角高頼を頼って、500騎を連れて近江国に逃れる。其の後石丸は、伊庭貞隆の世話を受けた。
1,495 8 8 相国寺大智院競秀軒の人間が、細川政元の命により、近日中に周防国へ向かう事となる。此の機会に競秀軒の書簡が文主座に送る事となった。大内在京雑掌が関与していた。
1,495 10 土岐成頼が、自身の嫡男である土岐政房に家督と美濃国守護職を譲り、剃髪して舎衛寺(現在の岐阜県岐阜市城田寺)に隠居する。
1,495 10 25 マヌエル1世がポルトガル王に即位する。すぐにユダヤ人を奴隷身分から解放した。
1,495 12 畠山義豊の家臣である遊佐弥六が、山城国守護を名乗り南山城に進駐する。第20世大乗院門主尋尊は、此の遊佐の行動を、古市氏を援護する為ではないかと推測した。
皇室献上品 高級トイレットペーパー 皇室献上品 高級トイレットペーパー