西暦1,482年は、西国の勢力図を一変させる大内館の刃傷が起きた年である。6月13日、吉見信頼が大内館(現在の山口県山口市大殿大路)での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺し、大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩が直様吉見を斬殺した。吉見頼興は陶家の報復を予見して吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。翌6月14日、大内政弘は、陶弘護が吉見信頼と共に死去した事は残念無念であるとの主旨の書簡を右田弘詮に送った。陶は西暦1478年に筑前国守護代に就任して大内政弘と義兄弟の契りを交わし、西暦1480年に同職を弟右田弘詮へ譲り、西暦1481年に伊勢神宮を参詣していた人物であり、刺した吉見信頼も西暦1478年に大内政弘へ謝罪して和睦を許された身であった。凶行の直前、6月頃には吉見信頼が自身の弟の吉見頼興に家督を譲って頼興が第9代石見吉見家当主となり、此の頃信頼は大内政弘に拝謁していた。4月頃には小笠原元長が大内政弘に拝謁し、其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として小笠原に師事し、奥義を学んでおり、同じ頃、西暦1475年11月26日に仁保弘名から池永彦次郎に打ち渡された津隈荘40町の内20町が、大内政弘から毛利弘元に預けられた。京都では、2月21日に足利義政が命じた山荘造営が浄土寺(現在の京都府京都市左京区浄土寺地区)にて着手された。此の普請は西暦1485年の西指庵、西暦1486年の東求堂へと結実してゆく。7月28日には足利義政が足利義尚に政務を譲る意思を表明したが、西暦1479年に政務を執り始めた義尚と実権を握り続ける義政の確執は此の後も続いた。足利義尚の歌壇活動も続き、6月25日に「将軍家百番歌合」、8月頃に「十五番歌合」が開催されて足利・二条持通・近衛政家等が詠人として参加し飛鳥井雅親が判者を務め、9月23日にも千首の歌合が開催された。伊予国では、8月28日に河野通春が居城の港山城にて病没した。西暦1477年に第18代室町幕府伊予国守護に任じられ、西暦1479年の細川義春の侵攻に際して河野教通と一時和睦した人物であった。

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≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
1,482 2 21 足利義政が命じた山荘造営が、浄土寺(現在の京都府京都市左京区浄土寺地区)にて着手される。
1,482 4 小笠原元長が、大内政弘に拝謁する。其の際陶弘護は「武門にある以上、武芸を極めるのは当然であり、武は弓矢を以って要とする。今日、天下の弓矢の道は小笠原を以って規範とするものである」として、小笠原に師事し、奥義を学んだ。
1,482 4 西暦1,475年11月26日に仁保弘名から池永彦次郎に打ち渡された津隈荘40町の内20町が、大内政弘から毛利弘元に預けられる。
1,482 6 吉見信頼が、自身の弟の吉見頼興に家督を譲る。此れにより頼興は、第9代石見吉見家当主となった。又此の頃信頼は、大内政弘に拝謁した。
1,482 6 13 吉見信頼が、大内館(現在の山口県山口市大殿大路)での宴会にて、陶弘護を吉見家の家宝の短刀である鵜噬を用いて刺殺する。大内義興の家臣で長門国守護代の内藤弘矩は、直様吉見を斬殺した。吉見頼興は、陶家の報復を予見し、吉見家の書物を処分したが、報復は行われなかった。
1,482 6 14 大内政弘が、陶弘護が吉見信頼と共に死去した事は残念無念であるとの主旨の書簡を右田弘詮に送る。
1,482 6 25 足利義尚主催の「将軍家百番歌合」が開催される。以下の人間等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。
①足利
②二条持通
③近衛政家
1,482 7 28 足利義政が、足利義尚に政務を譲る意思を表明する。
1,482 8 足利義尚主催の「十五番歌合」が開催される。以下の人間等が詠人として参加し、飛鳥井雅親が判者を務めた。
①足利
②二条持通
③近衛政家
1,482 8 28 河野通春が、居城の港山城にて病没する。
1,482 9 23 足利義尚主催の「将軍家将軍家千首歌合」が開催される。
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