西暦1485年は、コロンブスがパロス・デ・ラ・フロンテーラへ到着してラビーダ修道院長のマルチェーネと会い、足利義政が出家した年である。コロンブスは長男ディエゴ・コロンを連れて到着し、マルチェーネから神父アントニオ・マルチェーナを紹介され、第5代メディナセリ公爵ルイス・デ・ラ・セルダから物資の準備の合意を得た。足利義政の出家は7月26日の事で、臨川寺にて月翁周鏡を戒師とし、剃髪は横川景三が担った。

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年月日 出来事
1,485 クリストファー・コロンブスが長男ディエゴ・コロンを連れて、トラスタマラ朝カスティーリャ女王イサベル1世に航海計画の承認を得る為、パロス・デ・ラ・フロンテーラ(現在のスペインのアンダルシア州ウエルバ県)へ到着する。サンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院長の神父フアン・ペレス・デ・マルチェーネと会った。マルチェーネはコロンブスの航海計画に感銘を受けて、セビリア(現在のスペインのアンダルシア州)の神父アントニオ・マルチェーナを紹介した。マルチェーナに会う為にコロンブスはコロンを預けた。更に以下の人間に会う機会を得、コロンブスの航海計画に興味を持った第5代メディナセリ公爵ルイス・デ・ラ・セルダからコロンブスが求めた数隻の船や食料など3,000〜4,000ドゥカート相当の物資を準備する事に合意した。
①スペイン貴族のメディナ・シドニア家エンリケ・デ・グスマン
②セルダ
1,485 大友親綱の六男大聖院宗心が大友政親・大友義右の離間を図り工作していた事や、大内家による干渉が尚も続いた事から、政親は次第に義右を疎ましく感じる様になり、政親・義右が対立する。そして義右は、叔父の大内政弘の下へ逐電した。政親の正室は、大内教弘の娘であった。
1,485 此の年の時点で、足利義澄は、足利政知の家督継承者が足利茶々丸の儘であった為、天龍寺香厳院(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町付近)の跡取りとなる事が決まっていた。
1,485 5 22 亀泉集証が、山荘造営の一環として本年完成した「西指庵」に入る。其の後「今日、初めて西指庵に入り、其れを見たが、正に天下の奇観である」と記す。本年は、西指庵の他に、以下も完成した。
①超然亭
②浴室
1,485 7 26 足利義政が、臨川寺(現在の京都府京都市右京区嵯峨天龍寺造路町)にて、月翁周鏡を戒師として出家する。剃髪は、第79世相国寺住持横川景三が担った。
1,485 10 29 月翁周鏡が、足利義政の命により、第225世南禅寺住持に就任する。
1,485 12 1 足利義政が命じた山荘造営の一環で、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚が制作される事が決定される。画題として十牛図が考えられたが、阿弥陀に関する10の機縁はないかという事で、足利義政は、五山文学で一番の碩学である横川景三と相談する様、亀泉集証に命じた。
1,485 12 6 足利義政が命じた山荘造営に於ける、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖10枚の制作に関し、阿弥陀の周囲を十僧が囲撓し、各々宝樹下に座す図柄が採用される。狩野正信に1枚描かせる事になり、襖の画面と同じ寸法の紙が狩野に渡された。足利義政は亀泉集証に対し、夏珪・馬遠の筆様か、若しくは其れ以外の筆様でも良いので、1枚描く様指示した。
1,485 12 8 狩野正信が、2幅の草案を提出する。其の際狩野は「馬遠様も良いが、既に西指庵の画様が馬遠様なので、李龍眠様が良いのではないか」と意見を述べた。更に足利家所蔵の馬遠・李龍眠の絵を画様の参考に借りたい旨、及び図様の手本として、九品曼荼羅を取り寄せて欲しい旨を要望した。
1,485 12 30 狩野正信の下に、足利家の御倉に所蔵されていた以下が届けられる。
①李龍眠筆の文殊維摩の画本1幅
②李迪筆の牛の画本2幅
狩野の要望が通った形となった。