西暦1,478年は、西暦1477年に応仁の乱が終結した直後の年であり、大内政弘が西国での覇権を固めた年である。陶弘護は筑前国守護代に就任し、周防国守護代職と兼務する事となった。1月26日に大内政弘が周防国へ帰国すると、陶弘護は柳井津(現在の山口県柳井市)にて大内を出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自身の屋敷で持て成し、大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝して両者は義兄弟の契りを交わした。九州では、1月18日に大友政親が、当方の調停により合戦は止んだものの少弐方が仁保盛安を殺害した為に国中が正体無き成り行きとなり、九州大乱の元になりかねないと記し、4月頃には吉見信頼が大内政弘に謝罪して和睦を求め、大内は此れを認めて陶弘護に筑前国を任せた。10月頃に大内政弘は豊前国・筑前国へ遠征し陶弘護が先駆けとして戦い、10月20日には太宰府にて少弐政資率いる軍を破って少弐達を散り散りとし、城井俊明・周防国分寺住持・馬ヶ岳城城督右田弘量・佐田忠景・仲間盛秀・彦山座主頼有等が祝言を述べに集まった。10月28日からは陶弘護が、頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を博多土井町(現在の福岡県福岡市博多区店屋町)の称名寺の門前に3日間梟首した。10月31日には西暦1469年8月頃以来周防国・長門国へ亡命していた豊前国・筑前国の被官に対し、兵糧料として寺社領を半済としていたものを改め米銭・借物の返済を免除する徳政令が、11月4日には筑後国の被官・国人に対する同様の徳政令が出され、11月11日には箱崎の民衆が博多と同じく筥崎地下にも1,000貫文を賦課し進納すべき旨の請文を大内政弘に提出した。12月26日には大友親繁に与えられていた豊前国守護職が大内教幸に与えられたが、少弐氏が競望した為に大内家と少弐家の対立は継続し、少弐政資を支援した大友氏は少弐氏と不仲になった。中央では、1月頃に一条兼良が京都に戻り足利義尚に政道や和歌等を教え、足利は翌年頃から盛んに歌会を主催する様になり、西暦1481年の「着到千首和歌」「将軍家三十番歌合」へと結実してゆく。8月8日には足利義政が足利義視を赦免したが義視は美濃国に留まり続けた。3月頃には一色義遠が文書で三河国を放棄し、尾張国知多郡も東軍に没収された為、一色政具等と共に槇島城(現在の京都府宇治市槇島町薗場付近)に入り、12月8日には西陣南帝が京都から東海を経由して甲斐国の小石沢(現在の山梨県笛吹市石和町小石和)の観音寺に入り、其の流浪は西暦1479年の奥州下向へ続く。伊予国では、1月15日に河野通春が三島神社に禁制を掲げ、11月20日には河野通春と河野通秋が和気郡(現在の愛媛県松山市)にて交戦し、通春の要請を受けた大内政弘は呉・能美(現在の広島県江田島市)・蒲刈(現在の広島県呉市)に援軍を送らせた。国外では、第212代ローマ教皇シクストゥス4世の許可により、カスティーリャ地方(現在のスペイン中心部)以外でも、スペインに於いて異端審問所が設置された。ヨーロッパのユダヤ人共同体への圧迫は此処から加速し、西暦1481年のユダヤ人街の移設、更には西暦1492年のスペインからのユダヤ人追放へと連なってゆく。

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年月日 出来事
1,478 第212代ローマ教皇シクストゥス4世の許可により、カスティーリャ地方(現在のスペイン中心部)以外で、スペインに於いて異端審問所が設置される。
1,478 陶弘護が、筑前国守護代に就任する。周防国守護代職と兼務する事となった。
1,478 1 一条兼良が京都に戻る。其の後一条は、足利義尚に政道や和歌等を教えた。足利は、翌年頃から盛んに歌会を主催した。
1,478 1 15 河野通春が、三島神社に禁制を掲げる。
1,478 1 18 大友政親が以下の内容を記す。
当方の調停により合戦は止んだが、少弐方が仁保盛安を殺害した為、国中が正体無き成り行きとなった。内藤氏に与した族は遺恨を止めたが、九州大乱の元になりかねない。
1,478 1 26 大内政弘が周防国へ帰国する。其の際陶弘護は、柳井津(現在の山口県柳井市)にて大内を出迎え、富田保(現在の山口県周南市富田)の自身の屋敷で持て成した。大内は「国が平穏無事であったのは其方のお蔭である」と感謝し、大内と陶は義兄弟の契りを交わした。陶は、夜は大内政弘の寝所で控え、昼は饗応した。
1,478 3 一色義遠が、文書で三河国を放棄する。又、尾張国知多郡も東軍に没収された為、義遠は、一色政具等と共に槇島城(現在の京都府宇治市槇島町薗場付近)に入った。
1,478 4 吉見信頼が大内政弘に謝罪し、和睦を求める。大内は此れを認めた。大内は、陶弘護に筑前国を任せ、陶は忠節を尽くした。
1,478 8 8 足利義政が、足利義視を赦免する。しかし義視は、美濃国に留まり続けた。
1,478 9 23 大内政弘が、大内義豊に以下等を預け、知行させる。
①豊前国宇佐郡
②豊前国京都郡二塚(現在の福岡県行橋市)
1,478 10 大内政弘が、以下の国へ遠征を行う。
①豊前国
②筑前国
陶弘護は先駆けとして戦った。
1,478 10 20 大内政弘率いる軍が、太宰府にて少弐政資率いる軍を破る。少弐達は散り散りとなった。此れを受けて、以下を始めとする人間が、大内の下に祝言を述べる為にやって来た。
①城井俊明
②周防国分寺住持
③馬ヶ岳城城督右田弘量
④佐田忠景
⑤仲間盛秀
⑥彦山座主頼有
⑦頼有の息子帥律師
1,478 10 28 此の日から3日間、陶弘護が、頼有の計略により捕らえられた仁保弘名の首級を、博多土井町(現在の福岡県福岡市博多区店屋町)の称名寺の門前に梟首する。
1,478 10 31 大内政弘が、西暦1,469年8月頃以来、周防国・長門国へ亡命していた以下の国の被官に対し、兵糧料として周防国・長門国の寺社領を半済としていたものを、米銭・借物の返済を免除する徳政令を出す。
①豊前国
②筑前国
1,478 11 4 大内政弘が、西暦1,469年以降周防灘を渡って長門国へ逃れていた筑後国の被官・国人に対し、米銭借物の返済を免除する徳政令を出す。
1,478 11 11 箱崎の民衆が、大内政弘が足利家に対する貢納として、博多と同じく筥崎地下にも1,000貫文を賦課し、進納すべき旨の請文を、博多に居た大内政弘に提出する。
1,478 11 20 以下2名が、和気郡(現在の愛媛県松山市)にて交戦する。
①河野通春
②河野通秋
通春は、大内政弘に支援を求めた。大内は、以下に援軍を送らせた。
①呉
②能美(現在の広島県江田島市)
③蒲刈(現在の広島県呉市)
1,478 12 8 西陣南帝が、京都から東海を経由して、甲斐国の小石沢(現在の山梨県笛吹市石和町小石和)の観音寺に入る。
1,478 12 26 大友親繁に与えられていた豊前国守護職が、大内教幸に与えられる。しかし少弐氏が競望した為、大内家と少弐家の対立は継続した。又此の頃、少弐政資を支援した大友氏は、少弐氏と不仲になった。
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