西暦1489年は、陣中に在った将軍が世を去り、東山の山荘が姿を現し始めた年である。4月2日に山荘造営の一環である東山殿(現在の京都府京都市左京区銀閣寺町)が上棟された。西暦1482年2月21日に浄土寺で着手され、西暦1485年に西指庵、西暦1486年に東求堂を生んだ普請が、遂に主屋に及んだ形である。4月16日には足利義尚の病が重篤となり、4月26日10時、義尚は近江国鈎の陣中にて死去した。水と酒しか受け付けない状態であり、臨終に際して足利義政に三首の辞世の句を詠み、遺体は細川政元と日野富子に譲られて凱旋将軍の様な隊列で京都へ帰還した。西暦1487年8月12日の六角高頼征伐の決定から、西暦1488年の甲賀衆の夜襲と発病を経ての、二年に及ぶ在陣の果てであった。日野は足利義視が出家する事を条件に足利義稙を次期征夷大将軍に決定し、5月13日には足利義視・足利義稙・土岐成頼・斎藤妙純が上洛、5月27日に義視は通玄寺にて出家した。義視と義稙は西暦1477年12月に応仁の乱の終結と共に美濃国へ亡命した父子であり、十二年を経て京都の中枢へ戻った事になる。5月10日の葬儀では、遺体の腐臭を防ぐ目的で口・目・鼻に水銀が注入され、日野富子は莫大な資金提供を行い、最後の別れの際には裳階の中で声を惜しまず咽び泣いた。8月12日には横川景三の勧めにより、如意ヶ嶽の斜面に掘らせた75ヶ所の火床へ一斉に点火して足利義尚の精霊を送り、此れが五山送り火の始まりとなった。8月18日には筒井順尊が牢人の儘京都で客死し、幼少の嫡男筒井順賢が成身院順盛を後見として家督を継いだ。此の順賢と順盛は西暦1497年8月頃、畠山尚順に呼応して大和国で挙兵する事となる。9月頃、政務に復帰していた足利義政は中風を再発させて倒れ、左半身不随となり、11月14日に足利義視・足利義稙と対面した後、西暦1490年1月27日に世を去る。豊後では、大友政親の異母弟日田親胤が肥後国で謀反を起こして大友親治に鎮圧されたが、大聖院宗心が大友義右に「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した為、西暦1487年に和解したばかりの政親と義右は再び対立した。欧州では、フランチェスコ・デ・タシス1世がマクシミリアン1世の郵便物の無料配達を請け負い、西暦1490年の郵便制度設立の下地を作っている。カスティーリャ王国も5月12日、クリストファー・コロンブスが王室に謁見する際の宿泊費を負担する通達を出した。

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年月日 出来事
1,489 フランチェスコ・デ・タシス1世がマクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)の郵便物の無料配達を請け負う。
1,489 大友政親の異母弟である日田親胤が、肥後国にて謀反を起こす。此の時政親は上洛中であった。此れは、大友親繁の五男大友親治によって鎮圧され、親治は、政親・大友義右を助けた。間も無くして、大聖院宗心が義右の下にやって来て「日田殿の謀反は政親殿の差し金である」と讒言した。此れを信じた義右は激怒し、政親と再び対立した。
1,489 1 7 第28代北野天満宮松梅院院主禅予が、以下の主旨の内容を記し、飯尾為規・清元定の捺印が為される。
壬生家の掘削の件に関し、西京の散所は掘削すべきであるとの御奉書が出された。其処で現地に百姓が派遣されたが難渋した。其の為、年貢の浪費や煩いにはならないと説得し、早く掘削する様下知の仰せが出されたので、此の通り伝達する。
1,489 3 7 河野教通が、二神通範に、二神家真の家督を相続させ、通範に、其の所領を安堵する。
1,489 4 2 山荘造営の一環である「東山殿(現在の京都府京都市左京区銀閣寺町)」が上棟される。
1,489 4 16 足利義尚の病が重篤な状態となる。
1,489 4 26 10時、足利義尚が、近江国鈎の陣中にて死去する。水と酒しか受け付けない状態であった。義尚は臨終に際し、足利義政に対し以下の辞世の句を詠んだ。
①ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり
(もし長く生きる事が出来れば、他人の心も良く見極められる様になるだろうに、露のような命は儚いものだ)
②もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月
(藻塩草が海人の袖を濡らす裏波に宿るように、心にも有明の月のような明るさがある)
③出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や
(昇る日の向こうの遠い国々までも、鏡山の様に美しいと思っていた事も、結局は無駄な身の上だった)
遺体は以下2名に譲られ、凱旋将軍の様な隊列で以って京都に帰還した。
①細川政元
②日野富子
其の後日野は、足利義視が出家する事を条件に、足利義稙を次期征夷大将軍に決定した。
1,489 5 10 足利義尚の葬儀が執り行われる。葬儀に際して、遺体の腐臭を防ぐ目的で、口・目・鼻に水銀が注入された。日野富子は、此の葬儀に於いて莫大な資金提供を行い、足利との最後の別れの際、裳階の中で、声を惜しまず咽び泣いた。周囲の者も涙した。其の後足利は等持院に葬られた。義尚の後継として、足利義政が政務に復帰した。
1,489 5 12 カスティーリャ王国が、クリストファー・コロンブスが王室に謁見する際、宿泊費を王国側で負担する通達を出す。
1,489 5 13 以下4名が上洛する。
①足利義視
②足利義稙
③土岐成頼
④斎藤妙純
元々は足利義尚の葬儀に参列する予定であったが、細川政元の反対に遭い、葬儀後の上洛となった。其の後、義視の娘の居る通玄寺(現在の京都府京都市中京区曇華院前町)に入った。
1,489 5 19 足利義視が、日野富子の住む小川殿に移る。
1,489 5 27 足利義視が、通玄寺にて出家する。
1,489 8 12 横川景三の勧めで、如意ヶ嶽(現在の京都府京都市左京区鹿ケ谷菖蒲谷町)の山の斜面に白布を持って大文字を作らせ、東求堂から見て字の形を決めて斜面に掘らせた75ヶ所の火床に積み上げた松の割木に一斉に点火し、足利義尚の精霊を送る。此れは五山送り火の始まりとなった。
1,489 8 18 筒井順尊が、牢人の儘京都にて客死する。幼少である順尊の嫡男筒井順賢が、成身院順盛を後見として家督を継いだ。
1,489 9 足利義政が、中風を再発させて倒れ、左半身不随となる。
1,489 11 14 以下2名が足利義政と対面する。
①足利義視
②足利義稙
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