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≈は「頃」を意味しています。
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| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,488 | ポルトガル人のコヴィリャンがインドのカノナール港に到着する。 | |||
| 1,488 |
クリストファー・コロンブスの弟バルトロメ・デ・ラス・カサスがカスティーリャ王国の援助を受ける事が難しいと考え、以下の2名にコロンブスの航海の援助を依頼する為にフランスへと出発する。 ①初代テューダー朝の王ヘンリー7世 ②第7代ヴァロワ朝の王シャルル8世 結果、何れも援助の取り付けには至らなかったもののシャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得て、バルトロメはフォンテーヌブロー(現在のフランスのセーヌ・エ・マルヌ県)の宮殿に数年間滞在した。 |
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| ≈ | 1,488 | 1 | 西暦1,487年9月28日の足利義尚の坂本への出陣に際し、富樫政親が兵粮米・軍費を領国である加賀国の民衆に課し、反富樫の機運が高まった事から、富樫は帰国し、高尾城(現在の石川県金沢市高尾町)に入る。一揆方は、富樫の家老山川高藤を介して和睦を伝えたが、富樫は受け入れなかった。富樫は、高尾城を修築して戦いに備えた。 | |
| 1,488 | 1 | 1 | 六角高頼方の甲賀衆が、伊勢貞誠の陣を放火する。 | |
| 1,488 | 1 | 15 |
六角高頼率いる軍が、甲賀郡の山中から出陣する。又、山内政綱は三上(現在の滋賀県野洲市)に布陣した。そして夜、望月出雲守と以下の甲賀二十一家が、近江国鈎(現在の滋賀県栗東市上鈎付近)の足利義尚の陣所に夜襲を仕掛けた。 ①山中十郎 ②伴佐京介 ③美濃部源吾 ④黒川久内 ⑤頓宮利盛 ⑥大野宮内小輔 ⑦岩室大学介 ⑧芥川左京亮 ⑨隠岐右近太夫 ⑩佐治河内守 ⑪神保兵内 ⑫大河原源太 ⑬大原源三郎 ⑭和田伊賀守 ⑮上野主膳正 ⑯高峰蔵人 ⑰池田庄右衛門 ⑱多喜俊兼 ⑲鵜飼源八郎 ⑳内貴伊賀守 ㉑服部藤太夫 地元の地形を熟知していた甲賀衆は、煙幕を張ったり放火を仕掛けたりして混乱を起こし、足利の本陣に迫った。敵が攻めてくると身を隠し、敵が撤退すれば後ろから攻撃を加える「亀六の法」と呼ばれる戦法によって室町幕府軍は翻弄され、最終的には大損害を被り、足利も深手を負った。 |
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| 1,488 | 1 | 22 | 甲賀衆が、織田広近の陣を放火する。 | |
| 1,488 | 2 | 25 | 越前国の朝倉孝景に援軍を要請した富樫政親の被官松坂信遠が、2,000騎余で高尾城を出陣し、槻津上野にて越前国の軍勢を待つも、今江兼治率いる加賀国江沼郡の7,000騎余の軍勢に攻められる。松坂は討ち取られた。 | |
| ≈ | 1,488 | 3 |
山川高藤が、越中国からの援軍を迎える為1,500名を率いて高尾城を出陣する。しかし、以下の一揆方の夜襲を受け、高尾城に戻った。 ①馬飼氏 ②浦上氏 |
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| ≈ | 1,488 | 3 |
上杉顕定が、以下2名と共に1,000騎で鉢形城(現在の埼玉県大里郡寄居町鉢形)から出陣する。 ①太田資康 ②三浦高救 第9代室町幕府越後国守護上杉房定は、自身の嫡男で白井城(現在の群馬県渋川市白井)主の上杉定昌を通じて、顕定を支援していた。 |
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| 1,488 | 3 | 18 | 上杉顕定率いる軍が、七沢城(現在の神奈川県厚木市七沢)を攻撃する。七沢城を守備していた上杉定正の弟上杉朝昌が応戦するも落城し、朝昌は大庭城(現在の神奈川県藤沢市大庭)へ敗走した。顕定は、糟屋館へと向かった。 | |
| 1,488 | 3 | 18 | 上杉顕定率いる軍が、200騎余で川越城(現在の埼玉県川越市郭町)から駆け付けた上杉定正率いる軍と、実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市日向)で交戦する。実蒔原の地形を熟知していた定正率いる軍は、寡兵にも拘らず、激戦の末辛うじて顕定率いる軍を破った。 | |
| 1,488 | 5 | ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが喜望峰(南アフリカ西ケープ州ケープタウン)に到達する。 | ||
| 1,488 | 5 | 5 | 上杉定昌が、従者と共に自害する。 | |
| ≈ | 1,488 | 6 | 富樫政親に討たれた、本願寺門徒を味方に付けていた政親の弟富樫幸千代の敵を打つ為に擁立された富樫泰高率いる本願寺門徒を始めとする一揆方が、政親が10,000名余の兵を率いて籠城している高尾城の包囲を開始する。 | |
| ≈ | 1,488 | 7 |
以下2名が、上杉定正の居る川越城を攻める為、2,000名の軍勢を率いて鉢形城から出陣する。 ①上杉顕定 ②顕定の養子上杉憲房 此れを受けて定正は、以下の人間と共に、700騎余を率いて須賀谷原(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)付近に布陣した。 ①第2代古河公方足利政氏 ②長尾景春 ③上杉朝昌の弐男で定正の養子の上杉朝良 |
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| 1,488 | 7 | 2 | 甲賀衆が、浦上則宗の陣を放火する。 | |
| 1,488 | 7 | 5 | 足利義尚が、越前国の朝倉孝景等に富樫政親の下へ援軍を派遣する様命じる。朝倉は応じ、加賀国へ援軍を派遣したが、一揆方が越前国との国境を封鎖して入国を阻んだ。 | |
| 1,488 | 7 | 9 | 一揆方が、大乗寺(現在の石川県金沢市長坂町)に本陣を構え、高尾城の包囲を本格化させる。富樫政親は高尾城から出て、打って出た。しかし、一揆方を破る事は出来なかった。 | |
| 1,488 | 7 | 13 |
富樫政親の救援に向かっていた以下率いる2,000名の軍が、倶利伽羅峠(現在の石川県河北郡津幡町・富山県小矢部市)にて一揆方に敗れる。 ①遊佐氏 ②神保氏 |
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| 1,488 | 7 | 13 | 畠山義統が富樫政親へ差し向けた援軍が、河北郡黒津船地内(現在の石川県河北郡内灘町宮坂)にて本願寺門徒に敗れる。 | |
| 1,488 | 7 | 13 | 富樫政親方の将本郷春親が、本願寺門徒等の一揆方に高尾城の包囲を解く様促すが、失敗する。其の後、富樫方と一揆方で小競り合いが発生した。 | |
| 1,488 | 7 | 15 |
6時、富樫泰高率いる一揆方が高尾城を攻撃する。富樫政親率いる1,500名の軍は、大手門は松山左近、搦手の額谷口は森宗三郎を其々守将とし、以下の人間等が将兵を指揮した。 ①斎藤八郎 ②安江弥太郎 ③小早川半弥 ④新倉将監 ⑤浅井九八 政親方の本郷春親は、部下を率いて河合藤左衛門の部隊を攻め、河合を討とうとした。しかし河合は先陣には居らず、代わりに伊藤久内が本郷を捕縛した。其処に、春親の息子本郷松千代丸が攻め出て伊藤を斬殺したが、木村八郎九郎と組み打ち、木村に捕縛された。政親方の小川隼人成定は、寺井豊後の部隊を攻撃し、寺井の息子を斬殺した後丘に登って休憩していた所、矢の雨を浴び、斬首された。昼に休戦したが、政親の軍は以下の人間を始めとする200名余の戦死者を出した。 ①本郷春親 ②額景春 ③額親家 ④林正蔵坊 ⑤正蔵坊の弟林六郎二郎 ⑥高尾若狭守 ⑦槻橋弥次郎 ⑧斎藤彦八郎 ⑨安江 ⑩安江三郎 ⑪宇佐美八郎左衛門 ⑫山田弥五郎 ⑬広瀬源左衛門 ⑭広瀬又七 ⑮徳光次郎 ⑯松本新五郎 ⑰阿曽孫六 ⑱霜田伊豆坊 ⑲奈良与八郎 ⑳松原彦四郎 ㉑多田源六 ㉒石田帯刀 ㉓和田次郎三郎 ㉔越前国の溝口兄弟 ㉕越前国の一木兄弟 ㉖松千代丸 ㉗板倉喜内 ㉘森勝介 ㉙岡豊後守 ㉚佐々木志摩助 ㉛柏原与市 ㉜古沢勘七 ㉝同朋衆の知阿弥 政親の家臣57名や城兵達は、高尾城からの脱出を始めた。山川高藤は、政親の正室巴を一揆方の光徳寺(現在の石川県金沢市玉川町)と申し合わせて、高尾城から脱出させた。此れは、山川の妹おわんが、一揆方の安吉城(現在の石川県白山市安吉町)主大窪家長に嫁いでいた事から実現した。又山川自身も、政親を裏切り高尾城から脱出した。 |
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| 1,488 | 7 | 16 | 山内上杉方が、扇谷上杉方の防衛拠点の1つである武蔵松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町北吉見)を攻撃する。又、須賀谷原(現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷)でも小規模な戦いが発生した。 | |
| 1,488 | 7 | 17 |
富樫政親が、自身の嫡男富樫家延と共に自害し、高尾城が落城する。又山川高藤は、一揆方の将三池掃部率いる軍に捕縛され、祇陀寺(現在の石川県白山市吉野付近)に幽閉された。其の後山川は、夕闇に紛れて脱出し、越前国大野(現在の福井県)へ向かった。更に、政親の後を追って、以下の人間も自害した。 ①宮永八郎三郎 ②勝見与四郎 ③福光弥三郎 ④那波氏 ⑤吉田氏 ⑥小河氏 ⑦白河氏 ⑧進藤氏 ⑨黒川氏 ⑩興津屋五郎 ⑪谷屋入道 ⑫徳光西坊林 ⑬金子氏 ⑭田上入道 ⑮八屋藤左衛門入道 ⑯立入加賀入道 ⑰長田三郎左衛門 ⑱宮永左京進 ⑲沢奈井彦八郎 ⑳安江和泉守 ㉑神戸七郎 ㉒御園筑前守 ㉓御園五郎 ㉔槻橋豊前守 ㉕槻橋近江守 ㉖槻橋三郎左衛門 ㉗槻橋式部丞 ㉘槻橋弥六 ㉙槻橋弥次郎 ㉚槻橋三位坊 ㉛山川又次郎 ㉜本郷春興坊 ㉝本郷駿河守 政親の自害を聞いた足利義尚は激怒し、蓮如に本願寺門徒等の破門を迫った。政親の首級は、富樫泰高によって灰の中から探し出され、大乗寺に葬られた。 |
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| 1,488 | 7 | 26 | 朝、山内上杉軍と扇谷上杉軍が須賀谷原にて交戦する。扇谷上杉軍は、上杉朝良が先陣を切ったが、台地の低部で、平澤寺(現在の埼玉県比企郡嵐山町平澤)に布陣していた山内上杉軍に逆落としに攻撃を掛けられ崩されるも、長尾景春率いる部隊が横槍を入れた事で山内上杉軍が浮き足立ち、其処を上杉定正が、高台から味方に指図して突き崩させた。更に長尾率いる部隊は、山内上杉軍の藤田三郎勢を破り、扇谷上杉軍が勝利した。此の戦での戦死者は700名余、馬も数百頭が犠牲になった。 | |
| 1,488 | 8 | 11 | 蓮如が、一向宗門徒の行動を非難・叱責する。 | |
| ≈ | 1,488 | 10 | 足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成する。足利は、二階堂政行経由で陰陽博士土御門有宣から、60名の刀鍛冶に60本の刀を打たせれば敵を誅滅出来ると聞き、刀を作らせていた。 | |
| ≈ | 1,488 | 10 | 足利義尚が陣中に打たせていた60本の刀が完成した翌日、足利が病に倒れる。日野富子が看病に駆け付けた。足利は元々体が弱く、軍営での激務と共に、京都から訪れる公家・高僧の接遇を自ら行い、酒量も増えていた。足利は其の後一旦回復し、日野は京都に戻った。 | |
| 1,488 | 12 | 17 |
上杉定正が、以下2名に援軍を求め、2,000騎で山内上杉軍を攻撃する為に進軍する。 ①足利政氏 ②長尾景春 此れを知った山内上杉軍は、上杉房定に援軍を求め、鉢形城から程近い高見原(現在の埼玉県大里郡寄居町今市)に3,000名余で布陣した。夕方、高見原にて、山内上杉軍と扇谷上杉軍が交戦した。此れを不安に思った長尾は、上杉定正に相談した。上杉は、鉢形城から出張って来た山内上杉軍の旗指物が動かなくなり、休息を取り始めた時に攻撃する様指示した。夜、長尾が上杉の指示通りに攻撃し、風上である事も手伝って、兵力が山内上杉軍よりも劣っていたにも拘らず撃破した。山内上杉軍は鉢形城に敗走した。其の後も山内上杉軍は、後方の支援を受けて、鉢形城を保持し続けた。軈て、三度山内上杉軍を破った上杉は驕り始め、太田道灌を暗殺した事を部下から疑問視されていた事も有り、離反する武将が出始めた。家臣が、言動を慎み各方面との和解に努める様促す書簡を上杉に送る程であった。 |
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