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≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,487 |
山荘造営の一環として、以下が造営される。 ①東山殿会所 ②弄清亭 |
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| ≈ | 1,487 | 足利政知が、足利茶々丸を素行不良を理由に廃嫡し、土牢に幽閉する。代わりに自身の参男足利潤童子を後嗣とした。 | ||
| 1,487 |
以下2名が和解する。 ①大友政親 ②大友義右 義右は、大内家から大友家に帰還した。 |
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| ≈ | 1,487 | 1 | 上杉定正が、太田資康を江戸城から追放する。定正は江戸城を占拠し、太田は山内上杉家を頼り甲斐国へ逃れ、上杉顕定に付いた。 | |
| 1,487 | 1 | 26 | 足利義稙が、足利義尚の猶子として元服する。 | |
| ≈ | 1,487 | 4 | クリストファー・コロンブスの航海計画がエルナンド・デ・タラベラを中心とする諮問委員会で審議される。否定的な意見が多数を占めたが、航海を実現させたかったタラベラやカトリック修道会であるドミニコ会ディエゴ・デ・デサは結論を引き延ばしていた。 | |
| ≈ | 1,487 | 4 | 足利義澄が、仏門に入る為の上洛により、伊豆国を出発する。 | |
| 1,487 | 5 | 23 | 国友河原(現在の滋賀県長浜市国友町)にて、京極高清が京極政経を攻める。そして高清は、国友城(現在の滋賀県長浜市国友町)主国友兵庫助を攻撃した。此れを受けて政経は、国友の援軍として多賀宗直を国友城に派遣した。其処で高清は、国友城の包囲を解き、国友河原で多賀率いる軍を迎撃した。高清の作戦は成功し、多賀率いる軍は月ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市)に逃れたが、多賀は、敵の追撃からは逃れられないと悟り自刃した。 | |
| 1,487 | 6 | 19 | 足利義澄が、300名の従者と共に上洛する。 | |
| ≈ | 1,487 | 7 | 足利政知が、足利義澄を上洛させ、足利義政と対面させる。又政知は、自身の嫡男である足利茶々丸を廃嫡し、自身の参男で義澄の同母弟の足利潤童子を後継者に定めた。上杉政憲は、茶々丸の廃嫡を諫めたが聞き入れられず、上杉は自害した。 | |
| ≈ | 1,487 | 8 | 奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府に持ち込まれる。此れを切っ掛けに、他の近江国の奉公衆も六角行高に対し訴訟を起こした。 | |
| 1,487 | 8 | 12 | 足利義尚が、六角高頼征伐を正式に決定する。在京・在国の諸将を招集した。 | |
| 1,487 | 8 | 16 |
室町幕府奉行人諏訪貞通等が勧進して集められた歌50首が、諏訪大社上社(現在の長野県諏訪市中洲宮山)の御射山祭にて奉納される。題は、以下を含む10題で其々5首詠まれた。 ①花 ②郭公 ③月 ④恋 ⑤山家 ⑥旅 ⑦祝 詠人は以下の人間等が名を連ねた。 ①足利義尚 ②近衛政家 ③日野富子 ④飛鳥井雅親 ⑤一条冬良 ⑥伊勢貞宗 |
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| ≈ | 1,487 | 9 | 足利義尚に子供が居ない事を憂えた日野富子の意向により、足利義稙が従五位下・左馬頭に叙位任官される。此の頃、義稙を義尚の猶子とし、長享・延徳の乱で近江国に居た義尚を京都に戻して義稙を近江国に置くという案も有ったが、実行されなかった。 | |
| 1,487 | 9 | 16 | 足利義稙が、日野富子の推挙により、美濃国在国の儘従五位下に叙され、同時に左馬頭に任ぜられる。 | |
| 1,487 | 9 | 27 | 六角高頼方が、近江国南部各地への布陣を終える。 | |
| 1,487 | 9 | 28 |
以下を身に纏った足利義尚が、六角高頼征伐の為、坂本へ向けて出陣する。 ①香の袷 ②白綾の腹巻 ③赤地金襴に桐唐草の模様の直垂 ④重藤弓 ⑤粟田口吉光の太刀 其の際、着飾った足利を一目見ようと見物人が集まった。兵力は391騎・8,000名で、以下の諸将も加わった。 ①京極政経 ②京極高清 ③田中兵衛尉 ④土肥刑部少輔 ⑤大原政重 ⑥大原尚親 ⑦伊勢又六 ⑧吉田源四郎 ⑨岩室弥四郎 坂本に入ってからは、以下の人間等と合流した。 ①細川政元 ②斯波義寛 ③畠山政長 ④山名氏 ⑤一色氏 ⑥富樫政親 ⑦京極氏 ⑧武田国信 此の際加賀国守護代山川高藤は、富樫の命で等持院領加賀粟津保に兵糧200石・人夫100名を命じた。等持院は此れに反発し、山川と繋がりの有る等持院の人間が減免を請うた。結果、15貫200文を納めた他は免除された。 |
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| 1,487 | 9 | 30 | 六角高頼が、観音寺城を放棄し、甲賀郡へ逃亡する。 | |
| 1,487 | 10 | 6 |
細川政元率いる軍が、琵琶湖を経由して以下に到着する。 ①山田(現在の滋賀県草津市) ②志那(現在の滋賀県草津市) 其の後細川は、坂本から陸路で瀬田(現在の滋賀県大津市)を経由してやって来た足利義尚率いる軍と合流し、六角高頼の指示で山田方面を守備していた山中橘六率いる軍と野洲河原にて交戦した。山中は敗れたものの室町幕府軍に多大な損害を与え、戦功を挙げた甲賀武士53名は、後に甲賀五十三家と呼ばれた。其の中で戦果の目覚ましい21名は、六角から感状を受け、甲賀二十一家と呼ばれた。甲賀五十三家は以下の通り。 ①望月出雲守(筆頭格) ②山中十郎(柏木三家、六角から感状を受けた) ③伴佐京介(柏木三家、六角から感状を受けた) ④美濃部源吾(柏木三家、六角から感状を受けた) ⑤黒川久内(北山九家、六角から感状を受けた) ⑥頓宮利盛(北山九家、六角から感状を受けた) ⑦大野宮内小輔(北山九家、六角から感状を受けた) ⑧岩室大学介(北山九家、六角から感状を受けた) ⑨芥川左京亮(北山九家、六角から感状を受けた) ⑩隠岐右近太夫(北山九家、六角から感状を受けた) ⑪佐治河内守(北山九家、六角から感状を受けた) ⑫神保兵内(北山九家、六角から感状を受けた) ⑬大河原源太(北山九家、六角から感状を受けた) ⑭大原源三郎(南山六家、六角から感状を受けた) ⑮和田伊賀守(南山六家、六角から感状を受けた) ⑯上野主膳正(南山六家、六角から感状を受けた) ⑰高峰蔵人(南山六家、六角から感状を受けた) ⑱池田庄右衛門(南山六家、六角から感状を受けた) ⑲多喜俊兼(南山六家、六角から感状を受けた) ⑳鵜飼源八郎(荘内三家、六角から感状を受けた) ㉑内貴伊賀守(荘内三家、六角から感状を受けた) ㉒服部藤太夫(荘内三家、六角から感状を受けた) ㉓小泉家 ㉔倉治家 ㉕夏見家 ㉖杉谷家 ㉗針家 ㉘小川家 ㉙大久保家 ㉚上田家 ㉛野田家 ㉜岩根家 ㉝新城家 ㉞荻野家 ㉟矢川家 ㊱佐々木家 ㊲藤林家 ㊳鳥居家 ㊴森家 ㊵田中家 ㊶池尻家 ㊷藤川家 ㊸山田家 ㊹中村家 ㊺藤原家 ㊻喜多家 ㊼久野家 ㊽太田家 ㊾東家 ㊿西家 ❶岡本家 ❷村田家 ❸藤堂家 |
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| 1,487 | 10 | 10 |
以下等の率いる軍が、六角氏の要衝である伊庭氏の拠点である八幡山(現在の滋賀県近江八幡市南津田町)・九里氏の拠点である金剛寺(現在の滋賀県近江八幡市)を攻撃する。 ①細川政元 ②武田国信 ③富樫政親 ④京極高清 ⑤仁木貞長 ⑥細川元治 ⑦伊勢貞陸 ⑧安富氏 ⑨上原氏 ⑩物部氏 伊庭氏・九里氏は逃亡し、室町幕府軍は此れ等を陥落させた。次に室町幕府軍は、観音寺城攻略を目指した。 |
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| 1,487 | 10 | 10 |
観音寺城に居た六角高頼が、以下を頼り、日野川沿いに三雲に逃れる。 ①甲賀武士 ②山中氏 ③望月氏 ④和田氏 |
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| 1,487 | 10 | 20 |
足利義尚率いる軍が、六角高頼を追って、坂本から琵琶湖を経由して安養寺(現在の滋賀県栗東市)に布陣する。そして、六角氏の押領地を没収し、側近や寺社に還付した。諸将も分散して布陣し、義尚は、足利義政に以下の歌を贈った。 坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ (坂本の浜辺の道を出て、波を安らかに養う寺に居る、と答えなさい) 此れを受けて義政は、以下の返歌を贈った やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん (もう直ぐ国を治めて、民を安らかに養う寺から立って帰ろう) |
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| ≈ | 1,487 | 11 | 正覚寺(現在の滋賀県草津市上笠)に布陣していた浦上則宗率いる軍が、先陣を切って甲賀郡に侵攻する。しかし、六角高頼は正面切って戦おうとせず、伊勢国に行方を眩ませた。 | |
| 1,487 | 11 | 12 | 足利義尚が、本陣を山徒真宝坊の居館である真宝館(現在の滋賀県栗東市上鈎)に移す。 | |
| 1,487 | 11 | 24 | 北川殿からの助力の要請を受け、足利義尚からの承認を得た北条早雲が、同志と共に、駿府今川館に居た小鹿範満を急襲する。追い詰められた範満は、小鹿範頼の弐男小鹿範慶と共に自害した。此れにより、小鹿今川家は断絶し、今川氏親が家督を相続する事となった。今川は其の後元服し、自身の叔父である北条を後見役として、領国経営を進めた。 | |