西暦1491年は、足利義視が死去し、足利政知の病死後に足利茶々丸が武力で家督を奪った年である。足利義視は2月15日に通玄寺にて死去し、足利義稙は後ろ盾を失い、足利政知と細川政元は足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた。5月11日に政知が病死すると茶々丸は土牢から脱出し、8月6日に円満院と足利潤童子を殺害して第2代堀越公方を宣言した。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / 韓国の旧暦 / 日本の旧暦 / ヒジュラ暦 / フランス革命暦 / ソビエト連邦暦

≈は「頃」を意味しています。

年月日 出来事
1,491 1 21 畠山義就が死去する。
1,491 2 15 足利義視が、通玄寺にて死去する。此れにより足利義稙は、後ろ盾を失った。以降以下2名は、足利義澄を征夷大将軍に擁立すべく動き始めた。
①足利政知
②細川政元
1,491 5 11 足利政知が病死する。足利茶々丸は、其のどさくさに紛れ、土牢から脱出した。
1,491 5 29 足利義稙が、六角高頼征伐を宣言する。
1,491 8 クリストファー・コロンブスがサンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院を訪れ、フアン・ペレス・デ・マルチェーネから、預けていたディエゴ・コロンを引き取り「シャルル8世の援助を取り付けに行く」とマルチェーネに告げる。マルチェーネは考え直す様説得し、イサベル1世に再度請願する様勧めた。又マルチェーネはイサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲス経由で、王室に再検討を促した。イサベル1世はマルチェーネに対し、コロンブスを慰留する事を求めた。更に2週間後、コロンブスの元に王室から「旅金を添えて出頭する様勧告する」主旨の書簡が届いた。航海計画の検討はカスティーリャ枢機院に移管された。
1,491 8 6 足利茶々丸が以下2名を殺害する。
①円満院
②足利潤童子
茶々丸は正室の子であったが、政知の弐男足利義澄と潤童子は円満院の子であった。茶々丸は武力で家督を奪い、第2代堀越公方を宣言した。
1,491 9 26 六角高頼が、観音寺城を捨て、甲賀郡に逃亡する。
1,491 9 30 足利義稙が、六角高頼征伐の為、光浄院(現在の滋賀県大津市園城寺町)に布陣する。赤沢朝経は、義稙方に付いていた。軈て赤沢は、細川政元から鷹狩の腕を認められ、細川の内衆となった。此の頃畠山尚順は、足利と呼応して、紀伊国から畿内を窺っていた。
≈ 1,491 11 浦上則宗が、佐々木荘(現在の滋賀県近江八幡市安土町)に着陣する。
1,491 11 2 細川政元の家宰安富元家が、金剛寺に入る。
1,491 12 4 山内政綱が、六角高頼を裏切り、足利義稙方に寝返る。
1,491 12 19 足利義稙が、以下2名に山内政綱征伐を命じる。
①赤松政則
②織田敏定
以下2名は大津の浜道場(現在の滋賀県大津市札の辻付近)にて山内を挟撃した。
①浦上則宗
③織田
そして山内は降伏した。しかし、足利は此れを許さず、赤松伯耆守によって首を討たれた。