西暦1511年は、細川澄元方と細川高国方が畿内で激突し、船岡山合戦で決着した年である。4月2日、水茎岡山城で足利義澄と正室日野阿子の間に足利義晴が生まれ、7月頃、義澄は足利義晴を播磨国の赤松義村へ、足利義維を阿波国の細川澄元へ其々遣わせた。此の義晴が西暦1521年に第12代室町幕府征夷大将軍として京都へ迎えられる。7月31日、西暦1509年に如意ヶ嶽から阿波国へ退いた細川澄元が堺に上陸して深井城へ入った。細川成之は時期尚早と反対し、三好之長も其の説得に従って出兵を見送っている。8月6日、細川高国に命じられた20,000名の摂津国人衆が深井城へ突入したが澄元方は既に脱出しており、細川政賢率いる軍が外から門を閉めて火を放ち、脱出した所を待ち伏せて討ち取った。8月8日頃には細川尚春が3,000名で兵庫津に上陸し、8月28日には和泉国方面の細川政賢・細川元常と摂津国方面の細川尚春・赤松義村が合流して20,000名となり、8月31日に鷹尾城を包囲、9月2日夜に城兵が伊丹城へ逃亡して落城した。9月6日、足利義澄は水茎岡山城にて死去した。西暦1495年に細川政元の手で将軍位に就き、西暦1508年に京都を追われ、西暦1509年には刺客を放ってまで足利義稙を狙った生涯であり、決着を見る事無く世を去った事になる。9月8日、足利義稙は仮御所である吉良義信の屋敷に火を放ち、細川高国・大内義興・畠山義元に守られて神吉へ退き、細川政賢等は無血で入京した。義稙方は9月12日に神吉を発って9月15日に高雄へ到着し、足利義稙2,000名・細川高国3,000名・大内義興8,000名・畠山義元300名で高雄から北山に掛けて布陣、同日夜、20,000名超の大内義興率いる軍と細川高国方が船岡山へ夜襲を仕掛けた。不意を突かれた細川政賢率いる6,000名は混乱し、翌16日朝、報せを受けた細川澄元は小川殿に火を放って摂津国へ落ち延び、踏み留まった政賢は山中為俊・松田頼亮・遊佐就盛と共に討死した。山中は西暦1507年に甲賀で細川澄元を匿った当人であった。9月18日には赤松義村が伊丹城の攻囲を解いて播磨国へ帰り、細川高国方が畿内の主導権を確立した。又11月頃、西暦1501年に浜松荘を巡って今川氏親に敗れた大河内貞綱を擁する斯波義達が遠江国へ出陣し、三岳城を本拠として井伊直宗・大河内と結んだ。西暦1508年に遠江国守護へ補任された今川との争いは、此処から本格化する。欧州では、西暦1509年のアニャデッロの敗戦で失われたヴェネツィア共和国の本土領が回復した。船岡山での勝利は翌西暦1512年4月14日、大内義興が洛中に平和を齎した功績として従三位に叙せられる形で報いられる。

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年月日 出来事
1,511 ヴェネツィア共和国の本土領が回復する。
1,511 4 2 水茎岡山城にて、以下2名の間に、足利義晴が生誕する。
①足利義澄
②義澄の正室日野阿子
1,511 7 足利義澄が、以下2名の息子を其々遣わせる。
①足利義晴(播磨国の赤松義村)
②足利義維(阿波国の細川澄元)
1,511 7 31 細川澄元率いる軍が、堺に上陸する。此の出陣に於いて、細川成之は、時期尚早であるとして反対し、三好之長は、成之の説得に従い、出兵を見送った。其の後、澄元率いる軍は、深井城(現在の大阪府堺市中区深井中町付近)に入った。
1,511 8 6 細川高国に命じられた、20,000名の以下の摂津国人衆が、深井城(現在の大阪府堺市中区深井中町)に突入する。
①池田氏
②伊丹元扶
③三宅氏
④茨木氏
⑤安威氏
⑥福井氏
⑦太田氏
⑧入江氏
⑨高槻氏
しかし、細川澄元方は既に脱出しており、城内には誰も居なかった。其処に細川政賢率いる軍が外から門を閉めて火を放つと、摂津国人衆は混乱し、何とか脱出した所を、待ち伏せていた政賢率いる軍が討ち取って行った。
1,511 8 8 第9代室町幕府淡路国守護細川尚春が、細川澄元の挙兵に呼応し、淡路国の兵3,000名を率い、兵庫津に上陸する。此れを受けて細川高国は、丹波国からの3,000名の兵で以って、鷹尾城(現在の兵庫県芦屋市城山)の防備を固めた。
1,511 8 28 以下の軍が合流し、兵力が20,000名となる。
①和泉国方面
❶細川政賢
❷細川元常
②摂津国方面
❶細川尚春
❷第13代室町幕府播磨国守護赤松義村
1,511 8 31 以下4名率いる軍が、鷹尾城を包囲する。
①細川政賢
②細川元常
③細川尚春
④赤松義村
1,511 9 2 夜、翌日から火攻めが有ると聞き付けた鷹尾城の城兵が脱出し、伊丹城(現在の兵庫県伊丹市伊丹)に逃亡する。此れにより、鷹尾城は落城した。
1,511 9 6 足利義澄が、水茎岡山城にて死去する。
1,511 9 8 足利義稙が、仮御所である吉良義信の屋敷に火を放つ。そして、以下の人間等に守られながら京都を離れ、神吉(現在の京都府南丹市八木町)に退いた。
①細川高国
②大内義興
③畠山義元
1,511 9 8 以下4名率いる軍が、足利義稙等と入れ替わる形で、無血で京都に入る。
①細川政賢
②細川元常
③細川尚春
④赤松義村
1,511 9 12 以下4名率いる軍が、高雄(現在の京都府京都市右京区梅ケ畑地区)へ向けて、神吉を出発する。
①足利義稙
②細川高国
③大内義興
④畠山義元
1,511 9 15 以下4名率いる軍が、高雄に到着する。
①足利義稙(兵力2,000名)
②細川高国(兵力3,000名)
③大内義興(兵力8,000名)
④畠山義元(兵力300名)
そして、高雄から北山(現在の京都府京都市北区)に掛けて布陣した。
1,511 9 15 夜、20,000名超の大内義興率いる軍と細川高国方が、船岡山(現在の京都府京都市北区紫野北舟岡町)に夜襲を仕掛ける。不意を突かれた細川政賢率いる6,000名の軍は、混乱した。
1,511 9 16 朝、細川政賢が、小川殿(現在の京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町)にて500騎で布陣していた細川澄元に、船岡山の本陣が破られた事を報告する。澄元は、建物に火を放ち、摂津国へ落ち延びた。政賢は留まって戦い、以下の人間と共に討死した。
①山中為俊
②松田頼亮
③遊佐就盛
1,511 9 18 船岡山合戦での敗戦を聞いた赤松義村が、伊丹城の攻囲を解く。其の後は、生瀬口(現在の兵庫県西宮市)を経由して、播磨国へ帰国した。
1,511 11 斯波義達が、遠江国に出陣する。斯波は、三岳城(現在の静岡県浜松市浜名区引佐町三岳)を本拠とし、以下2名と結んだ。
①井伊直宗
②大河内貞綱
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