西暦1508年は、足利義稙と大内義興が上洛し、足利義稙が征夷大将軍に再任され、細川高国が第32代管領に就任した年である。5月8日に細川澄元が京都から甲賀に退去し、5月15日夜に足利義澄が京都を脱出した後、7月5日に義稙と義興は8,000名の兵を率いて上洛した。再任は7月28日、就任は8月14日の事で、再任と同じ日に大内義興も管領代に就任した。

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年月日 出来事
1,508 今川氏親が、遠江国へ侵攻する。
1,508 1 6 以下2名の和睦が解消される。
①畠山義英
②畠山尚順
義英は此の日、遊佐基盛等を連れて嶽山城(現在の大阪府富田林市龍泉)に入り、籠城を開始した。又尚順は、隅田荘(現在の和歌山県橋本市)に出陣した。大和国衆一揆は、以下に分裂した。
①尚順方
❶成身院順盛
❷筒井順賢
❸十市遠治
❹箸尾為時
❺布施行国
❻楢原栄遠
②義英方
❶越智家教
❷万歳則定
❸吐田遠光
❹岡政行
1,508 1 12 畠山尚順が、大和国に居た赤沢長経に以下を贈り、畠山と細川澄元の和睦が実現する。
①馬
②太刀
≈ 1,508 1 18 細川澄元が、赤沢長経に、嶽山城攻撃の指示を出す。
1,508 2 17 嶽山城が落城する。此の1ヶ月余の戦いで、畠山義英方は、赤沢兵庫助を始めとする60名余が討死した。赤沢長経は、畠山尚順の勢力が強大となり、大和国が奪われるのを恐れ「細川高国が、尚順と組んで細川澄元に背こうとしている」旨の讒言を行い、義英を逃がした。
1,508 2 27 以下2名率いる艦隊が、大畠(現在の山口県柳井市)に到着する。
①足利義稙
②大内義興
1,508 3 23 以下2名率いる艦隊が、蒲刈(現在の広島県呉市の上蒲刈島・下蒲刈島)に入り、逗留を開始する。
①足利義稙
②大内義興
狙いとしては以下2点が有った。
①大友義長が大内義興の領国に攻め込む可能性を見極める
②細川澄元方が団結して抵抗する恐れが有る為、行軍速度を遅くする
≈ 1,508 4 細川高国が、伊勢神宮参拝を口実に、京都から逐電する。実際は、仁木高長の下で、以下の国から兵を募り、畿内の国人領主等を味方に付け、細川澄元を攻める準備を進めていた。
①摂津国
②丹波国
1,508 4 16 以下2名率いる艦隊が、蒲刈を出航する。
①足利義稙
②大内義興
瀬戸内海を東へ進んだ。
1,508 4 17 赤沢長経の讒言により細川澄元に謀反を疑われ身の危険を感じた細川高国が、伊勢神宮に参拝すると称して、伊賀国へ向けて京都を出発する。高国は、伊賀国の仁木高長の下に身を寄せた。
1,508 4 25 以下2名率いる艦隊が、鞆(現在の広島県福山市)に到着する。
①足利義稙
②大内義興
1,508 4 30 細川高国が、清水寺に、自軍が以下を行う事を禁じる禁制を発する。
①乱暴狼藉
②山林伐採
③課役賦課
1,508 5 8 細川澄元が、細川高国方が優勢となった為、京都から甲賀(現在の滋賀県)に退去する。
1,508 5 13 以下2名率いる艦隊が、下津井(現在の岡山県倉敷市)に到着する。
①足利義稙
②大内義興
1,508 5 15 以下2名率いる艦隊が、牛窓(現在の岡山県瀬戸内市)に到着する。
①足利義稙
②大内義興
1,508 5 15 夜、足利義澄が、大内義興軍に対抗する軍事力を持っていない為、以下の近臣と共に、京都を脱出する。
①畠山澄重
②細川高久
③一色七郎
④大舘尚氏の息子大舘三郎
⑤伊勢貞則
⑥小笠原元宗
⑦小笠原澄長
⑧飯川国資
⑨海老名高定
⑩海老名孫二郎
⑪海老名又二郎
⑫金子
⑬三上三郎
⑭真下太郎
⑮本郷信通
⑯本郷扶泰
⑰松田頼亮
⑱飯尾元行
其の後足利は、九里信隆が城主を務める水茎岡山城(現在の滋賀県近江八幡市牧町)に入った。
1,508 5 23 以下2名率いる艦隊が、兵庫津に入る。
①足利義稙
②大内義興
1,508 5 26 以下2名が堺に到着する。
①足利義稙
②大内義興
足利・大内は、引摂寺(現在の大阪府堺市堺区宿院町西)に入り、畿内平定に当たっていた細川高国の降伏を受け入れ、畠山尚順等の参礼を受けた。そして、細川との連携を強め、上洛の準備を進めた。
1,508 6 3 足利義稙が、細川高国を細川京兆家当主と認める御内書を発する。
1,508 7 3 以下2名が堺を出発する。
①足利義稙
②大内義興
1,508 7 5 以下2名が、8,000名の兵を率い、上洛する。
①足利義稙
②大内義興
足利は、一条室町(現在の京都府京都市上京区)の吉良義信の屋敷に入り、其処を仮御所とした。
1,508 7 28 足利義稙が、朝廷により、第10代室町幕府征夷大将軍として再任される。同日、大内義興も管領代に就任した。其の後足利は、恩賞として、大内に相国寺崇寿院領である和泉国堺南荘(現在の大阪府堺市堺区)を与えようとしたが、大内は此れを辞退した。其の代替として大内は、第33代室町幕府山城国守護に任じられた。又、今川氏親が、第23代室町幕府遠江国守護に補任された。此の時点で、陣営は以下の様に固まっていた。
①足利義澄・細川澄元方
❶三好之長
❷赤沢長経
❸畠山義英
❹古市澄胤
❺越智家教
②義稙・細川高国方
❶伊丹元扶
❷内藤貞正
❸畠山尚順
❹大内義興
❺筒井順賢
❻十市遠治
❼箸尾為時
1,508 8 14 細川高国が、第32代管領に就任する。
1,508 8 15 赤沢長経・古市澄胤等が、奪回を意図し、大和国に侵攻する。以下3名等が、此れを迎撃した。
①筒井順賢
②十市遠治
③箸尾為時
しかし、以下の防衛線が突破され、筒井方は多くの戦死者を出して敗走した。
①三条通(現在の奈良県奈良市)
②大安寺(現在の奈良県奈良市)
1,508 8 16 室町幕府の命により、畠山尚順が、赤沢長経征伐の為、河内国に侵攻する。
1,508 8 22 赤沢長経が、高屋城を攻撃する。しかし赤沢は、後詰めの畠山尚順率いる軍に敗れ、以下の畠山義英方の遊佐弾正兄弟・古市澄胤は自害した。
1,508 8 24 赤沢長経が、大和国初瀬(現在の奈良県桜井市)にて捕縛される。
1,508 8 28 赤沢長経が、河内国にて斬首される。其の後、筒井順賢は、筒井城に帰還した。