西暦1506年は、細川政元が丹後国へ軍を派遣し、赤沢朝経が大和国に侵攻して、北条早雲が岩津城を攻めた年である。派遣は5月19日の事で、武田元信の要請を受けて細川澄之を総大将とする軍を送り、8月頃には大和国衆一揆が畠山義英を匿ったとして赤沢に大和国侵攻を命じた。岩津城の包囲は9月7日の事で、翌8日に攻撃を始めた北条は松平長親の激しい抵抗に苦戦し、駿河国に撤退した。

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≈は「頃」を意味しています。

年月日 出来事
1,506 ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが再開する。
≈ 1,506 2 赤沢朝経が、河内国にて、畠山尚順の居城である高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を占領する。尚順と畠山義英は、大和国へ逃亡した。
1,506 3 13 三好之長が上洛する。
≈ 1,506 4 丹後国にて、武田氏が丹後国に侵攻するのではないかとの噂が出る。
1,506 4 8 先年からの学侶と堂衆の対立により、安位寺(現在の奈良県御所市櫛羅)が炎上する。同寺再建の勧進奉加帳に以下の人間が署名した。
①布施高田清房
②万歳則定
③倶尸羅氏
≈ 1,506 5 武田元信が、中山寺(現在の福井県大飯郡高浜町中山)にて、戦勝祈願を行う。
1,506 5 13 細川澄元が、1,000名超の兵を率い、薬師寺長忠等と共に上洛する。
1,506 5 19 細川政元が、武田元信からの要請を受けて、以下3名率いる軍を丹後国へ派遣する。
①細川澄之(総大将)
②細川政賢
③香西元長
又此の頃政元は、丹後国守護職を澄之に、細川澄元に摂津国守護職を譲り、澄之は第17代室町幕府丹波国守護、澄元は第19代室町幕府摂津国守護に其々就任した。
≈ 1,506 6 細川政元が、以下2名率いる軍を、丹後国へ派遣する。
①細川澄元
②三好之長
≈ 1,506 6 以下3名率いる軍が、内藤貞正・波多野元清等の丹波勢と共に、石川直経の居城である安良山城(現在の京都府与謝郡与謝野町加悦奥)の攻城を開始する。
①細川澄之
②細川政賢
③香西元長
≈ 1,506 7 細川政元が、武田元信に、丹後国侵攻を許可する御内書を下す。其の後武田は、丹後国に入り、府中城(現在の京都府宮津市府中)に布陣した。
≈ 1,506 8 以下2名が反細川政元の姿勢を鮮明にし、大和国にて兵を招集する。
①畠山尚順
②畠山義英
≈ 1,506 8 細川政元が、畠山尚順・畠山義英が大和国で兵を招集した事を受けて、大和国衆一揆が畠山義英を匿ったとして、赤沢朝経に大和国侵攻を命じる。赤沢は、古市澄胤の手引きに依って、大和国に侵攻を開始した。赤沢長経も、養父である朝経に同行した。
≈ 1,506 8 赤沢朝経率いる軍が、以下を焼き払い、寺社勢力を制圧する。
①法華寺(現在の奈良県奈良市法華寺町)
②正暦寺(現在の奈良県奈良市菩提山町)
③多武峰妙楽寺(現在の奈良県桜井市多武峰)
④龍門寺(現在の奈良県吉野郡吉野町山口)
1,506 8 17 若狭武田氏の重臣粟屋親栄が、由良川を越えて、天橋立近くの神津に到着する。
1,506 8 21 合戦が行われ、武田氏は大敗し、数百人が討たれる。
1,506 8 29 赤沢朝経が戒重城(現在の奈良県桜井市戒重)を陥落させる。此の時点で以下2名は多武峰を防衛拠点として抵抗を続けた。
①十市遠治
②箸尾為国
1,506 9 3 筒井順賢率いる軍が、赤沢朝経の主力が大和国南部に進出した隙を突き、古市郷(現在の奈良県奈良市)を急襲し、以下2名を破る。
①古市澄胤
②澄胤の息子古市胤盛
筒井勢は、古市郷を焼き払った後、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を奪回した。
1,506 9 7 三河国西部に勢力を伸ばす松平長親を警戒した今川氏親から松平征伐を指示された北条早雲が、以下の国から集めた10,000名余の軍勢を率い、大樹寺(現在の愛知県岡崎市鴨田町広元)を本陣に定め、松平の支城である岩津城(現在の愛知県岡崎市岩津町東山)を包囲する。
①駿河国
②遠江国
③三河国東部
③には、以下の人間が含まれていた。
①牧野古白
②牧野成勝
③戸田政光
1,506 9 8 大和国衆が続々と郡山城に入城する。伊賀国衆も参陣し、赤沢朝経に対する防衛体制を整えた。
1,506 9 8 北条早雲率いる軍が、岩津城への攻撃を開始する。此れを受けて松平長親は、500名余の兵を率い、安祥城(現在の愛知県安城市安城町赤塚)から出陣した。松平は激しく抵抗し、北条は苦戦した。北条は、田原城(現在の愛知県田原市田原町巴江)主戸田憲光に背後を襲われる恐れが有るとして、急に兵を引き、駿河国に撤退した。
1,506 9 11 古市胤盛が、数千名の兵を率い、郡山城を包囲する。此の際、以下が「西脇衆」と称し郡山城に籠城したが、圧倒的な兵力差により、宝来九郎を始めとする多くの兵が討死し、郡山城は陥落した。
①宝来衆
②西京衆
③生馬衆
④郡山衆
1,506 9 13 北条早雲が、戸田憲光と敵対する牧野古白が城主を務める今橋城を攻撃する。
1,506 9 23 細川澄之の最大の支持者である香西元長が、細川政元に背き、京都にて蜂起する。此れを受けて室町幕府は、大和国に居た三好之長を呼び戻し、鎮圧させた。
1,506 10 7 北条早雲が、小笠原定基に対し、以下の主旨の書簡を送る。
私と小笠原家の家臣であった関春光は同じ一族です。伊勢国の関という所に住んでいたことから「関」と名乗っています。元を辿れば、共通の祖先である兄弟の所で枝分かれした名字なのです。現在、今橋城の要害を陥落させようと、本城の間際まで来ています。西暦1,506年10月5日には、端城を攻めて制圧しました。
北条は、小笠原に太刀を贈り、親睦を深めようとした。
1,506 10 10 武田元信率いる軍が、援軍として迎えた第17代丹波国守護細川澄之勢と共に如願寺(現在の京都府宮津市宮町)近くの山城を夜襲する。結果、一色勢を破った。
≈ 1,506 10 16 此の時点で、以下3名率いる軍は、安良山城を落とす事が出来ていなかった。
①細川澄之
②細川政賢
③香西元長
又、以下の城も、赤沢朝経・武田元信勢から攻撃を受けるが、持ち堪えていた。
①一色義有の居城である今熊野城(現在の京都府宮津市中野)
②延永春信の居城である阿弥陀ヶ峰城(現在の京都府宮津市成相寺付近)
1,506 11 17 細川政元が、阿波国へ向かう為、京都から堺に移動する。しかし、以下2名の説得により、阿波国へ入るのは中止となった。
①足利義澄
②細川高国
1,506 11 18 防戦していた牧野古白が、持ち堪えられず自害する。