西暦1506年は、細川政元の勢力拡大と、其れに伴う各地の争乱が広がった年である。畿内では、西暦1504年に行方を晦ませていた赤沢朝経が2月頃に姿を現し、河内国で畠山義英・畠山尚順を破って高屋城を占領した。西暦1497年11月2日に畠山尚順が奪回した城が、九年を経て再び主を変えた事になる。8月頃には古市澄胤の手引きで大和国へ侵攻し、法華寺・正暦寺・多武峰妙楽寺・龍門寺を焼き払って寺社勢力を制圧、8月29日に戒重城を陥落させたが、十市遠治・箸尾為国は多武峰を拠点に抵抗を続けた。9月頃に畠山尚順・畠山義英が反細川政元の姿勢を鮮明にして大和国で兵を集めると室町幕府は赤沢を再び侵攻させ、9月3日には筒井順賢が主力の南下した隙を突いて古市郷を急襲して古市澄胤・古市胤盛を破り郡山城を奪回したが、9月11日には古市胤盛が数千名で郡山城を包囲・陥落させ、西暦1497年12月に逆転した筒井党と古市氏の力関係は再び揺れ動いた。丹後国では、細川政元が武田元信の要請を受けて5月19日に細川澄之・細川政賢・香西元長率いる軍を派遣し、6月頃には細川澄元・三好之長率いる軍も送って石川直経の安良山城を攻めたが、10月16日の時点でも落とせずにいた。此の頃政元は丹後国守護職を澄之に、摂津国守護職を澄元に譲り、澄之は第17代室町幕府丹波国守護、西暦1503年に養子に迎えられた澄元は第19代室町幕府摂津国守護に其々就任した。養子を並べ立てた此の配分が、細川京兆家を割る事となる。9月23日には澄之の最大の支持者である香西元長が政元に背いて京都で蜂起し、大和国から呼び戻された三好之長に鎮圧された。西暦1502年に義忠を斬った男が、今度は主に刃を向けた事になる。11月17日には細川政元が阿波国へ向かう為に京都から堺へ移ったが、足利義澄と細川高国の説得により中止となった。東海では、西暦1505年に今橋城を築かせた今川氏親の命を受けた北条早雲が、9月7日、駿河国・遠江国・三河国東部から集めた10,000名余を率いて大樹寺を本陣に松平長親の岩津城を包囲したが、安祥城から出た松平の500名余の激しい抵抗に苦戦し、戸田憲光に背後を襲われる恐れから駿河国へ撤退した。9月13日には戸田と敵対する牧野古白の今橋城を攻め、11月18日、牧野は持ち堪えられず自害した。築いた者が築いた城で死んだ事になる。丹後国では翌西暦1507年5月頃に細川政元と赤沢朝経が武田元信の援軍として下るが、6月21日の合戦で武田は敗れる。

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年月日 出来事
1,506 ボローニャでモンテ・ディ・ピエタが再開する。
1,506 2 赤沢朝経が、河内国にて、以下2名を破り、高屋城(現在の大阪府羽曳野市古市)を占領する。
①畠山義英
②畠山尚順
1,506 3 13 三好之長が上洛する。
1,506 4 丹後国にて、武田氏が丹後国に侵攻するのではないかとの噂が出る。
1,506 5 武田元信が、中山寺(現在の福井県大飯郡高浜町中山)にて、戦勝祈願を行う。
1,506 5 13 細川澄元が、1,000名超の兵を率い、薬師寺長忠等と共に上洛する。
1,506 5 19 細川政元が、武田元信からの要請を受けて、以下3名率いる軍を丹後国へ派遣する。
①細川澄之(総大将)
②細川政賢
③香西元長
又此の頃政元は、丹後国守護職を澄之に、細川澄元に摂津国守護職を譲り、澄之は第17代室町幕府丹波国守護、澄元は第19代室町幕府摂津国守護に其々就任した。
1,506 6 細川政元が、以下2名率いる軍を、丹後国へ派遣する。
①細川澄元
②三好之長
1,506 6 以下3名率いる軍が、内藤貞正・波多野元清等の丹波勢と共に、石川直経の居城である安良山城(現在の京都府与謝郡与謝野町加悦奥)の攻城を開始する。
①細川澄之
②細川政賢
③香西元長
1,506 7 細川政元が、武田元信に、丹後国侵攻を許可する御内書を下す。其の後武田は、丹後国に入り、府中城(現在の京都府宮津市府中)に布陣した。
1,506 8 赤沢朝経が、古市澄胤の手引きにより、大和国に侵攻を開始する。以下を焼き払い、寺社勢力を制圧した。
①法華寺(現在の奈良県奈良市法華寺町)
②正暦寺(現在の奈良県奈良市菩提山町)
③多武峰妙楽寺(現在の奈良県桜井市多武峰)
④龍門寺(現在の奈良県吉野郡吉野町山口)
1,506 8 17 若狭武田氏の重臣粟屋親栄が、由良川を越えて、天橋立近くの神津に到着する。
1,506 8 21 合戦が行われ、武田氏は大敗し、数百人が討たれる。
1,506 8 29 赤沢朝経が戒重城(現在の奈良県桜井市戒重)を陥落させる。此の時点で以下2名は多武峰を防衛拠点として抵抗を続けた。
①十市遠治
②箸尾為国
1,506 9 以下2名が反細川政元の姿勢を鮮明にし、大和国で兵を招集する。
①畠山尚順
②畠山義英
此れを受けて室町幕府は、赤沢朝経に大和国に侵攻させる。赤沢長経も、養父である朝経に同行した。
1,506 9 3 筒井順賢率いる軍が、赤沢朝経の主力が大和国南部に進出した隙を突き、古市郷(現在の奈良県奈良市)を急襲し、以下2名を破る。
①古市澄胤
②澄胤の息子古市胤盛
筒井勢は、古市郷を焼き払った後、郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)を奪回した。
1,506 9 7 三河国西部に勢力を伸ばす松平長親を警戒した今川氏親から松平征伐を指示された北条早雲が、以下の国から集めた10,000名余の軍勢を率い、大樹寺(現在の愛知県岡崎市鴨田町広元)を本陣に定め、松平の支城である岩津城(現在の愛知県岡崎市岩津町東山)を包囲する。
①駿河国
②遠江国
③三河国東部
③には、以下の人間が含まれていた。
①牧野古白
②牧野成勝
③戸田政光
1,506 9 8 大和国衆が続々と郡山城に入城する。伊賀国衆も参陣し、赤沢朝経に対する防衛体制を整えた。
1,506 9 8 北条早雲率いる軍が、岩津城への攻撃を開始する。此れを受けて松平長親は、500名余の兵を率い、安祥城(現在の愛知県安城市安城町赤塚)から出陣した。松平は激しく抵抗し、北条は苦戦した。北条は、田原城(現在の愛知県田原市田原町巴江)主戸田憲光に背後を襲われる恐れが有るとして、急に兵を引き、駿河国に撤退した。
1,506 9 11 古市胤盛が、数千名の兵を率い、郡山城を包囲・陥落させる。
1,506 9 13 北条早雲が、戸田憲光と敵対する牧野古白が城主を務める今橋城を攻撃する。
1,506 9 23 細川澄之の最大の支持者である香西元長が、細川政元に背き、京都にて蜂起する。此れを受けて室町幕府は、大和国に居た三好之長を呼び戻し、鎮圧させた。
1,506 10 7 北条早雲が、小笠原定基に対し、以下の主旨の書簡を送る。
私と小笠原家の家臣であった関春光は同じ一族です。伊勢国の関という所に住んでいたことから「関」と名乗っています。元を辿れば、共通の祖先である兄弟の所で枝分かれした名字なのです。現在、今橋城の要害を陥落させようと、本城の間際まで来ています。西暦1,506年10月5日には、端城を攻めて制圧しました。
北条は、小笠原に太刀を贈り、親睦を深めようとした。
1,506 10 10 武田元信率いる軍が、援軍として迎えた第17代丹波国守護細川澄之勢と共に如願寺(現在の京都府宮津市宮町)近くの山城を夜襲する。結果、一色勢を破った。
1,506 10 16 此の時点で、以下3名率いる軍は、安良山城を落とす事が出来ていなかった。
①細川澄之
②細川政賢
③香西元長
又、以下の城も、赤沢朝経・武田元信勢から攻撃を受けるが、持ち堪えていた。
①一色義有の居城である今熊野城(現在の京都府宮津市中野)
②延永春信の居城である阿弥陀ヶ峰城(現在の京都府宮津市成相寺付近)
1,506 11 17 細川政元が、阿波国へ向かう為、京都から堺に移動する。しかし、以下2名の説得により、阿波国へ入るのは中止となった。
①足利義澄
②細川高国
1,506 11 18 防戦していた牧野古白が、持ち堪えられず自害する。
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