西暦1501〜1600年は、マルティン・ルターが宗教改革を起こしプロテスタントが誕生、マゼランが世界周航に出発した時代である。イエズス会が設立されフランシスコ・ザビエルが日本に来航した。織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破り、室町幕府を滅亡させ、長篠の戦いで武田軍を撃破した。インカ帝国がスペインに滅ぼされた。

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年月日 出来事
1,507 5 細川政元が、羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)に巡礼に行くと言い出し、京都を出発する。丹波国を経由して若狭国に入ったが、此れに驚いた武田元信が、羽黒山巡礼を中止させた。
1,507 5 以下2名を始めとする武田元信の援軍が、丹後国へ下る。
①細川政元
②赤沢朝経
1,507 6 5 細川政元率いる軍が、武田元信の援軍として戦闘に加わる。しかし政元は、以下2名と共に、即座に帰京した。
①細川澄元
②三好之長
其れ以前から政元は、行軍の途上に陸奥国へ下向する等と言い出し、戦意が低かった。
1,507 6 21 合戦が行われ、武田氏が敗北する。
1,507 7 5 細川政元が京都に入る。
1,507 7 8 安良山城を攻めていた細川澄之率いる軍が、安良山城主石川直経と講和する。細川は、安良山城は陥落したと触れ回った上で、落城を偽装して兵を引き上げて京都に戻った。但此の時点で、府中(現在の京都府宮津市中野・大垣付近)では、依然として今熊野城の一色義有本隊・阿弥陀ヶ峰城の延永春信勢を武田元信・赤沢朝経勢が包囲している状態であった。
1,507 8 1 細川政元が、自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に、以下2名によって殺害される。
①竹田孫七
②福井四郎
此の暗殺を企て、竹田・福井を唆したのは以下2名であった。
①香西元長
②薬師寺長忠
1,507 8 2 以下3名が、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃する。
①細川澄之
②香西元長
③薬師寺長忠
三好は、細川を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)に逃れ、其の後、山中為俊を頼って甲賀郡に落ち延び、山中の下で、在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んだ。
1,507 8 3 細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報が、丹後国に居た以下の細川政元勢に齎される。
①赤沢朝経
②赤沢長経
③古市胤盛
④粟屋親栄
朝経は、一色義有と和睦した。又此の頃、細川政元が殺害された事を知った石川直経等が挙兵し、普甲谷(現在の京都府宮津市小田)で合戦を行った。
1,507 8 4 赤沢朝経が宮津城(現在の京都府宮津市鶴賀)に退く。退路を塞がれた赤沢は、文殊堂(現在の京都府宮津市文珠)にて自刃した。又武田元信率いる軍は、以下2名を含む数百名の戦死者を出し、若狭国・丹波国へ退却した。
①粟屋親栄
②古市胤盛
1,507 8 16 細川澄之が、丹波国から上洛する。足利義澄は、細川に御内書を下し、細川京兆家の当主として承認した。
1,507 9 2 六角氏綱が、京都から近江国に帰国する。六角は、当初は細川澄之と結んでいたものの裏切り、京都の人々は、更に政治情勢が不安定になるのではないかと危惧した。
1,507 9 7 近江国甲賀の国人等と共に京都に戻った三好之長が、以下3名等と共に、細川澄之の屋敷を襲撃する。
①細川高国
②細川政賢
③細川尚春
澄之は自害し、以下2名は討死した。
①香西元長
②薬師寺長忠
1,507 9 8 細川澄元が、足利義澄に拝謁し、京兆家の家督を承認される。
1,507 12 28 以下2名が、上洛を意図し、大船70隻を中心とした艦隊を率い、三田尻(現在の山口県防府市)を出発する。
①足利義稙
②大内義興
大内は、右田弘詮等に本国の留守を任せた上で出発に至った。足利・大内は、西国の有力守護に味方になる様要請しつつ、防府に入った。
ロスチャイルド利権・バクー油田に関する電子書籍 スターリンはバクー油田労働者を扇動し、ストライキを起こした。