以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
ノーベルより凄い発明家は他にも沢山居る。では何故ノーベル賞が世界的な権威を有する賞となったのか。それはノーベル家がロスチャイルド家と一緒に石油ビジネスをやっていたから。
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| ≈ | 1,507 | 5 | 細川政元が、羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)に巡礼に行くと言い出し、京都を出発する。丹波国を経由して若狭国に入ったが、此れに驚いた武田元信が、羽黒山巡礼を中止させた。 | |
| ≈ | 1,507 | 5 |
以下2名を始めとする武田元信の援軍が、丹後国へ下る。 ①細川政元 ②赤沢朝経 |
|
| 1,507 | 6 | 5 |
細川政元率いる軍が、武田元信の援軍として戦闘に加わる。しかし政元は、以下2名と共に、即座に帰京した。 ①細川澄元 ②三好之長 其れ以前から政元は、行軍の途上に陸奥国へ下向する等と言い出し、戦意が低かった。 |
|
| 1,507 | 6 | 21 | 合戦が行われ、武田氏が敗北する。 | |
| 1,507 | 7 | 5 | 細川政元が京都に入る。 | |
| 1,507 | 7 | 8 | 安良山城を攻めていた細川澄之率いる軍が、安良山城主石川直経と講和する。細川は、安良山城は陥落したと触れ回った上で、落城を偽装して兵を引き上げて京都に戻った。但此の時点で、府中(現在の京都府宮津市中野・大垣付近)では、依然として今熊野城の一色義有本隊・阿弥陀ヶ峰城の延永春信勢を武田元信・赤沢朝経勢が包囲している状態であった。 | |
| 1,507 | 8 | 1 |
細川政元が、自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に、以下2名によって殺害される。 ①竹田孫七 ②福井四郎 此の暗殺を企て、竹田・福井を唆したのは以下2名であった。 ①香西元長 ②薬師寺長忠 |
|
| 1,507 | 8 | 2 |
以下3名が、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃する。 ①細川澄之 ②香西元長 ③薬師寺長忠 三好は、細川を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)に逃れ、其の後、山中為俊を頼って甲賀郡に落ち延び、山中の下で、在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んだ。 |
|
| 1,507 | 8 | 3 |
細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報が、丹後国に居た以下の細川政元勢に齎される。 ①赤沢朝経 ②赤沢長経 ③古市胤盛 ④粟屋親栄 朝経は、一色義有と和睦した。又此の頃、細川政元が殺害された事を知った石川直経等が挙兵し、普甲谷(現在の京都府宮津市小田)で合戦を行った。 |
|
| 1,507 | 8 | 4 |
赤沢朝経が宮津城(現在の京都府宮津市鶴賀)に退く。退路を塞がれた赤沢は、文殊堂(現在の京都府宮津市文珠)にて自刃した。又武田元信率いる軍は、以下2名を含む数百名の戦死者を出し、若狭国・丹波国へ退却した。 ①粟屋親栄 ②古市胤盛 |
|
| 1,507 | 8 | 16 | 細川澄之が、丹波国から上洛する。足利義澄は、細川に御内書を下し、細川京兆家の当主として承認した。 | |
| 1,507 | 9 | 2 | 六角氏綱が、京都から近江国に帰国する。六角は、当初は細川澄之と結んでいたものの裏切り、京都の人々は、更に政治情勢が不安定になるのではないかと危惧した。 | |
| 1,507 | 9 | 7 |
近江国甲賀の国人等と共に京都に戻った三好之長が、以下3名等と共に、細川澄之の屋敷を襲撃する。 ①細川高国 ②細川政賢 ③細川尚春 澄之は自害し、以下2名は討死した。 ①香西元長 ②薬師寺長忠 |
|
| 1,507 | 9 | 8 | 細川澄元が、足利義澄に拝謁し、京兆家の家督を承認される。 | |
| 1,507 | 12 | 28 |
以下2名が、上洛を意図し、大船70隻を中心とした艦隊を率い、三田尻(現在の山口県防府市)を出発する。 ①足利義稙 ②大内義興 大内は、右田弘詮等に本国の留守を任せた上で出発に至った。足利・大内は、西国の有力守護に味方になる様要請しつつ、防府に入った。 |
|