西暦1507年は、細川政元が暗殺され、細川澄之が自害して、細川澄元が京兆家の家督を承認された年である。暗殺は8月1日の事で、政元は自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に竹田孫七・福井四郎によって殺害され、此れを唆したのは香西元長と薬師寺長忠であった。9月7日には三好之長等が澄之の屋敷を襲撃して澄之は自害し、翌8日に澄元が足利義澄に拝謁して家督を承認された。

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年月日 出来事
≈ 1,507 5 細川政元が、羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)に巡礼に行くと言い出し、京都を出発する。丹波国を経由して若狭国に入ったが、此れに驚いた武田元信が、羽黒山巡礼を中止させた。
≈ 1,507 5 以下2名を始めとする武田元信の援軍が、丹後国へ下る。
①細川政元
②赤沢朝経
1,507 6 5 細川政元率いる軍が、武田元信の援軍として戦闘に加わる。しかし政元は、以下2名と共に、即座に帰京した。
①細川澄元
②三好之長
其れ以前から政元は、行軍の途上に陸奥国へ下向する等と言い出し、戦意が低かった。同日、武田と赤沢朝経は、府中(現在の京都府宮津市中野・大垣付近)への侵攻を開始した。此れを受けて、一色義有が今熊野城、延永春信が阿弥陀ヶ峰城に其々籠城し、武田・赤沢は此れ等を包囲し、戦いが始まった。
1,507 6 21 合戦が行われ、武田氏が敗北する。
1,507 7 5 細川政元が京都に入る。
1,507 7 8 安良山城を攻めていた細川澄之率いる軍が、安良山城主石川直経と講和する。細川は、安良山城は陥落したと触れ回った上で、落城を偽装して兵を引き上げて京都に戻った。但此の時点で、府中(現在の京都府宮津市中野・大垣付近)では、依然として今熊野城の一色義有本隊・阿弥陀ヶ峰城の延永春信勢を武田元信・赤沢朝経勢が包囲している状態であった。
1,507 8 1 細川政元が、自身の屋敷の湯殿にて、魔法を修する為と称して行水を行なっている最中に、以下2名によって殺害される。
①竹田孫七
②福井四郎
此の暗殺を企て、竹田・福井を唆したのは以下2名であった。
①香西元長
②薬師寺長忠
1,507 8 2 以下3名が、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃する。
①細川澄之
②香西元長
③薬師寺長忠
三好は、細川を守って青地城(現在の滋賀県草津市青地町)に逃れ、其の後、山中為俊を頼って甲賀郡に落ち延び、山中の下で、在地勢力を味方に引き入れ、近江国人衆を取り込んだ。
1,507 8 3 細川政元が京都で家臣に殺害されたとの情報が、丹後国に居た以下の細川政元勢に齎される。
①赤沢朝経
②赤沢長経
③古市胤盛
④粟屋親栄
朝経は、一色義有と和睦した。又此の頃、細川政元が殺害された事を知った石川直経等が挙兵し、普甲谷(現在の京都府宮津市小田)で合戦を行った。
1,507 8 4 赤沢朝経が宮津城(現在の京都府宮津市鶴賀)に退く。退路を塞がれた赤沢は、文殊堂(現在の京都府宮津市文珠)にて自刃した。又武田元信率いる軍は、以下2名を含む数百名の戦死者を出し、若狭国・丹波国へ退却した。
①粟屋親栄
②古市胤盛
1,507 8 16 細川澄之が、丹波国から上洛する。足利義澄は、細川に御内書を下し、細川京兆家の当主として承認した。
1,507 9 2 六角氏綱が、京都から近江国に帰国する。六角は、当初は細川澄之と結んでいたものの裏切り、京都の人々は、更に政治情勢が不安定になるのではないかと危惧した。
1,507 9 7 近江国甲賀の国人等と共に京都に戻った三好之長が、以下3名等と共に、細川澄之の屋敷を襲撃する。
①細川高国
②細川政賢
③細川尚春
澄之は自害し、以下2名は討死した。
①香西元長
②薬師寺長忠
1,507 9 8 細川澄元が、足利義澄に拝謁し、京兆家の家督を承認される。
≈ 1,507 10 赤沢長経が、細川澄元の命により、大和国への侵攻を開始する。
1,507 10 3 赤沢長経が大和国への再侵攻に向けて動き出しているとの報が、大和国衆一揆に齎される。
1,507 10 15 赤沢長経が、宇治を出陣し、以下に着陣する。
①木津
②狛(現在の京都府木津川市山城町上狛)
③祝園(現在の京都府相楽郡精華町)
対する筒井党は郡山周辺に布陣した。
1,507 10 20 以下3名が大和国に入り、其々布陣する。
①箸尾為国(宿院堂(現在の奈良県奈良市)に布陣)
②十市遠治(西御門堂(現在の奈良県奈良市)に布陣)
③楢原栄遠(内侍原堂(現在の奈良県奈良市)に布陣)
1,507 10 21 越智家教が、赤沢長経率いる軍に対抗する為、大和国衆一揆と合流する。又、畠山家の足軽も、以下を経由して大和国に入った。
①鳥見(現在の奈良県奈良市富雄地区)
②生駒
1,507 11 10 大和国衆一揆が、山田(現在の京都府相楽郡精華町)に攻撃を仕掛ける。赤沢長経率いる軍も、木津から打って出て反撃し、各所で合戦となる。
1,507 11 16 畠山義英の重臣である遊佐氏が、生駒を越えて大和国に入る。大和国衆一揆と共に、赤沢長経率いる軍を挟み撃ちにする事が狙いであった。此れを受けて細川澄元は、山崎付近まで出陣し、以下2名を牽制した。
①畠山義英
②畠山尚順
義英・尚順は動きを止めた。其の隙を突いて、赤沢は、般若寺(現在の奈良県奈良市)付近へ進軍した。
1,507 11 22 以下の人間が赤沢長経に加勢し、一斉に攻撃を開始する。
①古市澄胤
②三好長尚
③丹波五人衆
此れにより、大和国衆一揆は総崩れとなり、以下の人間は没落し、落ち延びた。
①成身院順盛(高屋(現在の大阪府羽曳野市古市)に落ち延びた)
②筒井順賢(高屋に落ち延びた)
③十市遠治(太子(現在の大阪府南河内郡)に落ち延びた)
④箸尾為国(堺に落ち延びた)
⑤布施行国(吉野に落ち延びた)
⑥楢原栄遠(栃原(現在の奈良県吉野郡下市町))
⑦越智家令(下渕(現在の奈良県吉野郡大淀町))
⑧片岡氏
赤沢は、大和国に入った。
1,507 11 24 赤沢長経が、番条(現在の奈良県大和郡山市)にて陣を固める。
1,507 12 7 赤沢長経が、京都に引き上げる。
1,507 12 16 大和国衆一揆が再度蜂起し、赤沢長経率いる軍を大和国まで退かせる。
1,507 12 18 赤沢長経が、大和国衆一揆と交戦し、周辺を焼き討ちにする。
1,507 12 20 大和国衆一揆が、赤沢長経方と交戦するも敗れ、大和国一帯が焼き払われる。
1,507 12 28 以下2名が、上洛を意図し、大船70隻を中心とした艦隊を率い、三田尻(現在の山口県防府市)を出発する。
①足利義稙
②大内義興
大内は、右田弘詮等に本国の留守を任せた上で出発に至った。足利・大内は、西国の有力守護に味方になる様要請しつつ、防府に入った。