西暦1,474年は、将軍職の交代と東西両軍の主力同士の単独和睦により、応仁の乱の構図が大きく組み替わった年である。1月7日に足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任され、3月20日には足利義政が花の御所を義尚に譲って小川殿(現在の京都府京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町)に移り、日野富子と義尚が花の御所に残った。第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評している。2月頃の細川政元と山名政豊の和睦交渉は赤松政則・畠山義就・大内政弘の反対で不調に終わったが、4月19日には武田国信の仲介により両者が単独で和睦し、丹後国の所領返還と一色義春への丹後国守護職返付が条件の1つとされ、細川家と山名家を隔てる空堀に橋が架けられて東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)からの参詣人や商人の往来が始まった。5月1日には山名政豊が長男山名常豊を連れて足利義尚に謁見して東幕府への帰参を認められ、8月8日には西軍諸将が足利義尚に出仕して足利義視擁立の姿勢を一変させたが、畠山義就・土岐成頼・大内政弘は此れに反発し、8月には上京・下京の各所で放火を伴う市街戦が続いた。6月21日、足利義視は一色氏の知行していた領国を三河国は讃州細川家、伊勢国・丹後国は一色義春、若狭国は武田国信へと分配する決定を下し、一色は第22代室町幕府丹後国守護に就任、10月頃には丹後国の一色義春勢が武田国信・細川政国の家臣を破って旧領回復に成功し、主将逸見真正は自害、武田は出家した。越前国では、2月頃に朝倉孝景が日野川(現在の福井県)の合戦で増沢祐徳を破り、杣山城(現在の福井県南条郡南越前町社谷)の越前国守護代甲斐敏光も撃破、5月31日には甲斐敏光率いる軍が九頭竜川を超えて岡保(現在の福井県福井市河水町)に進軍して激戦となり、6月29日には朝倉が富樫幸千代と連携して波着寺(現在の福井県福井市成願寺町)周辺で甲斐勢を悉く討ち、7月頃に斎藤妙椿が数千騎を率いて越前国に入り両者を和解させた。加賀国では、11月23日未明に富樫政親が蓮台寺城(現在の石川県小松市蓮代寺町)主富樫幸千代を攻めて陥落させ、此の際第8世本願寺宗主蓮如が政親方として介入したが、政親は本願寺門徒の勢いを恐れて弾圧を始め、幸千代は京都へ敗走して加賀国守護職の奪回工作を行なった。西国では大内政弘が陶弘護の功績を称えて尾張権守に任じ、12月21日には足利義政が改めて大内政弘を左京大夫に任じて懐柔に乗り出している。3月4日には一休宗純が後土御門天皇の勅命により住持となり、2月12日には政所内評定始が再開された。国外では、ボローニャで奢侈条例の一部としてユダヤ人の衣装に関する規制が設けられた。足利義尚は西暦1465年12月11日に足利義政と日野富子の間に生まれ、西暦1464年12月23日に還俗して後継者と定められた足利義視と将軍の座を争う因となった人物であり、九歳で第9代室町幕府征夷大将軍の座に就いた事になる。西軍諸将が足利義尚へ出仕した事で、西暦1469年1月7日に足利義視を戴いて形成された西幕府の名分は失われた。富樫政親は西暦1464年に第15代加賀国守護へ就任した人物であり、西暦1471年8月頃に朝倉孝景が赤松政則を通じて擁立を画策した富樫幸千代を、此の年に蓮台寺城で破っている。陶弘護の尾張権守任官は西暦1472年の長門国阿武郡での大内教幸撃破に始まる功績への報いに当たる。ボローニャの奢侈条例に依るユダヤ人の衣装規制は、西暦1387年に同じ都市で約35世帯200名が数え上げられ、西暦1452年に判別の印の着用義務が課せられて以来の措置であり、西暦1460年7月10日にフランクフルト・アム・マインでゲットーの建設が決まった動きと同じ時期に在る。京では翌西暦1475年2月6日、乱の勃発以来途絶えていた朝廷儀式が再び行われる。

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年月日 出来事
1,474 ボローニャで奢侈条例の一部として、ユダヤ人の衣装に関する規制が設けられる。
1,474 大内政弘が、陶弘護の功績を称え、尾張権守に任じる。
1,474 1 7 足利義政が征夷大将軍職を足利義尚に譲り、義尚が第9代室町幕府征夷大将軍に補任される。
1,474 2 以下2名が和睦交渉を行う。
①細川政元
②山名政豊
しかし、此処でも以下3名は反対し、不調に終わった。
①東軍
❶赤松政則
②西軍
❶畠山義就
❷大内政弘
1,474 2 朝倉孝景が、日野川(現在の福井県)の合戦で、斯波義廉の家臣である増沢祐徳を破る。更に、杣山城(現在の福井県南条郡南越前町社谷)に籠城していた越前国守護代甲斐敏光も撃破した。其の後杣山城は、河合宗清の居城となり、朝倉の支配下となった。
1,474 2 7 河野教通が、宝珠寺(現在の愛媛県伊予市上吾川)に寺領等を、忽那通光に国永分・湯築(現在の愛媛県松山市道後公園周辺)分の所領を安堵する。
1,474 2 8 河野道直が、忽那通光に対し、以下を宛行う。
①國永の所領
②湯築(現在の愛媛県松山市道後公園周辺)
1,474 2 12 政所内評定始が再開される。
1,474 2 12 足利義視が、小早川弘景に小早川煕平の遺産を委ねる。
1,474 3 4 一休宗純が、後土御門天皇の勅命により住持となる。
1,474 3 20 足利義政が、花の御所を足利義尚に譲り、小川殿(現在の京都府京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町)に移る。以下2名は花の御所に残った。
①日野富子
②足利義尚
第180世興福寺別当尋尊は「政務は日野殿が取り仕切り、足利殿は酒に溺れ、諸大名は犬笠懸に興じ、まるで天下泰平の世の様だ」と評した。
1,474 3 28 足利義尚が内裏に参内する。
1,474 3 29 足利義尚が内裏に参内する。
1,474 3 29 畠山義就が、東寺の僧坊に風呂銭を課す。
1,474 4 野田泰忠が、軍忠を注進し、細川政国の確認を得る。
1,474 4 15 忽那通光が、河野通生の下を訪れる。忽那は3通の書簡を持参し、河野通久自筆である事の証明が出された。
1,474 4 18 足利義視が、以下の国の国人に対し、高山城攻めの合力を命じる。
①備後国
②安芸国
1,474 4 19 以下2名が単独で和睦する。
①細川政元
②山名政豊
仲介を務めたのは武田国信であった。武田に突き付けられた和睦の条件の1つとして、一色義直と戦って奪った丹後国の所領を返還し、丹後国守護職を一色義春へ返付する、というものが有った。又同日、細川家と山名家を隔てる空堀には橋が架けられ、東陣(現在の京都府京都市上京区上小川町付近)から山名の陣を通って北野天満宮に参詣する者や、西軍の勢力下であった下京から東陣へ物を売る商人等が往来を始めた。
1,474 5 1 一色義直が、船岡山(現在の京都府京都市北区紫野北舟岡町)の陣営を撤収させる。
1,474 5 1 山名政豊が、自身の長男の山名常豊を連れて、足利義尚に謁見する。政豊の東幕府への帰参が認められた。
1,474 5 9 山名政豊勢と畠山義就勢の足軽同士が交戦する。御構外の山名占拠の堀川以西が東軍支配下となり、人・物の往来が緩和された。
1,474 5 16 和泉国上半国守護家の細川政有が、足利義政から偏諱を受ける。
1,474 5 31 甲斐敏光率いる軍が、坂井郡や甲斐国に逃れた牢人と合流し、九頭竜川(現在の福井県)を超えて、岡保(現在の福井県福井市河水町)に進軍し、朝倉孝景率いる軍を攻撃、戦闘が開始される。以下で激戦が繰り広げられた。
①殿下(現在の福井県福井市)
②桶田(現在の福井県福井市河増町)
朝倉氏景が敵を多数討ち取った。
1,474 6 15 足利義政が、一色義春を引見する。
1,474 6 15 此の頃、甲斐敏光勢と朝倉孝景勢の戦闘が、波着寺(現在の福井県福井市成願寺町)周辺に移る。
1,474 6 21 足利義視が、一色氏の知行していた領国を其々の忠誠に応じて以下の通り分配する決定を下す。
①三河国:讃州細川家
②伊勢国・丹後国:一色義春
③若狭国:武田国信
此れにより、一色は第22代室町幕府丹後国守護に就任した。又、同年足利義政は、第26代室町幕府伊勢国守護北畠政郷に、伊勢国半国を一色に返付する様命じたが、北畠は此れを拒否した。
1,474 6 29 一色義春に丹後国守護職が返付された事に抵抗する以下2名の家臣が、一色勢と丹後国で交戦する。
①武田国信
②細川政国
此の時点で、武田・細川は丹後国を掌握していた。
1,474 6 29 朝倉孝景が、西軍方の富樫成春の弐男富樫幸千代と連携し、波着寺周辺にて甲斐敏光率いる軍と激戦を繰り広げる。波着寺周辺には、半助谷と呼ばれる場所が在り、其処には甲斐と親しい武将の館が在った。此処で敗れれば本拠地に攻め込まれかねない状況であった朝倉は、必死の防戦で、甲斐氏・千福中書増沢・甲斐法花院舎弟を悉く討ち、勝利した。平泉寺(現在の福井県勝山市平泉寺町平泉寺)の衆も多くが損害を受けた。
1,474 6 29 甲斐敏光方が多く討たれた事を知った真盛が、卒塔婆を大畔縄手(現在の福井県福井市岡西谷町付近)に建設する。岡ノ西光寺(現在の福井県福井市次郎丸町)にて百万遍の回向を行なった。
1,474 7 斎藤妙椿が、数千騎を率いて越前国に入り、以下の間を調定の末和解させる。
①朝倉孝景
②甲斐敏光
此の頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、斎藤の反対により実現しなかった。
1,474 8 5 上京中御門方の西軍の足軽が、同じ西軍の大内政弘勢と交戦する。
1,474 8 8 山名政豊を始めとする西軍諸将が、足利義尚に出仕し謁見する。西軍は、足利義視の征夷大将軍擁立の姿勢を一変させ、其の方針転換を名実共に対外的に示した。此の姿勢に以下の人間が反発した。
①畠山義就
②土岐成頼
③大内政弘
1,474 8 13 山名政豊勢が以下を放火する。
①二条大宮
②岩神神社(現在の京都府京都市右京区京北熊田町雨ヶ岳)
③猪熊通・堀川通の在家3〜4町分
1,474 8 14 畠山政長勢が以下を放火する。
①三条坊門小路
②猪熊通
③堀川通
④油小路通
1,474 8 19 大内政弘が、本能寺(現在の京都府京都市中京区下本能寺前町)から猪熊通・堀川通・油小路通周辺に布陣する。又、畠山義就は、二条大宮から三条大宮(現在の京都府京都市中京区)に掛けて布陣した。
1,474 8 24 西軍の足軽が以下を放火する。
①三条坊門小路
②油小路通西面
一方東軍は、河野教通と通じた中川家を始めとする勢力が、土岐成頼の屋敷を攻め落とし、周囲も含めて放火した。
1,474 8 25 東軍が以下を放火する。
①下京土岐第
②妙行寺
③法華寺(現在の京都府京都市下京区西新屋敷中之町)
1,474 8 30 以下等が、大内政弘に呼応して京都に入る。
①大和国添上郡古市(現在の奈良県奈良市古市町)を拠点とする古市氏
②大和国高市郡越智荘(現在の奈良県高市郡高取町付近)を拠点とする越智氏
1,474 9 7 西軍が北野千本に放火する。
1,474 9 7 花の御所から、以下2名に五劔が下される。
①山名政豊
②細川政元
1,474 10 丹後国の一色義春勢が以下2名の家臣を破り、旧領回復に成功する。
①武田国信
②細川政国
武田は援軍を丹後国に送る事が出来ず、主将の逸見真正は自害した。此の敗北を受けて武田は出家した。
1,474 11 23 未明、富樫政親が、籠城していた蓮台寺城(現在の石川県小松市蓮代寺町)主富樫幸千代を攻め、陥落させる。此の際第8世本願寺宗主蓮如が、見返りとして保護して貰う事を意図して政親方として介入した。しかし政親は、本願寺門徒の勢いを恐れ、弾圧を始めた。幸千代は京都へ敗走し、加賀国守護職の奪回工作を行なった。
1,474 12 10 大友親繁の京都郡奉行2名が、佐田河内守に京都郡吉田荘(現在の福岡県行橋市上稗田付近)内の70町を譲る。
1,474 12 21 足利義政が、改めて大内政弘を左京大夫に任じ、懐柔に乗り出す。
1,474 12 24 河野教通が、島家に、伊予郡吾河(現在の愛媛県伊予市上吾川・下吾川)中上分等の所領を与える。
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