以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
垣間見える実直さとプライド。
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,212 | 残酷且つ残忍な性格で、人気を集めていた貴族達をベンガルから追放する等して、廷臣達の反感を買っていたアリー・マルダン・ハルジーが暗殺される。此れにより、イワズ・ハルジーがベンガル総督に復帰した。 | |||
| 1,212 | 1 | 25 | 和田義盛が、自身の四男和田義直に、上総介任官の嘆願書の取り下げを大江広元に伝えさせる。朝廷と交渉を続け、義盛に暫く待つ様伝えていた源実朝は、不快感を隠さなかった。 | |
| 1,212 | 1 | 30 | 明菴栄西が、源実朝の持仏堂での文殊供養の導師を務める。 | |
| 1,212 | 2 | 29 | 法然が入滅する。 | |
| 1,212 | 3 | 5 |
源実朝が和田朝盛に、風邪で奉仕を休んでいる塩谷朝業に対し、梅の枝と以下の和歌を贈る。和歌は読み人知らずで贈られた。 君ならで誰にか見せむ我が宿の軒端ににほふ梅の初花 (貴方以外の誰に見せようか。私の家の軒端で匂っている、今年最初の梅の花を) 塩谷は作者は源であると悟り、以下の返歌を贈った。 嬉しさも匂いも袖に余りける我が為折れる梅の初花 (私の為に梅の初花の枝を折ってお届け頂き、我が家は梅の香りが漂い、私の心は嬉しさで一杯に為りました) |
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| 1,212 | 3 | 23 |
源実朝が、京都大番役を怠けている国に就いて、政務担当御家人を呼んで尋ねる。源は裁決を行い、今後理由も無く1ヶ月出て来なかった者は、3ヶ月勤務期間を延長する様、諸国の守護達に命じた。以下の人間が指揮を担当する事となった。 ①和田義盛 ②三浦義村 ③平盛時 |
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| 1,212 | 4 | 1 |
源実朝が、相模川に架かる橋の修理を命じる。此の橋は、稲毛重成が自身の亡き妻の為に架けたものであり、源頼朝が此の橋の供養の帰路、死去する原因となった落馬をした橋でもあった。其の為、以下3名は討議し、此の橋の修理に否定的であったが、実朝は「頼朝殿は天下を平定して20年政治を行い、官位を極めて亡くなっているし、稲毛は自業自得の天罰である。不吉な橋というものでは無い。橋の修理によって民衆の往来が便利になり、我々が二所詣に行く道も確保できるのだから、壊れて倒れてしまう前に早く修理せよ」という主旨の発言をした。 ①北条義時 ②大江広元 ③三善康信 |
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| 1,212 | 4 | 12 |
源実朝が、三崎(現在の神奈川県三浦市)の三御所へ、以下の人間を連れて出掛ける。 ①北条政子 ②西八条禅尼 ③北条義時 ④北条時房 ⑤大江親広 船中、第3代鶴岡八幡宮寺別当定暁が連れて来た稚児達の舞楽の舞を催した。 |
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| 1,212 | 5 | 20 | 源実朝が後鳥羽上皇への恩と源頼朝の徳を讃える為に建設させた寺院である「大慈寺(現在の神奈川県鎌倉市十二所)」の建設が開始される。 | |
| ≈ | 1,212 | 6 | 後鳥羽上皇が、藤原秀能を壇ノ浦に遣わせ、天叢雲剣の捜索を行わせる。 | |
| 1,212 | 6 | 7 | 北条義時の弐男北条朝時が、西八条禅尼に仕えていた官女の佐渡守藤原親康の娘に艶文を送るも一向に靡かなかった為、深夜に居室に忍び込み、連れ出す。此れが源実朝の怒りを買い、義時から義絶され、駿河国富士郡(現在の静岡県富士市・富士宮市)に蟄居となった。 | |
| 1,212 | 7 | 6 | 2時、大倉御所の侍所で、宿直をしていた御家人が乱闘騒ぎを起こし、2名が死亡する。また、侍所の諸所に刀傷が付いた為、千葉成胤によって再建される事となった。 | |
| 1,212 | 7 | 7 |
2時、大倉御所の侍所で、宿直をしていた以下2名が、枕相論を理由に乱闘騒ぎを起こす。 ①伊達四郎 ②萩生右馬允 止めに入ったそれぞれの郎従2名が死亡した。騒ぎを聞き付けた御家人達が集まり、佐々木義清が、伊達・萩生を捕縛し、和田義盛に引き渡した。源実朝は、直様伊達・萩生を遠流に処し、血に染まり、諸所に刀傷が付いた侍所を、千葉成胤主導で再建させる事にした。以下2名は反対したが、源は押し切った。 ①北条義時 ②大江広元 |
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| 1,212 | 7 | 19 | 明菴栄西が、寿福寺を訪れた源実朝に仏舎利3粒を譲る。 | |
| 1,212 | 7 | 26 | 大倉御所にて和歌会が開かれる。北条義時も参加した。 | |
| 1,212 | 9 | 15 | 源実朝が、諸国の守護・地頭に対し「鷹狩禁断令」を発する。 | |
| 1,212 | 9 | 28 | 源実朝の行列に供奉する為京都を出発していた村上頼時が鎌倉に到着する。村上は此の日大倉御所を訪ね、事前に藤原定家の下を訪れて仕入れていた、藤原の消息や藤原の作った和歌を献上し、更には京都の情報も伝えた。 | |
| 1,212 | 11 | 5 | 源実朝が、大慈寺の建設状況を見る為に大倉郷へと向かう。其の際お供していた三善康信が「西暦1,199年1月頃に夢を見ました。源頼朝殿のお供をして大倉山辺りに行きました。其処に1人の老人が居りました。其の老人は『此の地は清和天皇の時代に相摸丞となった文屋康秀が住んでいた場所である。此処に寺を建てなさい。私が鎮守となりましょう』と言いました。夢から醒めた後、直ぐに頼朝殿に報告しました。其の時頼朝殿は病気療養中でしたが「治ったら寺を建てる」と仰られました。しかし程無くして亡くなられ、叶う事はありませんでした。残念に思っておりましたが、実朝殿が自ら願われて建立されます事は、やはり霊感なのでしょうか」という主旨の発言をした。 | |