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≈は「頃」を意味しています。
御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,199 | 1 | 25 | 源頼朝が、稲毛重成が自身の亡き妻の為に架けた相模川の橋供養に出席する。源は、その帰路に於いて落馬した。 | |
| 1,199 | 2 | 7 | 源頼朝が重病であるとの情報が伝わる。又同日源は出家した。 | |
| 1,199 | 2 | 9 | 源頼朝が、前月の落馬が原因で死去する。此の時点で三幡は女御の宣旨を与えられていた。既に皇后であった九条任子は中宮、同じく皇后の源在子は後宮に居た為、女御の三幡が入内すれば、皇后の中で事実上の最高位となる。一条家は、源が死去した事で後ろ楯を失った。頼朝の死去を受け、安達盛長は出家した。 | |
| 1,199 | 2 | 14 | 源頼朝が重病であるとの情報が京都に伝わる。 | |
| 1,199 | 2 | 16 | 源頼朝が重病であるとの情報を受け、源通親が急遽臨時除目を開き、自身の右近衛大将就任と源頼家の左中将昇進の手続きを取る。 | |
| 1,199 | 2 | 18 | 京都が緊迫した情勢となり、源通親が院御所に立て籠もる。 | |
| 1,199 | 2 | 22 | 朝廷が、源頼家を家督相続させ第2代鎌倉殿とし、源が御家人を以て諸国を守護する事を命じる宣旨を下す。 | |
| 1,199 | 2 | 23 | 藤原定家が、中原親能が上洛して成敗を行うという情報を得る。 | |
| 1,199 | 3 | 4 |
源頼家の鎌倉家継承を公認する宣旨を伝える使者が京都から鎌倉に到着する。同日鎌倉幕府は吉書始を執り行い、以下が政所に参列した。 ①北条時政 ②大江広元 ③三浦義澄 ④源光行 ⑤三善康信 ⑥八田知家 ⑦和田義盛 ⑧比企能員 ⑨梶原景時 ⑩工藤行光 ⑪平盛時 ⑫中原仲業 ⑬三善宣衡 中原が清書した吉書を、大江が寝殿に居る源へ持参した。 |
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| 1,199 | 3 | 9 | 左馬頭源隆保が、自邸に武士を集め、源通親襲撃を謀議していた事が発覚する。 | |
| 1,199 | 3 | 10 | 源通親の下に飛脚が到着し、鎌倉幕府が源を支持する方針が伝えられる。 | |
| 1,199 | 3 | 11 | 定豪が、鶴岡八幡宮寺の供僧職を定舜に譲る。 | |
| 1,199 | 3 | 12 |
左衛門尉の以下3名が源頼家の雑色に捕縛され、大内惟義経由で院御所に連行される。 ①後藤基清 ②中原政経 ③小野義成 又、此の時文覚も捕らえられた。 |
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| 1,199 | 3 | 14 | 中原親能が予定より遅れて上洛する。その後中原は源通親襲撃未遂の処理に当たった。 | |
| 1,199 | 3 | 15 |
以下3名が出仕を止められる。 ①西園寺公経 ②持明院保家 ③源隆保 |
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| 1,199 | 4 | 1 |
以下3名が各々武士の預かりとなり、鎌倉に護送される。しかし、鎌倉幕府は3名を受け取らず、戻された。 ①後藤基清 ②中原政経 ③小野義成 |
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| 1,199 | 4 | 2 | 三幡が高熱を出し発病する。北条政子は諸社に祈願し、諸寺に読経させた。その後京都御所では、一字金輪法が修され、源頼朝の異母弟阿野全成は三幡に奉仕した。しかし甲斐無く、三幡は日毎に窶れていった。京都の名医の針博士丹波時長は何度も三幡の治療に当たる様求められるが固辞した。 | |
| 1,199 | 4 | 2 | 後藤基清が、源通親襲撃計画に関与したとして、讃岐国守護を罷免される。後任として、近藤国平が讃岐国守護に任ぜられた。 | |
| 1,199 | 4 | 2 | 後藤基清が、源通親襲撃計画に関与したとして、讃岐国守護を罷免される。 | |
| 1,199 | 4 | 9 | 丹波時長に往診を求める使者が、鎌倉から京都に派遣される。丹波が固辞する様なら後鳥羽上皇の耳に入れる様言われていた。 | |
| 1,199 | 4 | 16 | 文覚が佐渡国に配流される。 | |
| 1,199 | 4 | 20 |
源頼家が伊勢神宮領である以下6ヶ所の地頭職を停止する。此の措置は源頼朝の遺志であった。警察権までが伊勢神宮側に与えられた。 ①伊良胡御厨(現在の愛知県田原市伊良湖町) ②本神戸(現在の愛知県田原市) ③新神戸(現在の愛知県豊橋市飽海町) ④新加神戸(現在の愛知県豊橋市老津町) ⑤蒲御厨(現在の静岡県浜松市) ⑥尾張国御厨 |
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| 1,199 | 4 | 22 | 源隆保が左馬頭を罷免される。 | |
| 1,199 | 4 | 27 | 問注所が鎌倉幕府の外に移転し、初代問注所執事三善康信が引き続き責任を負った。 | |
| ≈ | 1,199 | 5 | 後鳥羽上皇が、丹波時長に三幡の往診に当たる様院宣を下す。 | |
| 1,199 | 5 | 8 |
源頼家が自ら直に訴訟を裁く事が停止される。又、以下の人間以外の者が源に訴訟を持ち込む事が不可となった。 ①北条時政 ②北条義時 ③大江広元 ④三善康信 ⑤中原親能 ⑥三浦義澄 ⑦八田知家 ⑧和田義盛 ⑨比企能員 ⑩安達盛長 ⑪足立遠元 ⑫梶原景時 ⑬二階堂行政 |
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| 1,199 | 5 | 16 |
以下2名が政所に張り紙をする。 ①梶原景時 ②中原親能の家臣中原仲業 張り紙には「以下5名が鎌倉で狼藉を働いたとしても民衆は刃向かってはいけない。此れに違反した者は罪人として名を調べて書き出す様に村や里に命令を下す事。又、此の5名以外の者は特別な仰せが無ければ源頼家と対面させない」という主旨の内容が記載された。 ①小笠原長経 ②比企能員の参男比企宗員 ③比企能員の四男比企時員 ④中野能成 ⑤北条時房 |
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| 1,199 | 5 | 23 | 源頼家が東国の地頭達に、水の便の有る荒野を新しく開拓する様命じる。 | |
| 1,199 | 6 | 1 |
丹波時長が鎌倉に到着する。この日は三幡の乳母の夫中原親能の亀ケ谷(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷・山ノ内)の屋敷に入った。丹波の宿泊の手配は以下2名が担当となっていた。 ①大江広元 ②八田知家 |
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| 1,199 | 6 | 2 | 丹波時長が、南御門(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の畠山重忠の屋敷に移る。 | |
| 1,199 | 6 | 3 | 丹波時長が、診察料金として砂金20両を受け取り、三幡に朱砂丸を処方する。 | |
| 1,199 | 6 | 8 |
北条時政が丹波時長を接待する。以降は以下の御家人等が日毎に交代で丹波を接待する事となった。 ①三浦義澄 ②佐原義連 ③八田知家 ④梶原景時 |
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| 1,199 | 6 | 10 |
源頼家が、以下2ヶ所の地頭職を停止する。 ①薑御厨(現在の愛知県豊橋市御園町の東田神明宮付近) ②橋良御厨(現在の愛知県豊橋市橋良町・柱一番町・柱二番町・柱三番町・柱四番町・柱五番町・柱六番町・柱七番町・柱八番町・柱九番町付近) |
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| 1,199 | 6 | 16 | 源隆保が土佐国に配流される。 | |
| 1,199 | 6 | 22 | 夕方、三幡が食事をし、回復の兆しを見せる。周囲は喜んだ。 | |
| 1,199 | 6 | 26 | 定豪が、初世勝長寿院別当性我から譲られ、第2世勝長寿院別当に就任する。 | |
| ≈ | 1,199 | 7 | 東大寺の南大門が上棟される。 | |
| 1,199 | 7 | 6 | 三幡の目の上が腫れ始める。 | |
| 1,199 | 7 | 8 | 三幡が衰弱し始める。丹波時長は驚き「今に於いては望みが無く、人力の及ぶ所では無い」と言った。 | |
| 1,199 | 7 | 19 | 三幡の病状を聞いて京都から駆け付けた中原親能が鎌倉に到着する。 | |
| 1,199 | 7 | 20 |
丹波時長が、京都へ向けて鎌倉を出発する。丹波には以下が与えられた。 ①旅の食糧などを運ぶ人夫20名 ②役人2名 ③護衛の兵 ④馬5頭 さらに大江広元も馬を贈った。丹波はもっと早くに出発したかったが、中原親能の到着を待っていた為この日の出発となった。 |
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| 1,199 | 7 | 24 |
12時、三幡が死去する。北条政子等多くの人間が悲嘆に暮れた。中原親能は直様亀ケ谷の屋敷の持仏堂で出家し「寂忍」の法名を名乗った。20時、中原の屋敷の亀谷堂(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷の岩船地蔵堂)に葬られた。以下の御家人達が供した。 ①北条義時 ②大江広元 ③小山朝政 ④三浦義澄 ⑤結城朝光 ⑥八田知家 ⑦畠山重忠 ⑧足立遠元 ⑨梶原景時 ⑩宇都宮頼綱 ⑪佐々木盛季 ⑫二階堂行光 |
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| 1,199 | 7 | 30 | 亀谷堂にて三幡の仏事が執り行われる。北条政子が参列した。導師は、第2世鶴岡八幡宮寺別当尊暁が務めた。 | |
| 1,199 | 8 | 9 | 安達景盛が、源頼家の命により、沢山の盗人を連れて、三河国の宿駅で暴力を振るっていた室平重広征伐の為、鎌倉を出発する。 | |
| 1,199 | 8 | 13 | 源頼家が中野能成に命じ、安達景盛の側室を小笠原長経の屋敷に置き自身の側室とする。源は何度も艶文を送っていたが、返事が無かった為強引に連れ出した。 | |
| 1,199 | 8 | 19 |
夜、源頼家が鎌倉幕府の北向御所に安達景盛の側室を住まわせる。更に源は、以下の5名以外は北向御所に来てはならないとの命令を下した。 ①小笠原長経 ②比企宗員 ③和田朝盛 ④中野能成 ⑤細野四郎 同年5月16日の5名から以下2名が外れた。 ①比企時員 ②北条時房 |
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| 1,199 | 9 | 10 | 安達景盛が、室平重広を捕らえる事が出来ない儘、三河国から鎌倉に帰還する。安達は此処で側室を源頼家に奪われた事を知った。 | |
| 1,199 | 9 | 11 |
安達景盛が源頼家に恨みを持っているという噂が流れる。又、頼家に讒言する者が居た。頼家は以下5名に対し、景盛征伐を命じた。 ①小笠原長経 ②和田朝盛 ③比企三郎 ④中野能成 ⑤細野四郎 夜、小笠原率いる軍が、甘縄に在る安達盛長の屋敷に押し寄せた。其れを知った北条政子は盛長の屋敷に入り、二階堂行光を遣わせ、源に以下の主旨の内容を伝えさせた。 「源頼朝が亡くなってから月日も経っていません。三幡も亡くなり、悲嘆は1つに留まらないのに、今戦闘を好まれる様子が見えるのは、正に乱世の元です。中でも、景盛は頼朝を信頼していたので、頼朝も景盛を気に入っておられた。景盛に罪科が有ると思われるなら、私が直ぐに尋問し、成敗も致しましょう。事実も確かめもせず、誅戮を加えられたならば、きっと後悔される事になるでしょう。其れでも尚景盛を追罰しようと思われるならば、私が先ず其の矢に当たりましょう」 此れを受け頼家は、景盛征伐を撤回した。此の日北条は、其の儘盛長の屋敷に宿泊した。此の一連の出来事を受けて大江広元は「こういった例が無い訳では無い。白河上皇は、源仲宗の妻祇園女御を御所に連れ出して寵愛し、仲宗を隠岐国へ流しました」という主旨の発言をした。 |
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| 1,199 | 9 | 12 |
北条政子が、安達盛長の屋敷に安達景盛を呼ぶ。北条は「昨日は謀を巡らせ、一旦は源頼家の無謀な行いを止めさせる事が出来ましたが、私は既に老婆です。後々此の事を源が恨む事が有っても、此れを抑える事は出来ないかも知れません。だから、景盛の方から源を恨む事は無いという起請文を源に献上しなさい」という主旨の発言をした。景盛は応じ、起請文を作成した。佐々木盛綱は、此の起請文を源に提出すると共に、以下の北条の咎めを伝達した。 昨日、景盛を誅殺されようとしましたが、粗忽の至りであり、此の様な不義は見た事が有りません。凡そ今の情勢を考えると、国内の守備はなっていない。政治に倦んで民の憂いを考えていない。他人の妾を我が物にし、人の誹りを省みていない。又、召し使っている者も賢人哲人に程遠く、主君に邪佞に属する者達です。言うまでも無く、源氏は幕府を作り上げた功績のある一族で、北条は私達の親戚です。源頼朝は北条氏を大切にされ、常に座右にお招きになっていました。其れなのに今は北条氏に対してお褒めの言葉が無いばかりか、皆を蔑んで実名で呼ばれるので、各々は恨みを残すという噂が有ります。其れでも、事態に対して冷静な対処を為されたならば、今は末法思想でいう末代であっても、合戦が起こる事は無いでしょう。 |
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| 1,199 | 10 | 17 | 鎌倉幕府が不動明王像の供養を行う。導師は明菴栄西が務めた。 | |
| ≈ | 1,199 | 11 | 伊勢神宮が、安達盛長の派遣した守護代官善耀によって押妨されているとの訴えを起こす。安達は、西暦1,199年4月20日の源頼家の地頭職停止の命令を無視し、従来通り善耀に伊勢神宮領を支配させていた。最終的には奉行の裁定により事件は収束した。 | |
| 1,199 | 11 | 15 | 大倉御所の侍所にて、結城朝光が、夢のお告げを受けたとして、死去した源頼朝の為に一万遍の念仏を唱える事を周囲に勧め、皆で南無阿弥陀仏を唱和する。結城が「忠臣は二君に仕えずと申すが、源頼朝殿が亡くなられた時に出家を留まった事を大変後悔している」という主旨の発言をすると、源に仕えていた周囲の者達は涙した。 | |
| 1,199 | 11 | 17 |
阿野全成の妻阿波局が、結城朝光に対し「一昨日の貴方の発言が謀反心の有る証拠であると梶原景時が源頼家に讒言した事により、貴方は殺されてしまうかも知れません」と告げる。此れを受けて結城は、三浦義村に相談した。結城は「源頼朝公より受けた御恩を思うと須弥山の頂より高いもので、昔を慕う余りに忠臣は二君に仕えずと言った」と釈明した。三浦は以下2名と話し合いを持った。 ①和田義盛 ②安達盛長 結論として、梶原を鎌倉から排除する事が決定された。 |
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| 1,199 | 11 | 18 |
以下の人間を含む66名が鶴岡八幡宮寺の回廊に集結する。 ①千葉常胤 ②千葉胤正 ③三浦義澄 ④三浦義村 ⑤畠山重忠 ⑥小山朝政 ⑦結城朝光 ⑧足立遠元 ⑨和田義盛 ⑩和田義盛の嫡男和田常盛 ⑪比企能員 ⑫伊賀朝光 ⑬二階堂行光 ⑭葛西清重 ⑮八田知家の嫡男八田知重 ⑯波多野忠綱 ⑰大井実久 ⑱津々見忠季 ⑲渋谷重国の弐男渋谷高重 ⑳山内首藤経俊 ㉑宇都宮頼綱 ㉒榛谷重朝 ㉓安達盛長 ㉔佐々木盛綱 ㉕稲毛重成 ㉖安達景盛 ㉗岡崎義実 ㉘土屋義清 ㉙東重胤 ㉚土肥遠平の嫡男土肥維平 ㉛河野通信 ㉜曽我祐信の嫡男曽我祐綱 ㉝土肥実平の弟二宮友平 ㉞長江義景の息子長江明義 ㉟毛呂季光の息子毛呂季綱 ㊱天野遠景 ㊲工藤行光 ㊳中原仲業 ㊴長沼宗政(署名のみ) 文章が上手と評判で、梶原景時と遺恨の有った中原は、梶原景時糾弾の連判状の文章を作成して読み上げ、66名は其の連判状に署名・血判をした。連判状には「鶏を養う者は狸を飼わず、獣を飼う者は山犬を育てない」との一文が有ったが、義村は其れに感心した。其の後義盛と義村が大江広元に提出した。しかし大江は、源頼家に連判状を提出しなかった。 |
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| 1,199 | 11 | 29 | 和田義盛が大江広元に、連判状を源頼家に提出したかどうか尋ねる。大江がまだ提出していない旨を伝えると、和田は「貴殿は、関東の爪牙耳目として長年働いてきた。梶原景時の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と大江を激しく詰問した。 | |
| 1,199 | 12 | 1 | 大江広元が、源頼家に連判状を提出する。源は、連判状を梶原景時に渡して弁解する様求めた。 | |
| 1,199 | 12 | 2 |
梶原景時が、弁解をしない儘、以下2名を始めとする子息・親類を率いて、所領である相模国一之宮(現在の神奈川県高座郡寒川町)の館へと下る。 ①梶原景季 ②梶原景高 しかし、梶原景茂は鎌倉に残った。 |
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| 1,199 | 12 | 7 |
以下の人間等が、比企能員の屋敷にて蹴鞠を行う。 ①源頼家 ②北条時房 ③比企時員 ④冨部五郎 ⑤細野四郎 ⑥大輔房源性 其の後酒宴が開かれ、源と梶原景茂が対面する。其の場には中原仲業もいた。源は「梶原景時が権威を振るって傍若無人だった為、連判状が出された」と景茂に説明した。此れに対し景茂は「景時殿は頼朝殿の寵愛を受けていたから他の者より抜きん出ていただけで、頼朝が亡くなってからどうして非議を行えるだろうか、景時は連判状を見て、他者から攻められるのを恐れている」という主旨の返答をした。周囲の者達は、景茂の返事の趣きが殊勝だと、密かに話し合った。 |
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| 1,199 | 12 | 8 | 源頼家が、比企能員の屋敷にて蹴鞠を催す。 | |
| 1,199 | 12 | 28 | 梶原景時が、一宮の所領から鎌倉に帰還する。 | |