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≈は「頃」を意味しています。
御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,192 | 1 | 2 | 後白河上皇が、再建が完了した法住寺殿に移り住む。 | |
| 1,192 | 1 | 3 | 九条兼実が関白宣下され、第22代関白に就任する。 | |
| 1,192 | 1 | 10 |
後白河上皇が、法住寺殿の再建を担った以下2名に剣を下賜する。 ①中原親能 ②大江広元 |
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| 1,192 | 1 | 11 | 後白河上皇が体調を崩す。 | |
| 1,192 | 1 | 14 | 後白河上皇が、自身が建立させた持仏堂である長講堂の供養の為、六条殿(現在の京都府京都市下京区天使突抜)に御幸する。 | |
| 1,192 | 1 | 15 |
以下2名が源頼朝に対し、法住寺殿の再建に対する感謝を綴った書簡を送る。 ①高階栄子 ②吉田経房 |
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| 1,192 | 1 | 25 | 鎌倉幕府が、西海道の地頭に対し東大寺大仏殿用材の運搬に協力する事を命じる下文を発する。結果、1年以内に柱118本が東大寺に納入された。 | |
| ≈ | 1,192 | 2 | 1 | 後白河上皇が体調を崩し床に伏す。 |
| 1,192 | 2 | 14 |
後白河上皇の体調の回復を祈り、以下2箇所への奉幣と、安徳天皇の御堂の建立が行われる。 ①崇徳天皇御廟(現在の京都府京都市東山区祇園町南側) ②藤原頼長の墓(現在の奈良県奈良市般若寺町) |
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| 1,192 | 4 | 18 |
雨の中、後鳥羽天皇が後白河上皇のお見舞いの為、六条殿に行幸する。此の時後白河上皇の容態はかなり悪かったが、後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌った。後鳥羽天皇が内裏に還御すると、後白河上皇は高階栄子を使者として以下の遺領処分の内容を認めた遺詔を後鳥羽天皇に伝達させた。 ①後鳥羽天皇 ❶法住寺殿 ❷蓮華王院(現在の京都府京都市東山区三十三間堂廻り) ❸六勝寺(現在の京都府京都市左京区の岡崎通周辺) ❹鳥羽殿(現在の京都府京都市伏見区中島前山町) ②後白河上皇の第1皇女亮子内親王 ❶押小路御所 ③後白河上皇の第2皇女好子内親王 ❶仁和寺花園御所(現在の京都府京都市右京区御室大内) ④後白河上皇の第3皇女式子内親王 ❶大炊殿(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町) ❷白河常光院(現在の京都府京都市左京区岡崎法勝寺町) ❸其の他3ヶ所の荘園 ⑤覲子内親王 ❶六条殿 ❷長講堂とその所領 後白河上皇に批判的であった九条兼実も「誠に穏当な処分である」と評価した。 |
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| 1,192 | 4 | 26 | 16時、後白河上皇が六条殿にて崩御する。重源は「私は、後白河上皇に代わって東大寺復興をやっていたに過ぎない。上皇様亡き今、私は何をすれば良いのだ」と天を仰いで嘆いた。以降の東大寺の再建支援は源頼朝が担った。 | |
| 1,192 | 8 | 21 |
源頼朝が、後鳥羽天皇から初代鎌倉幕府征夷大将軍を宣下される。頼朝が望んだのは「大将軍」であった。これを受け、朝廷にて以下の4つの候補が挙がった。 ①惣官 ②征東大将軍 ③征夷大将軍 ④上将軍 惣官は平宗盛、征東大将軍は源義仲が各々任官したが、何も頼朝征伐の為に任命されたものであった為、不吉であるとされ却下された。上将軍も春秋時代以前から存在した中国の官職である為除外された。結果、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍が選定された。 |
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| 1,192 | 10 | 3 |
朝廷が、大部荘(現在の兵庫県小野市)の荘園の境界を確定する宣旨を発布する。重源が、東大寺の荘園の中で最も米の生産量の多かった大部荘の支配権を確立する為に、朝廷に訴えていた。大部荘は西暦1,190年から本格的な経営が始まっており、重源は、自身の甥で弟子の観阿と、更には如阿を大部荘の預所に任命し、下向させた。観阿・如阿は、此の年に重源主導で建立した浄土寺(現在の兵庫県小野市浄谷町)に在る段丘に溜池を築き、段丘面に水田を開発していった。又、荒廃していた堂舎の復興、仏像の修復にも当たった。浄土寺は、大部荘や伊賀国の以下の荘園を管理する役割を担った。 ①山田有丸荘(現在の三重県伊賀市) ②広瀬荘(現在の三重県伊賀市) ③阿波荘(現在の三重県伊賀市) |
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| ≈ | 1,192 | 10 | 浄土寺の大仏が完成する。重源は、東大寺大仏殿の工事に万全を期す為、大仏殿より規模の小さい大仏を新工法で試作した。 | |