西暦1,192年は、後白河上皇が崩御し、源頼朝が初代鎌倉幕府征夷大将軍に任じられた年である。1月2日、後白河上皇は再建が完了した法住寺殿に移り住み、1月10日には再建を担った中原親能と大江広元に剣を下賜、1月15日には高階栄子と吉田経房が源頼朝へ感謝を綴った書簡を送っている。1月3日には九条兼実が関白宣下され第22代関白に就任した。然し1月11日に後白河上皇は体調を崩し、1月14日に自身が建立させた持仏堂である長講堂の供養の為に六条殿へ御幸した後、2月1日頃には床に伏した。2月14日には体調の回復を祈って崇徳天皇御廟と藤原頼長の墓への奉幣と安徳天皇の御堂の建立が行われている。4月18日、雨の中を後鳥羽天皇が六条殿に行幸して見舞うと、容態のかなり悪かった後白河上皇は後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌い、還御の後、高階栄子を使者として遺詔を伝達させた。後鳥羽天皇へ法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽殿、亮子内親王へ押小路御所、好子内親王へ仁和寺花園御所、式子内親王へ大炊殿・白河常光院と3ヶ所の荘園、覲子内親王へ六条殿と長講堂及び其の所領を充てる内容で、後白河上皇に批判的であった九条兼実も誠に穏当な処分であると評価した。4月26日16時、後白河上皇は六条殿にて崩御する。西暦1181年に後白河上皇から東大寺大勧進職に任じられた重源は、自分は後白河上皇に代わって東大寺復興をやっていたに過ぎず、上皇亡き今何をすれば良いのかと天を仰いで嘆き、以降の東大寺の再建支援は源頼朝が担う事となった。1月25日には鎌倉幕府が西海道の地頭に東大寺大仏殿用材の運搬への協力を命じる下文を発し、1年以内に柱118本が東大寺に納入されている。8月21日、源頼朝が後鳥羽天皇から初代鎌倉幕府征夷大将軍を宣下された。西暦1190年12月の上洛では征夷大将軍への就任を望みながら権大納言に留まっており、後白河上皇の崩御を経て漸く容れられた事になる。源頼朝が望んだのは大将軍であり、朝廷では惣官・征東大将軍・征夷大将軍・上将軍の4つが候補に挙がったが、惣官は平宗盛、征東大将軍は源義仲が各々任官し何れも源頼朝征伐の為に任命されたものであった為に不吉として却下され、上将軍も春秋時代以前から存在した中国の官職である為に除外され、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍が選定された。10月3日には朝廷が大部荘の荘園の境界を確定する宣旨を発布した。東大寺の荘園の中で最も米の生産量の多かった大部荘の支配権を確立する為に重源が訴えていたもので、重源は甥で弟子の観阿と如阿を預所に任命して下向させ、両名は此の年重源主導で建立した浄土寺に在る段丘に溜池を築いて水田を開発し、荒廃していた堂舎の復興と仏像の修復にも当たった。浄土寺は大部荘や伊賀国の山田有丸荘・広瀬荘・阿波荘を管理する役割を担っている。此の寺と荘園の経営は西暦1193年の備前国の造営料国化へと続いて行く。10月頃には浄土寺の大仏が完成した。重源は東大寺大仏殿の工事に万全を期す為、大仏殿より規模の小さい大仏を新工法で試作したのであった。

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年月日 出来事
1,192 1 2 後白河上皇が、再建が完了した法住寺殿に移り住む。
1,192 1 3 九条兼実が関白宣下され、第22代関白に就任する。
1,192 1 10 後白河上皇が、法住寺殿の再建を担った以下2名に剣を下賜する。
①中原親能
②大江広元
1,192 1 11 後白河上皇が体調を崩す。
1,192 1 14 後白河上皇が、自身が建立させた持仏堂である長講堂の供養の為、六条殿(現在の京都府京都市下京区天使突抜)に御幸する。
1,192 1 15 以下2名が源頼朝に対し、法住寺殿の再建に対する感謝を綴った書簡を送る。
①高階栄子
②吉田経房
1,192 1 25 鎌倉幕府が、西海道の地頭に対し東大寺大仏殿用材の運搬に協力する事を命じる下文を発する。結果、1年以内に柱118本が東大寺に納入された。
1,192 2 1 後白河上皇が体調を崩し床に伏す。
1,192 2 14 後白河上皇の体調の回復を祈り、以下2箇所への奉幣と、安徳天皇の御堂の建立が行われる。
①崇徳天皇御廟(現在の京都府京都市東山区祇園町南側)
②藤原頼長の墓(現在の奈良県奈良市般若寺町)
1,192 4 18 雨の中、後鳥羽天皇が後白河上皇のお見舞いの為、六条殿に行幸する。此の時後白河上皇の容態はかなり悪かったが、後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌った。後鳥羽天皇が内裏に還御すると、後白河上皇は高階栄子を使者として以下の遺領処分の内容を認めた遺詔を後鳥羽天皇に伝達させた。
①後鳥羽天皇
❶法住寺殿
❷蓮華王院(現在の京都府京都市東山区三十三間堂廻り)
❸六勝寺(現在の京都府京都市左京区の岡崎通周辺)
❹鳥羽殿(現在の京都府京都市伏見区中島前山町)
②後白河上皇の第1皇女亮子内親王
❶押小路御所
③後白河上皇の第2皇女好子内親王
❶仁和寺花園御所(現在の京都府京都市右京区御室大内)
④後白河上皇の第3皇女式子内親王
❶大炊殿(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町)
❷白河常光院(現在の京都府京都市左京区岡崎法勝寺町)
❸其の他3ヶ所の荘園
⑤覲子内親王
❶六条殿
❷長講堂とその所領
後白河上皇に批判的であった九条兼実も「誠に穏当な処分である」と評価した。
1,192 4 26 16時、後白河上皇が六条殿にて崩御する。重源は「私は、後白河上皇に代わって東大寺復興をやっていたに過ぎない。上皇様亡き今、私は何をすれば良いのだ」と天を仰いで嘆いた。以降の東大寺の再建支援は源頼朝が担った。
1,192 8 21 源頼朝が、後鳥羽天皇から初代鎌倉幕府征夷大将軍を宣下される。頼朝が望んだのは「大将軍」であった。これを受け、朝廷にて以下の4つの候補が挙がった。
①惣官
②征東大将軍
③征夷大将軍
④上将軍
惣官は平宗盛、征東大将軍は源義仲が各々任官したが、何も頼朝征伐の為に任命されたものであった為、不吉であるとされ却下された。上将軍も春秋時代以前から存在した中国の官職である為除外された。結果、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍が選定された。
1,192 10 3 朝廷が、大部荘(現在の兵庫県小野市)の荘園の境界を確定する宣旨を発布する。重源が、東大寺の荘園の中で最も米の生産量の多かった大部荘の支配権を確立する為に、朝廷に訴えていた。大部荘は西暦1,190年から本格的な経営が始まっており、重源は、自身の甥で弟子の観阿と、更には如阿を大部荘の預所に任命し、下向させた。観阿・如阿は、此の年に重源主導で建立した浄土寺(現在の兵庫県小野市浄谷町)に在る段丘に溜池を築き、段丘面に水田を開発していった。又、荒廃していた堂舎の復興、仏像の修復にも当たった。浄土寺は、大部荘や伊賀国の以下の荘園を管理する役割を担った。
①山田有丸荘(現在の三重県伊賀市)
②広瀬荘(現在の三重県伊賀市)
③阿波荘(現在の三重県伊賀市)
1,192 10 浄土寺の大仏が完成する。重源は、東大寺大仏殿の工事に万全を期す為、大仏殿より規模の小さい大仏を新工法で試作した。
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