西暦1,190年は、奥州の残党による大河兼任の乱が鎮圧され、源頼朝が上洛して権大納言と右近衛大将に任じられた年である。1月頃、西暦1189年に奥州藤原氏が滅んだ後の奥州にて、大河兼任が源義高と称して嫡男鶴太郎・弐男於幾内次郎と共に出羽国山北郡にて7,000騎で挙兵し、次いで源義経と称して出羽国田川郡海辺荘に現れ、多賀城国府へ向かったが、八郎潟を渡っている最中に氷が割れて5,000名余りの溺死者を出した。大河兼任は進路を変えて小鹿島・秋田・津軽方面で敵を破り10,000騎まで兵力を拡大している。鎌倉方は1月31日に由利維平・工藤行光・宮道国平を先発隊として送るが、2月頃に宇佐美実政が討ち取られ、2月12日には由利維平も大社山毛々左田付近で討たれた。2月24日、二所詣の為に伊豆山に居た源頼朝は葛西清重の使者から橘公業の戦死と由利維平の逃亡を報されたが、由利は逃げる様な性格では無いとして両者が逆ではないかと推察し、翌25日に到着した今1人の使者の報告で其の推察が正しかった事が判り周囲を感嘆させた。2月14日に千葉常胤の東海道軍と比企能員の東山道軍、2月19日に足利義兼と千葉胤正が出発し、3月19日、大河兼任率いる軍は一迫にて足利義兼軍に大敗、衣川での反撃も及ばず山中を転々とした末、4月16日、源義経縁の栗原寺にて錦の脛巾と金作りの太刀を地元の樵に怪しまれ、数十人に囲まれて斧で斬殺された。4月21日には大河兼任に加担した多賀城国府の留守所が廃止され、伊沢家景が陸奥国留守職に任じられている。朝廷では1月12日に覲子内親王が内親王宣下を受け、源通親が勅別当として後見人となって母の高階栄子との結び付きを強め、1月21日には九条兼実が第31代太政大臣に就任したが、其の大饗では源通親と吉田経房が自席が無い事を理由に退出した。2月9日、後鳥羽天皇の元服の儀が九条兼実を加冠役として執り行われたが、西暦1185年に平時子が携えて入水し西暦1187年の壇ノ浦の捜索でも見付からなかった天叢雲剣を欠いた儘であり、近衛基通が豊後国の刀工紀新大夫行平に作らせ自ら拵えを付けて献上した日御座の御剣で代用され、三種の神器が揃わない儘、式次第も当日迄決まらず、八尺瓊勾玉が先で天叢雲剣が後という従来とは逆の順で行われた。九条任子は2月17日に入内、2月22日に女御宣下を受け、5月31日に中宮に冊立して第82代皇后となっている。5月18日には坊門姫が難産の為に死去し、源頼朝は勝長寿院での追善供養や四十九日法要を営ませた。東大寺再建では、西暦1186年以来周防国から運ばれた材木を用いて8月17日に大仏殿の母屋柱2本の建設が開始され、11月18日、後白河上皇の御幸を仰いで上棟式が執り行われた。源頼朝は11月2日に鎌倉を出発し、11月26日に熱田神宮を参詣、12月5日に1,000騎を率いて六波羅へ入った。12月7日16時、仙洞御所で後白河上皇と1対1の長時間の会談に臨み、征夷大将軍への就任を望んだが叶えられず権大納言を任じられ、次代右近衛大将への就任も決定された。同日夜には九条兼実と閑院内裏の鬼間で初めて対面している。12月11日に砂金800両・鷲羽2櫃・御馬100疋を献上し、12月22日、藤原兼雅の罷免を経て第62代右近衛大将に任じられ、12月29日には後白河上皇が車と装束を調達し前駆10名の内8名を北面武士から遣わせて拝賀の儀式が執り行われた。

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年月日 出来事
1,190 1 大河兼任が、源義高と称して以下2名の息子と共に出羽国山北郡(現在の秋田県仙北郡)にて7,000騎で挙兵する。
①大河の嫡男鶴太郎
②大河の弐男於幾内次郎
そして、源義経と称して出羽国田川郡海辺荘(現在の山形県東田川郡庄内町余目沢田)に現れた後、以下を経由するルートで多賀城国府(現在の宮城県多賀城市市川)へと向かった。
①河北
②秋田城(現在の秋田県秋田市寺内大畑)
③笹谷峠(現在の宮城県柴田郡川崎町今宿仙人沢)
しかし、八郎潟(現在の秋田県男鹿市・潟上市・南秋田郡井川町・五城目町・大潟村)を渡っている最中に氷が割れ、5,000名余りの激死者を出した。大河は進路を変え、小鹿島(現在の秋田県男鹿市)・秋田・津軽方面へと向かい、敵を破って10,000騎まで兵力を拡大した。
1,190 1 10 九条兼実が源頼朝に対し、大内裏の修復した功績を讃える。
1,190 1 12 後白河上皇の第6皇女覲子内親王が、内親王宣下を受ける。この際源通親は、勅別当として覲子内親王の後見人となった。これを切っ掛けに源通親は、覲子内親王の母高階栄子との結び付きを強めていく事となる。
1,190 1 21 九条兼実が第31代太政大臣に就任する。これを祝う大饗にて、以下2名が自席が無い事を理由に退出した。
①源通親
②吉田経房
1,190 1 31 大河兼任征伐の為、以下3名が先発隊として陸奥国へ出陣する。
①由利維平
②工藤行光
③宮道国平
1,190 2 宇佐美実政が討ち取られる。
1,190 2 1 源頼朝が、後白河上皇の上洛の求めに応じる。
1,190 2 9 後鳥羽天皇の元服の儀が執り行われる。此の際九条兼実が加冠役を務めた。しかし、紛失していた天叢雲剣が見つからず、第16・18代関白を務めた近衛基通が豊後国の刀工紀新大夫行平に作らせ、近衛自身が拵えを付けて献上した日御座の御剣で代用し、三種の神器が揃わない儘での挙行となった。式次第は当日迄決まらず、八尺瓊勾玉が先、天叢雲剣が後となり、従来とは逆であった。
1,190 2 12 大河兼任率いる軍が、大社山毛々左田付近(現在の秋田県秋田市浜田潟端・新屋町付近)にて由利維平を討ち取る。
1,190 2 13 源頼朝が、以下2名から大河兼任征伐の戦況報告を聞き、軍勢の派遣を決定する。源は、相模国以西の御家人に出陣の命を下した。
①大河兼任の弟で御家人となっていた二藤次忠季
②新田入道
1,190 2 14 以下2名が、大河兼任征伐の為軍を率い奥州へ向けて出発する。
①千葉常胤(東海道軍)
②比企能員(東山道軍)
1,190 2 17 九条任子が入内する。
1,190 2 19 以下2名が、大河兼任征伐の為軍を率い奥州へ向けて出発する。
①足利義兼(追討使)
②千葉胤正(大将軍)
千葉は、葛西清重と共に奥州で合戦をしたいと願い出ていた。
1,190 2 22 九条任子が女御宣下される。
1,190 2 24 二所詣の為伊豆山に居た源頼朝が、葛西清重が遣わせた2名の使者の内1名から以下4点の報告を受ける。もう1名は病気の為到着が遅れていた。
①宇佐美実政の戦死
②大見家秀の戦死
③橘公業の戦死
④由利維平は大河兼任の攻撃を受け、城を放棄して逃亡
これを聞いた源は、由利は逃げる様な性格では無く、橘と由利が逆ではないかと推察した。
1,190 2 25 源頼朝が、葛西清重が遣わせた2名の使者の内、到着が遅れていた人間から以下2点の報告を受ける。
①由利維平の戦死
②橘公業は大河兼任の攻撃を受け、城を放棄して逃亡
源の前日の推察が正しかった事から、周囲の人間は感嘆した。
1,190 3 19 大河兼任率いる軍が、足利義兼軍と一迫(現在の宮城県栗原市)にて交戦する。大河の軍は大敗を喫し、敗走した。その後も大河は残った手勢500騎で衣川にて反撃するが及ばず、北上川を越え、有多宇末井の梯(現在の青森県青森市浅虫)周辺の山中に立て籠った。しかし、足利の急襲に遭い逃亡し、花山(現在の宮城県栗原市)等を転々とする事となった。
1,190 4 16 大河兼任が、自身の信奉する源義経縁の栗原寺(現在の宮城県栗原市栗駒栗原西沢)にて、錦の脛巾を着て金作りの太刀を帯びた姿を地元の樵に怪しまれ、数十人に囲まれ斧で斬殺される。首実検は千葉胤正が実施した。
1,190 4 21 源頼朝が、大河兼任に加担した多賀城国府の留守所を廃止し、伊沢家景を陸奥国留守職に任ずる。
1,190 5 18 坊門姫が難産の為死去する。
1,190 5 19 坊門姫が仁和寺付近に葬られる。
1,190 5 25 佐々木定綱の伝令が鎌倉に到着し、坊門姫の死去を伝える。
1,190 5 27 源頼朝が坊門姫の死去を受け、京都へお悔やみの使者を派遣する。
1,190 5 31 九条任子が中宮に冊立し、第82代皇后となる。
1,190 6 7 源頼朝が、勝長寿院にて坊門姫の追善供養を行う。
1,190 6 9 坊門姫の死去を受け、端午の節句では菖蒲は飾られなかった。
1,190 6 14 源頼朝が佐々木定綱に、坊門姫の四十九日法要を執り行う様命じる。
1,190 6 23 葵祭であったこの日、山田重忠が、坊門姫は存命を願い出家までしたが亡くなってしまい、西暦1,190年5月19日に仁和寺付近に葬られた事を鎌倉に報告する。
1,190 8 17 東大寺大仏殿の母屋柱2本の建設が開始される。
1,190 11 2 源頼朝一行が、京都へ向けて鎌倉を出発する。
1,190 11 18 東大寺大仏殿の上棟式が執り行われる。此の際後白河上皇が御幸した。
1,190 11 26 源頼朝一行が、熱田神宮(現在の愛知県名古屋市熱田区神宮)を参詣する。
1,190 12 5 源頼朝一行が1,000騎を率いて上洛する。この日一行は平家一門の邸宅があった六波羅に入った。
1,190 12 6 以下2名が翌日の参内について、段取りの打ち合わせを行う。
①源頼朝
②一条能保
1,190 12 7 16時、源頼朝が以下の行列で仙洞御所に入る。
①先頭
❶三浦義澄
❷小山朝政
❸小山田重義
②神輿
❶長沼宗政
❷佐々木盛綱
❸加藤景廉
③調度懸
④布衣侍
⑤随兵
❶千葉常胤の嫡男千葉胤正
❷梶原景季
❸下河辺行平
❹佐々木定綱
❺和田義盛
❻葛西清重
❼初代武田氏当主武田信義
源は後白河上皇に謁見し、1対1で長時間話し合う。源は征夷大将軍への就任を望んだが叶えられず、権大納言を任じられた。更に、次代右近衛大将への就任も決定された。源は院から仰せ事が有るから待つ様言われるが、次の予定が有るので後日来る事を告げ、退出した。その後源は後鳥羽天皇と接触し、夜、九条兼実と閑院内裏の鬼間で初めて対面した。源は「今は後白河上皇が政務を担い、後鳥羽天皇は皇太子と大差無い状態です。後白河上皇崩御後は後鳥羽天皇が政務を執るべきです。勿論現在も後鳥羽天皇を軽んじるつもりはございません。九条殿に対して、一見疎遠な様に見えても、内実はそうではありません。深謀遠慮し、院中の風評を恐れ、敢えて疎遠な様に見せています。天下は何れ立て直す事が出来るでしょう。後鳥羽天皇も九条殿もまだお若い。私に運があれば、政治は真っ当なものになるでしょう。今は後白河上皇にお任せするしかありませんので、万事は思う様には行きません」という主旨の発言を行った。23時、源は六波羅に戻った。
1,190 12 9 源頼朝が、以下の陣容で若宮八幡宮社(現在の京都府京都市東山区五条橋東)と石清水八幡宮(現在の京都府八幡市八幡高坊)に参詣する。
①先陣随兵
❶小山朝政
❷稲毛重成
❸安田義資
❹小笠原長清
❺土肥実平
❻梶原景季
❼村上頼時
❽武田有義
❾千葉胤正
❿葛西清重
②歩行
❶仁田忠常
❷糟屋有季
❸佐々木経高
❹佐々木盛綱
❺大井実春
❻小諸光兼
❼金子家忠
❽河匂政頼
❾本間義忠
❿猪俣範綱
③調度懸
❶武藤資頼
④後騎(浄衣)
❶源範頼
❷源広綱
❸大内惟義
❹山名義範
❺村上経業
❻北条義時
❼三浦義澄
❽宇都宮朝綱
❾八田知家
❿足立遠元
⓫比企能員
⓬千葉常胤
⑤後陣随兵
❶畠山重忠
❷小田知重
❸源頼隆
❹村山義直
❺結城朝光
❻相馬師常
❼佐々木定綱
❽加藤景廉
❾南部光行
❿佐原義連
⓫和田義盛
⓬梶原景時
1,190 12 11 源頼朝が後白河上皇に以下を献上する。
①砂金800両
②鷲羽2櫃
③御馬100疋
1,190 12 17 後白河上皇と源頼朝が会談を行う。
1,190 12 21 後白河上皇と源頼朝が会談を行う。
1,190 12 21 源頼朝の下に、右近衛大将叙任の院宣が届く。
1,190 12 22 後白河上皇が、藤原兼雅の右近衛大将職を罷免する。夜、藤原経房は、後白河上皇から奉じられた院宣を下し、源頼朝を第62代右近衛大将に任じ、除目が執り行われた。
1,190 12 29 源頼朝の右近衛大将拝賀の儀式が、後白河上皇が車と装束を調達し、前駆10名の内8名が北面武士から遣わされて執り行われる。
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