西暦1101〜1200年は、エルサレムにテンプル騎士団が設立され、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代である。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し天叢雲剣が行方不明となった。源義経が頼朝に追放され、源頼家が誕生した。堀河天皇の騎射会から始まり、日本の武家政権が確立された100年間の出来事を網羅する。

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≈は「頃」を意味しています。

源頼家に関する電子書籍 御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
年月日 出来事
1,186 1 7 静御前が、北条時政が鎌倉へ向けて送った書簡の内容から、自身の証言を打ち明ける。
「源義経が都を出て西海(西海道、現在の日本の九州)へ赴いた明け方、一緒に連れ立って大物浜に到着しました。其れから船が難破し海を渡る事が出来ませんでした。其の夜は天王寺で宿泊し、源はそこから逃げて姿を隠しました。迎えを寄越すので一両日の間ここで待つように約束し、但し約束の日を過ぎたら直様立ち去る様に言われました。暫く待っていると、馬を送ってきたのでこれに乗り、何処へ行くか分からない儘3日目に吉野山に着きました。其処で5日間逗留し、其れを最後にお別れしました。其の後の行方は知りません。私は深山の雪を凌ぎ、やっとの事で金峯山寺本堂に着いた所、吉野山の執行僧兵に捕らえられました」
1,186 1 8 鎌倉から、京都にいる北条時政に対し返書が送られる。
1,186 1 21 西暦1,185年12月29日の源頼朝の要望が通り、以下10名が議奏に任命される。
①九条兼実
②徳大寺実定
③三条実房
④藤原宗家
⑤中山忠親
⑥藤原実家
⑦源通親
⑧吉田経房
⑨藤原雅長
⑩藤原兼光
1,186 1 22 源義経の探索と、鎮西における鎌倉勢力の確立を目的に創設された九州惣追捕使に、天野遠景が補任される。
1,186 1 27 平時実が、京都から鎌倉に到着する。平は一切弁解をしなかった。ただ、公家の罪を鎌倉で裁く事は出来ないという理由により、京都に返される事となった。
1,186 2 16 平時実が上総国に配流される。
1,186 2 20 源義経の行方が未だに掴めなかった為、北条時政が、鎌倉から静御前を差し出す様催促される。
1,186 3 以下2名が京都へ帰る。
①一条能保
②坊門姫
この時源頼朝は、坊門姫を後鳥羽天皇の乳母に推薦していた。
1,186 3 5 北条時政が静御前を鎌倉に送る旨を綴った返書が鎌倉に届く。
1,186 3 23 静御前が、母の磯禅師と共に鎌倉に到着し、拘留先である安達清経の屋敷に入る。
1,186 3 23 北条時政が、七ヶ国地頭を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいる事を後白河上皇に院奏する。
1,186 3 28 静御前が、問注所の役人に源義経の行方に関する取り調べを受ける。静御前は「吉野の山中ではなく、其の僧坊である。しかし山の大衆蜂起の事を聞いて、其処から源は山伏の姿になり、大峰山(現在の奈良県吉野郡天川村洞川)に入ると言って僧に送られて山に入りました。自分もまた跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったが、其の僧に女人は大峰山に入るべからずと叱られたので、止む無く都の方へ向かった。ところが同行していた雑色達が財宝を奪って逃げてしまい、金峯山寺本堂に迷い着きました」問注所の役人は静御前に僧の名を尋ねたが、静御前は「忘れた」と回答した。問注所の役人は、京都での申し立てと今回の内容に違いがあり、大峰山に入ったと言っているが、多武峰に向かった後隠れたとの噂があるので、虚偽があるだろうから重ねて取り調べる様命じられた。
1,186 4 3 九条兼実が、後白河上皇から摂政・氏長者を宣下される。
1,186 4 6 源義経が伊勢国伊勢神宮(現在の三重県伊勢市宇治館町)を参拝し、所願成就の為に戦で身に付けていた金製の剣を奉納する。
1,186 4 13 静御前が再び源義経の行方に関する取り調べを受けるが「知らない」と回答する。また、静御前が源の子を妊娠していた為、鎌倉側は出産の後、京都に帰す事にした。
1,186 4 14 周防国が東大寺造営料国となる。此れにより、周防国は東大寺の管轄となり、重源に国務管理が一任される事となった。
1,186 4 20 北条時政が、北条時定を含む35名を洛中警衛に残して、京都から鎌倉へ向けて出発する。これにより一条能保が第2代京都守護に就任した。
1,186 4 28 以下2名が鶴岡八幡宮寺(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)を参拝する。
①源頼朝
②源頼朝の御台所北条政子
此の時静御前は舞を行う様命じられ、控えの間から回廊に召し出された。以前から静御前は舞を行う様命じられていたが、病気の為と称して断ったり、我が身の不遇はあれこれ言う事は出来ないと雖も、源義経の妾として晴れの場に出るのは頗る恥辱であると言って渋り続けていた。しかし北条が「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念な事」と言いしきりに頼朝に勧め「八幡大菩薩に供えるのだから」と言って静御前を説得した。静御前は「義経と別離してからまだ日も浅く、気が塞いでいるので舞う気にならない」と言って固辞するも再三の命によって舞うことになった。静御前は白拍子の舞を命じられ、義経を慕う歌を唄い頼朝を激怒させるが、北条は「私が静御前の立場であってもあの様に歌うでしょう」と取り成して静御前を助命した。又、静御前が身籠っている事に関し、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺す様に」と命じた。男子であれば将来に禍根を残す恐れがある為である。
1,186 4 30 重源が、以下の人間等を率い周防国へ下向する。
①陳和卿
②番匠物部為重
③番匠桜島国宗
源平合戦の直後であった為、周防国は疲弊していた。以降周防国は東大寺への材木の供給源となった。
1,186 5 和泉国日根郡近木郷(現在の大阪府貝塚市畠中)の日向権守の清実の屋敷に潜伏していた以下3名が、北条時定・常陸坊昌明等に捕縛される。源は地元民の密告により捜索されていた。
①源行家
②源行家の長男源光家
③源行家の弐男源行頼
1,186 5 8 以下4名等が、得地保(現在の山口県山口市徳地堀)の杣山に入る。
①重源
②陳和卿
③物部為重
④桜島国宗
材木の切り出しは、1本の柱につき牛120頭を要する程の作業であった。材木を引く人夫の確保を現地の地頭が妨害した為、重源は朝廷に訴え、更に朝廷が此の旨を鎌倉幕府に伝え、妨害を停止させた。39.39mの棟木を始め、柱・梁・垂木等の木材を東大寺へ運搬する為、重源は、川に堰を造り、川の水を溜めた上に木材を浮かべ、一気に堰を切って次の堰まで木材を押し出す方法を採用した。瀬戸内海からは筏を組んで運搬した。此れにより、3,000名必要とする人夫を70名で済ませる事に成功した。又、伐採や東大寺大仏殿の立柱の際は、滑車を使用した。
1,186 6 源義経が比叡山(現在の滋賀県大津市・京都府京都市左京区)に入る。
1,186 6 1 源行家が赤井河原(現在の京都府京都市伏見区羽束師古川町)で斬首・梟首される。
1,186 6 2 以下2名が赤井河原で斬首される。
①源光家
②源行頼
1,186 6 3 以下の御家人達が静御前の宿所にやって来て宴会を催す。
①工藤祐経
②梶原景茂
③千葉成胤の弟千葉常秀
④八田朝重
⑤藤原邦通
磯禅師が舞を披露した。酔った梶原は静御前に艶言を投げ掛け、静御前は「源義経は源頼朝の御兄弟、私は其の妾です。御家人の身分でどうして普通の男女の事の様に思われるのか。義経が落ちぶれなければ、貴方ごときに対面する事さえ出来ない筈なのに。況してや其の様な艶言など以ての外です」と言って大泣きした。
1,186 6 14 常陸坊昌明等の飛脚が源行家の首級を持参し、鎌倉に入る。その後常陸坊は以下の主旨の報告を行った。
「行家が和泉・河内の両国に潜伏しているとの情報を得て捜索していた所、和泉国の在庁官人である日向権守の清実の元に匿われていた。密告によって日根郡近木郷の現場へ急行、直ちに包囲したものの、行家は裏山へ逃げ込んで民家の二階に隠れたとの事。北条時定が背後から、常陸坊が正面から突入。行家の郎党が必死に防戦するも常陸坊はこれらを制して行家を捕らえ、北条時定が梟首とした。また行家の子である光家も討ち取った」
1,186 6 16 夜、源頼朝の長女大姫の依頼により、静御前が勝長寿院にて舞を行う。静御前は禄を賜った。
1,186 6 24 源義経の母常盤御前が、義経の異父妹と共に、感応寺(現在の京都府京都市上京区梶井町)にて、源頼朝の配下に捕縛される。常盤御前は、義経は岩倉(現在の京都府京都市左京区)に居ると証言した。其の後岩倉や仁和寺(現在の京都府京都市右京区御室大内)を以下2名等が捜索するが、義経を見付ける事は出来ず、現在は比叡山に居るという情報を聞き付ける。
①梶原朝景
②後藤基清
1,186 6 25 源頼朝が、神祇官大中臣公宣から以下の主旨の書簡を受け取る。
①源義経が伊勢神宮に参拝した。
②義経は現在奈良付近に潜伏中である。
③第44代伊勢神宮祭主大中臣能隆が、義経に内通して祈祷を行った。
頼朝は、公宣と能隆は過去に伊勢神宮祭主の座を巡って争った経緯がある事から、③には懐疑的であった。
1,186 7 4 源有綱が、郎党と共に潜伏していた大和国宇陀郡にて北条時定の手勢に発見され、抵抗の末に山深くに入って自害する。
1,186 7 4 厳島神社神主佐伯景弘が、壇ノ浦での天叢雲剣の捜索を任ぜられる。佐伯は、天叢雲剣の捜索に関して霊夢を見たとの注進を書簡で行っていた。
1,186 7 10 源義経が比叡山を出発する。
1,186 8 11 伊勢義盛が、鈴鹿山にて鎌倉方に発見され、斬首・梟首される。
1,186 8 26 一条能保が鎌倉に到着する。一条は、源義経の雑用を務めていた五郎丸が捕縛され、源が、比叡山の僧兵俊章・承意・仲教等の庇護を受け、比叡山に西暦1,186年7月10日頃迄潜伏していた事を白状した事を、以下2名に対し報告した事を明かした。
①藤原実明の息子で第59代天台座主の全玄
②慈円
1,186 8 27 一条能保が、前日に以下2名に報告した件を後白河上皇に奏上する。
①全玄
②慈円
1,186 9 1 後白河上皇が、九条兼実等の公卿に対し、源義経の捕縛に就いて協議させ、比叡山の以下の末寺や荘園に対し、源を直ちに捕縛する様命じる。
①延暦寺(現在の滋賀県大津市坂本本町)東塔
②延暦寺西塔
③延暦寺横川
結果、3名の僧兵が差し出されたが、源の行方は掴めなかった。
1,186 9 11 一条能保が鎌倉に到着する。俊章・承意・仲教等の比叡山の僧兵を引き渡す様、全玄に申し入れたが「既に逃げてしまった」という返事であった事を報告した。
1,186 9 11 比叡山の全玄以下の門徒や僧綱達が協議し、源義経捜索の為の祈祷を鎌倉方に申し出る。
1,186 9 13 源頼朝が、伊勢大神宮の内宮である皇大神宮の禰宜を鎌倉に呼び出し、駿河国の上御厩を寄進する。
1,186 9 14 静御前が、源義経の男子を出産する。西暦1,186年4月28日の源頼朝の命に従い、安達清経は静御前に対し由比ヶ浜(現在の神奈川県鎌倉市)に男子を遺棄する様命じた。これに先立ち安達は男子を受け取ろうとするが、静御前は此れを拒み叫喚した。安達は激しく催促すると、磯禅師が恐縮し、男子を取り上げて安達に渡した。北条政子も頼朝に助命を嘆願したが叶わなかった。
1,186 10 29 静御前が京都へ向けて鎌倉を出発する。この際哀れんだ以下2名は、多くの重宝を静御前に持たせた。
①北条政子
②大姫
1,186 11 2 堀景光が、京都にて以下2名により捕縛される。
①糟屋有季
②比企朝宗
堀は以下2点を白状した。
①源義経が興福寺に聖弘によって匿われている。
②自身が使者として度々藤原範季と連絡を取っていた。
1,186 11 3 比企朝宗が、興福寺に在る聖弘の屋敷を訪れたが、源義経を見付け出す事が出来ず、京都に帰還する。聖弘は捕縛され、結城朝光の下に預けられた。
1,186 11 4 佐藤忠信が、人妻であるかつての恋人に手紙を送り、その夫が糟屋有季に密告した事から、佐藤が左京二条四坊一町にある中御門東洞院(現在の京都府京都市上京区京都御苑)に潜伏している事が発覚し、糟屋は多数の兵で襲撃する。佐藤は精兵で応戦するも多勢に無勢で、郎党2名と共に自害した。
1,186 12 緒方惟栄が、上野国沼田(現在の群馬県)に配流される。
1,186 12 藤原範季が、源義経を匿ったという理由により、源頼朝の要請により解官される。
1,186 12 6 源頼朝が、自身が安達盛長に命じた、甘縄神明神社(現在の神奈川県鎌倉市長谷)の社殿の修復と、四面の荒垣や鳥居の建設が完了した為、以下の人間を伴い甘縄神明神社を参詣する。
①長沼宗政
②結城朝光
③千葉胤正
④佐々木盛綱
⑤梶原朝景
⑥梶原朝景の弐男梶原景貞
1,186 12 11 九条兼実の嫡男九条良通が、第43代内大臣に就任する。
和田合戦に関する電子書籍 北条義時の挑発にまんまと乗ってしまった和田義盛。