西暦1101〜1200年は、エルサレムにテンプル騎士団が設立され、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代である。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し天叢雲剣が行方不明となった。源義経が頼朝に追放され、源頼家が誕生した。堀河天皇の騎射会から始まり、日本の武家政権が確立された100年間の出来事を網羅する。

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源頼家に関する電子書籍 御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
年月日 出来事
1,185 本年京都は厳しい旱魃に見舞われた。明菴栄西の著書を読んでいた後鳥羽天皇は、明菴栄西を招き、雨乞いの祈祷を行わせ、其の後雨が降った事から後鳥羽天皇から「葉上」という僧号が下賜された。
1,185 4 8 源頼朝が、重源に以下の品目を寄進する。
①米1,500,000kg
②砂金1,000両
③上絹1,000疋
寄進を約束してから8ヶ月程度経ってからの納入であった。
1,185 4 25 平時子が天叢雲剣を持って、赤間関(現在の山口県下関市赤間町付近)にて入水自殺する。又、按察使局伊勢も、安徳天皇を抱いて入水自殺した。平は死亡し、安徳天皇も崩御した。按察使局伊勢は捕縛された。天叢雲剣は行方不明となったが、八尺瓊勾玉は、海上に浮かんでいる所を発見され、確保された。又、復元された八咫鏡も確保された。其の後源頼朝は、天叢雲剣が行方不明であるとの連絡を受けた際、一瞬声を発する事が出来なかった。
1,185 4 26 漁師達が網に掛かった安徳天皇の遺体を引き上げる。一時的に赤間神宮小門御旅所(現在の山口県下関市伊崎町)に安置された。
1,185 5 16 源頼朝が、自由任官の禁止令に違反し、内挙を得ずに朝廷の官職に就いた関東の武士に対し、朝廷での勤仕を罵り、墨俣川(現在の長良川(現在の岐阜県・愛知県・三重県)以東への東下を禁じる命令書を下す。此れを破った者は本領を没収し斬罪に処する、とした。しかし、頼朝の異母弟である源義経も任官を受けたが、名指しでの批判は無かった。
1,185 5 22 源頼朝が、侍所所司梶原景時から「源義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と義経を弾劾した書簡を受け取る。
1,185 5 26 三種の神器が鎌倉に戻る。
1,185 5 27 後白河上皇が頭弁藤原光雅を九条兼実の元に派遣し、源頼朝を従二位に叙したいとの考えを伝えて意見を求める。後白河上皇は、従三位は摂津源氏である源頼政と同じとなってしまい、河内源氏の頼朝が大きな武功の無い頼政と同じに扱われて無念に思うかも知れない、正三位でも平清盛が平治の乱の戦功で得た位階で、平治の乱で親兄弟を殺されて自身も配流された頼朝が不快になるかも知れないと危惧していた。これに対し九条は「そのようなことは頼朝は気にはかけないでしょうが、後白河上皇が気にされるのであれば頼朝の勲功は過去に比類無きものである為問題無いでしょう」と答えた。しかし藤原が去った後九条は、従二位は過分であり、従三位とした上で官職を与えて不足を補うべきであると愚痴を述べた。
1,185 5 27 以下3名等の捕虜が、土肥実平・伊勢義盛の警護により京都に到着し、源義経邸に入る。
①平宗盛
②平清宗
③平時忠
浄衣を着た宗盛は、簾を上げた車に清宗と同車して、大路を渡った。
1,185 5 28 源頼朝が平家追討の功により従二位に叙される。
1,185 5 28 重源が九条兼実の下を訪れ、予め手配されていた舎利3粒を納めた五色の五輪塔を、敬白文と共に五色の錦袋に入れた物を受け取る。重源は、間近に迫った東大寺大仏の開眼準備の為、大仏の胎内に納める舎利を集めていた。
1,185 5 30 源頼朝が西海(現在の長崎県)にいた田代信綱に「源義経には、代官として御家人をつけて西国へ行かせたが、全て自分の手柄と思い込み、個人的な命令をする為、恨んでいる者が多い。従って今後は義経の命令に従う必要はない」という主旨の書簡を送る。
1,185 6 一条能保が鎌倉に到着し、源頼朝と共に勝長寿院の造営の進捗度合を監督する。
1,185 6 4 源頼朝が梶原景時に「源義経には、代官として御家人をつけて西国へ行かせたが、全て自分の手柄と思い込み、個人的な命令をする為、恨んでいる者が多い。従って今後は義経の命令に従う必要はない」という主旨の書簡を送る。
1,185 6 5 朝廷が、平家追討が完了したお礼参りとして、22ヶ所の社寺へ奉幣使を派遣する。命じるのは九条良経で、源兼忠が直接の指揮を担った。
1,185 6 6 源義経が、壇ノ浦(現在の山口県下関市みもすそ川町)で捕縛した以下2名を護送して、鎌倉へ向かう為に京都を出発する。
①平宗盛
②平宗盛の嫡男平清宗
しかし源頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛・清宗のみを鎌倉に入れた。義経は山内荘の満福寺(現在の神奈川県鎌倉市腰越)に留め置かれた。義経が頼朝の怒りを買った要因は以下である。
①内挙を得ずに朝廷の官職に就いた。
②平家追討に当たり頼朝に軍監として仕えていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めた。
③壇ノ浦での戦闘後に義経が源範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対しても僅かな過ちでも見逃さず此れを咎め立てし、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、専横的な振る舞いが目立った。西国武士を率いて平家を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。
1,185 6 17 清涼殿の昼御座に置いてあった日御座の御剣が盗まれる。蔵人と女官達は慌てて探し回った。源頼兼の家来の所久実が、左衛門府の陣の外で盗人を追跡し、捕縛した。所は日御座の御剣を元の所に返した。盗人は、捕えられた時に自害しようとしたが、既に半死半生の状態であった。
1,185 6 19 以下9名の流罪が決定される。
①平時忠(能登国)
②平時実(周防国)
③平信基(備後国)
④藤原尹明(出雲国)
⑤良弘(阿波国)
⑥全真(安芸国)
⑦忠快(伊豆国)
⑧能円(備中国)
⑨行命(常陸国)
1,185 6 23 源義経が満福寺にて、源頼朝に対し叛意が無い事を示す書簡を書き、頼朝の腹心である大江広元に託す。下書きは武蔵坊弁慶が書き、義経が筆入れを行った。
1,185 6 26 源頼兼が、西暦1,185年6月17日の日御座の御剣が盗難に遭った件を鎌倉幕府に報告する。源頼朝は、所久実の様な勇敢な者には褒美を与えるべきだとして、直ぐに日御座の御剣を持って来させ、所に与える様にと言い、源に贈った。
1,185 6 28 平頼盛が東大寺にて出家する。
1,185 7 3 朝廷での諸官職を任命する儀式である除目が行われる。源頼朝が推薦した者は以下で、源義経は外された。
①平頼盛(権大納言)
②平光盛(侍従)
③平保業(河内守)
④一条能保(讃岐守)
⑤源範頼(三河守)
⑥源広綱(駿河守)
⑦大内義信(武蔵守)
1,185 7 7 源頼朝が以下4名に対し帰洛を命じる。
①源義経
②平宗盛
③平清宗
④平重衡
宗盛・清宗は橘公長・宇佐美実政によって護送された。又、重衡は前年から狩野宗茂の屋敷に居たが、南都衆徒の要求により南都に引き渡される事となり、源頼兼が護送した。義経は鎌倉を発つに当たり「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と発言した。
1,185 7 11 4日前の源義経の「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」という発言に激怒した源頼朝が、源義経に与えられていた平家没官領24ヶ所を没収し、関東の武士に与える。
1,185 7 18 平宗盛が、橘公長によって近江国篠原宿にて斬首される。
1,185 7 19 平清宗が、堀景光によって近江国野路口(現在の滋賀県草津市)にて斬首される。
1,185 7 20 南都の衆徒の要求により、平重衡の身柄が東大寺の使者に引き渡される。
1,185 7 21 以下2名の首が六条河原(現在の京都府京都市)に移される。其の後検非違使平知康等が受け取り、獄門の前の木に梟首された。
①平宗盛
②平清宗
1,185 7 21 平重衡が、法然と面会し受戒する。その後、現在の京都府木津川市木津宮ノ裏付近にて、この世の名残として柿を食べた上で斬首される。その後般若寺(現在の奈良県奈良市般若寺町)にて梟首された。
1,185 7 25 清涼殿の夜御殿に安置されていた日御座の御剣が盗まれる。
1,185 7 28 この時点で後白河上皇が以下の国をを院分国として、平頼盛に知行権を与えていた。
①播磨国
②備前国
1,185 8 23 配流されていた忠快が伊豆国田方郡小河郷(現在の静岡県三島市壱町田〜現在の静岡県駿東郡清水町湯川)に到着する。その後狩野宗茂の監視下に置かれるが、平家の虜囚であったにも拘らず、源頼朝や御家人の帰依を受けた。
1,185 9 11 小除目が行われ、源頼朝の申し入れにより、以下6名が叙位任官を受ける。
①源義経(伊予守)
②山名義範(伊豆守)
③大内惟義(相模守)
④足利義兼(上総介)
⑤加賀美遠光(信濃守)
⑥安田義資(越後守)
1,185 9 18 重源が、後白河上皇が寄進した舎利を東大寺大仏腹部に納めるに際し、敬白文を発する。重源は、自身が始め醍醐寺、後に高野山に住み、各地の霊地名山を巡礼し、奥州及び九州にも布教した事、又南宋へ渡り、五台山(現在の中国山西省忻州市五台県)に参詣し、文殊の瑞光を拝した事、帰国後、夢想のお告げによって焼亡直前の東大寺大仏を参拝した事等と共に、此の舎利を第22世醍醐寺座主勝賢が100ヶ日祈祷し、東大寺大仏の腹内に納める経緯を記した。
1,185 9 23 6時、嵐の中、陳和卿の尽力により再興された、東大寺大仏殿の開眼供養が執り行われる。後白河上皇以下公家100名と、以下の南都七大寺の僧が1,000名余り参加した。
①東大寺
②興福寺
③元興寺(現在の奈良県奈良市芝新屋町・中院町・西新屋町)
④大安寺(現在の奈良県奈良市大安寺)
⑤西大寺(現在の奈良県奈良市西大寺芝町)
⑥薬師寺(現在の奈良県奈良市西ノ京町)
⑦法隆寺(現在の奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内)
開眼師・呪願師・導師は其々以下が務めた。
①開眼師:定遍
②呪願師:藤原忠通の九男で、九条兼実の同母弟で天台宗の僧慈円の異母弟の信円
③導師:覚憲
後白河上皇の近臣3名が大仏殿の麻柱を登り、続いて、後白河上皇も近臣3名の助けを借りて大仏殿の麻柱を登り、後白河上皇自ら、勅封蔵に保管されていた、菩提僊那も手にした65.2㎝の長さの筆を執って開眼した。此の時点で大仏殿はまだ仮屋であり、足場を組んで、金の施された大仏の顔の前まで登れる様にした。此の時の大仏は、面部こそ金色であったが、体部はまだ荘厳が為されていない状態であった。近臣3名は開眼の後、仏面の前に貼ってあった板を剥がした。此の後白河上皇の点晴は単なる儀式であり、隠していた覆いを取る事によって、完成された眼を見せるという演出であった。源雅頼は「大仏の面相が昔に比べて劣る」と感想を述べた。16時に供養は終了した。
1,185 9 27 此の時点で源義経は平時忠の娘蕨姫を側室としていた。其の縁で平は京都に滞在し、源頼朝の怒りを買っていた。
1,185 9 27 以下2名等が上洛する。
①梶原景季
②小野成尋
目的は以下であった。
①勝長寿院での供養に用いる道具を入手する。
②平氏残党の配流を朝廷に促す。
③源義経が源行家を支援しているという情報の真偽の確認。
④源頼朝からの源行家追討の命を義経に伝える。
到着すると直様源義経の下を訪れるが、病気を理由に面会を断られた。
1,185 9 29 梶原景季等が再度源義経を訪れ、面会が実現する。義経は憔悴した姿で現れた。梶原が源に対し、源行家追討を要請したが、以下2点を理由に拒否した。
①病である。
②叔父に当たる行家は同じ源氏である。
1,185 10 18 平時忠の能登国への流罪が実行される。
1,185 10 30 梶原景季が京都から鎌倉へ帰参する。其の後源頼朝へ源義経と面会した旨を報告した。父の梶原景時は「面会を2日待たせたのは不審である。食を断って衰弱して見せたのに相違なく、義経と行家は既に同心している」と言上した。
1,185 11 緒方惟栄が、平家討伐の功によって赦免される。
1,185 11 一条能保が、源頼朝から勝長寿院の供養に関する相談を受ける。
1,185 11 2 源頼朝等が源義経征伐に関し評議を行い、土佐坊昌俊の京都派遣が決定される。土佐坊は周囲が辞退する中進んで引き受け、頼朝からお褒めの言葉を貰った。又、土佐坊は頼朝から9日で上洛する様指示を受けた。同日、以下の者を含む83騎が京都へ向けて鎌倉を発った。
①土佐坊の弟三上家季
②錦織三郎
③門真太郎
④藍澤二郎
1,185 11 4 源頼兼が、日御座の御剣を盗んだ犯人の捕縛の件の功により、従五位上に昇叙する。又、所久実は兵衛尉に任命された。久実は、自身の息子所久長に譲る意向を示した。
1,185 11 6 源義経が後白河上皇に拝謁し、源頼朝征伐の院宣を求める。
1,185 11 10 夜、土佐坊昌俊が60数騎を率い、源義経の六条室町の屋敷を襲撃する。義経の侍達は西河辺(現在の京都府京都市南区東九条西河辺町)の遊郭に遊びに行っており、警固が手薄であった。しかし義経側は自ら門を開け、佐藤忠信等の残っていた少ない部下と共に応戦した。騒ぎを聞き付けた源行家も駆け付け、後ろから加勢し、土佐坊達を挟み撃ちにした。予想外の反撃に土佐坊達は退散した。義経は直ちに仙洞御所(二条河原(現在の京都府京都市中京区))に赴き、後白河上皇に拝謁し、土佐坊が自身の屋敷を襲撃した一部始終を報告した。土佐坊達はその後鞍馬山(現在の京都府京都市左京区)に逃げ込んだが、後に義経の郎党に捕えられた。
1,185 11 11 以下2名が後白河上皇から源頼朝征伐の院宣を受ける。
①源義経(九国地頭に補任)
②源行家(四国地頭に補任)
義経は挙兵するが、賛同する者は殆どいなかった。
1,185 11 15 源頼朝が以下2点の報告を受ける。
①土佐坊昌俊が源義経征伐に失敗した。
②以下2名が後白河上皇から源頼朝征伐の院宣を受けた。
❶源義経
❷源行家
1,185 11 17 源頼朝が源氏一門や御家人を集め、父源義朝の菩提寺である勝長寿院の開堂供養を行う。一条能保も正室坊門姫と共に参列した。夜、頼朝は、後白河上皇による頼朝征伐の院宣に対抗し、以下2名に「明日上洛する」と告げた。
①和田義盛
②梶原景時
出発出来る者の名簿を求めたが、その時鎌倉に集まっていた千葉常胤を始めとする2,098名の武士の内、以下2名を含む58名しか応じなかった。
①小山政光の嫡男小山朝政
②結城朝光
1,185 11 18 以下2名追討の為、先遣隊の御家人が京都へ向けて鎌倉を出発する。
①源義経
②源行家
1,185 11 19 土佐坊昌俊と家人が六条河原にて斬首・梟首される。
1,185 11 22 以下2名追討の為、源頼朝が京都へ向けて鎌倉を出発する。
①源義経
②源行家
以下2名も頼朝に従軍した。
①千葉常胤
②土肥実平
1,185 11 24 源頼朝一行が駿河国黄瀬川(現在の静岡県)に到着する。源の命により、京都の情報収集の為暫く黄瀬川に逗留する事となった。
1,185 11 26 早朝、源義経が甲冑を身に纏い、以下の人間と共に、200騎を率い鎮西へ向けて京都を脱出する。
①源行家
②緒方惟栄
③平時実
④一条能成
⑤源有綱
⑥堀景光
⑦佐藤忠信
⑧伊勢義盛
⑨片岡常春
⑩武蔵坊弁慶
1,185 11 27 多田行綱が摂津国河尻(神崎川河口(現在の兵庫県尼崎市))にて源義経一行を発見し、摂津国太田城(現在の大阪府茨木市)主太田頼基等と共に襲撃する。多田達が行手を阻み矢を射たが、源達は駆け破って撃退した。
1,185 11 28 夜、源義経の船団が摂津国大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から出航する。しかし、暴風に遭遇し、大半の船が転覆した。源の船は住吉浜に打ち上げられるが、従者は逃げ去り、残った従者は以下4名となった。
①源有綱
②堀景光
③武蔵坊弁慶
④静御前
義経一行は此の日天王寺周辺に宿泊した。
1,185 11 29 源義経遭難の噂が京都に広まる。九条兼実は「可哀相だが、天下にとって大慶」という主旨の発言をした。
1,185 11 30 源義経が検非違使と伊予守の官職を罷免される。
1,185 12 源頼朝の弾劾により、一条能成が侍従を罷免される。
1,185 12 伊勢義盛が、鈴鹿山(現在の三重県亀山市・滋賀県甲賀市)にて伊勢国・伊賀国守護山内首藤経俊を襲撃するが敗れる。
1,185 12 1 源頼朝が、黄瀬川にて源義経が都落ちした旨の報告を受け、上洛を中止して以下2名を京都へ派遣する。頼朝は鎌倉へ引き返した。
①藤原重弘
②昌寛
1,185 12 3 源頼朝が鎌倉に到着する。
1,185 12 4 後白河上皇が、西暦1,185年11月11日の源頼朝征伐の院宣を撤回し、以下2名征伐の院宣を下す。
①源義経
②源行家
1,185 12 5 大江広元の献策により、源頼朝が守護・地頭の設置を朝廷に奏請する事を決定する。
1,185 12 8 高階泰経の使者が鎌倉に到着し、一条能保経由で源頼朝に「源義経・源行家の謀反は天魔の為す事で、彼等は院宣を出さなければ宮中で自殺すると脅してきました。其の場凌ぎで院宣を出しただけで、実際に追討する意図はありませんでした」という主旨の書簡を渡す。頼朝は其の書簡を投げ捨て、使者に対し「天魔は仏法を妨げ人に害を為すもので、義経・行家の件を天魔の仕業というのは根拠が無い事だ。数多くの朝敵を倒し世の政務を任された私の忠節を、どうして直ぐに反逆に変えてしまうのか。特別な後白河上皇の意志でなく院宣を下されたのか?義経・行家を捕えずにいる間に、諸国は疲弊し、人民が死んでいく。よって日本第一の大天狗が他の者で無いなどという事があろうか」という主旨の発言をした。
1,185 12 10 源義経が大和国吉野山(現在の奈良県吉野郡吉野町)に潜伏しているとの噂を聞き付けた吉野山の執行僧兵が、源を捜索するが見付からなかった。22時、静御前が藤尾坂を下り、金峯山寺本堂(現在の奈良県吉野郡吉野町)に到着した。其の姿を不審に思った衆徒達は執行僧兵を連れてきて静御前に質問した。静御前は「私は源の妾です。大物浜より源は此の山に来ました。5日間逗留しましたが、衆徒蜂起の噂を聞いて、源は山伏の姿を借りて逐電してしまいました。其の時数多くの金銀類を私に与え、雑色男達を付けて京都に送ろうとされました。しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峯雪の中に捨て置いて行ってしまったので、此の様に迷って来たのです」という主旨の回答をした。静御前は其の儘捕縛された。
1,185 12 11 静御前の証言に基づき、前日に続き吉野山にて源義経の捜索が行われるが、見つからなかった。吉野山の執行僧兵は静御前を十分に労ってから鎌倉に差し出す事にした。
1,185 12 13 平時実が、京都へ向かう途中、村上経業の弟禅師経伊に捕縛される。
1,185 12 15 源義経が多武峰(現在の奈良県桜井市にある談山神社)に到着する。
1,185 12 18 北条時政が、源義経に源頼朝追討の院宣を出す等の朝廷の行状に対して、頼朝の不満を伝える為に上洛する。
1,185 12 19 後白河上皇が、高階泰経の伝奏によって、源頼朝が、源義経・源行家の謀反に泰経が関与した事を疑い、憤っている事を聞いた上で、以下2名を解官し、蟄居させる。
①泰経
②泰経の長男で右馬頭の高階経仲
1,185 12 21 北条時政が、初代関東申次吉田経房を通じて後白河上皇に守護・地頭の設置を奏請し、許可され、勅許が下される。これにより北条が初代京都守護に任命された。
1,185 12 22 多武峰の寺院の1つで、談山神社の真向かいに所在する南院藤室の僧十字坊の手配により、源義経が遠津河(現在の奈良県五條市)に逃れる。
1,185 12 29 源頼朝が後白河上皇に対し、朝廷改革として以下4名を含む12名の解官を要望する。
①平親宗
②高階泰経
③高階経仲
④平知康
さらに源は、以下の公卿10名を、重要政務の合議にに当たらせ、天皇に具申する事を職務とする「議奏」に任命する事を要請した。
①九条兼実
②徳大寺実定
③三条実房
④藤原宗家
⑤中山忠親
⑥藤原実家
⑦源通親
⑧吉田経房
⑨藤原雅長
⑩藤原兼光
また源は、九条に関して内覧宣下を願い出た。
1,185 12 31 吉野山の執行僧兵が、静御前を北条時政の居る京都の屋敷に送る。又、同日に源義経捜索の為の軍が吉野山に差し向けられた。
和田合戦に関する電子書籍 北条義時の挑発にまんまと乗ってしまった和田義盛。