西暦1101〜1200年は、エルサレムにテンプル騎士団が設立され、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代である。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し天叢雲剣が行方不明となった。源義経が頼朝に追放され、源頼家が誕生した。堀河天皇の騎射会から始まり、日本の武家政権が確立された100年間の出来事を網羅する。

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≈は「頃」を意味しています。

源頼家に関する電子書籍 御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
年月日 出来事
1,187 2 5 興福寺の僧信円が、興福寺が武力介入による自治権の侵害を受けた事を朝廷に訴える。これに対し一条能保が陳謝した。興福寺は多くの僧兵を抱え、大和国を事実上支配していた為、守護が置かれず、武家不介入の治外法権を維持していた。
1,187 3 1 源頼朝が、伊勢神宮に対し、祈祷の礼として以下を奉納する。
①神馬8頭
②砂金20両
③剣2腰
1,187 3 21 源義経が、正室の郷御前や娘と共に、第3代奥州藤原氏当主藤原秀衡を頼り、奥州へ向けて出発する。源一行は、山伏や稚児に変装していた。
1,187 4 14 源頼朝が、東大寺再建の為の材木の切り出しの命令に従わずに怠けている周防国の地頭等に、精勤するよう命ずる書簡を発する。周防国守護佐々木高綱も材木の切り出しに協力し、源は佐々木を称賛した。
1,187 4 18 聖弘が鎌倉に召し出され、源義経を匿った事に関し、源頼朝から尋問を受ける。頼朝は「義経は天下を乱す凶臣で、其の行方を眩まし、朝廷からは処刑する様求められている。其の為、天下の人々が皆義経に従わないでいるのに、貴方だけが義経の為に祈祷を行っている。しかも、義経に同意して何か企んでいるという噂も耳にするが、其れはどうしたことか」と問うと、聖弘は「師弟の誼みで頼ってきたので迎え入れたものであり、祈祷は義経を諫めて逆心を宥めるもので、何ら罪になるものでは無い。抑今の関東の安全は義経の武功によるものであり、讒言により其の奉公を忘れ、恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然であり、義経を召し返して水魚之交をする事が、国を治める方法というものである。此れは義経を弁護するものではなく、天下静謐を求めての事である」と答えた。此の聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を行う様命じた。
1,187 5 明菴栄西が、釈迦の遺跡をめぐり、仏教の正法を会得する事を目的として天竺へ向かう為に宋に入る。其処から天竺に向かおうとしたがどのルートも蒙古の勢力下であった事から断念し、天台山へ向かった。そして、虚庵懐敞に師事し、禅の修行に没頭した。其の間、天台山の修理費を出したりもしていた。
1,187 8 15 藤原忠衡が、鹽竈神社(現在の宮城県塩竈市)に燈籠を寄進する。
1,187 8 25 壇ノ浦にて、天叢雲剣の捜索が開始される。海人を動員して2ヶ月間創作したが、天叢雲剣を見付ける事は出来なかった。
1,187 10 源義経一行が、田川館(現在の山形県鶴岡市田川)を経由して平泉に到着する。以降藤原秀衡によって匿われた。
1,187 10 30 天叢雲剣の捜索を源頼朝から命じられ、壇ノ浦を捜索していた厳島神社(現在の広島県廿日市市宮島町)神主佐伯景弘が、天叢雲剣を見つける事が出来なかったという報告を行う。
1,187 11 30 藤原秀衡が、以下3名に起請文を書かせ、源義経を主君として給仕し、三人一味の結束を以て源頼朝の攻撃に備える様遺言を残し、病没する。
①義経
②秀衡の長男藤原国衡(母は側室)
③秀衡の弐男藤原泰衡(母は正室藤原基成の娘)
此れにより義経は庇護者を失った。又、泰衡が第4代奥州藤原氏当主に就任し、義経を「大将軍」とし、事実上の後継者に据えた。
1,187 12 12 佐々木経高が、朝廷に馬を貢ぐ際の使者を務める。
和田合戦に関する電子書籍 北条義時の挑発にまんまと乗ってしまった和田義盛。