西暦1168年は、伊豆の所領争いが訴訟に持ち込まれ、明菴栄西が海を渡り、皇位も移った年である。此の年頃、工藤祐経が伊東荘・宇佐美荘・河津荘の返還を求めて六波羅に訴えたが、平重盛に寄進していた伊東祐親に有利な判決が下り、伊東荘は2分割された。明菴栄西は博多から宋へ渡って重源と出会い、3月30日には第80代天皇に践祚した高倉天皇へ、松殿基房が日御座の御剣を献上した。

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≈は「頃」を意味しています。

年月日 出来事
≈ 1,168 工藤祐経が母から、伊東荘・宇佐美荘・河津荘の三つの荘園領地を、祐経の祖父工藤家継から工藤祐継に相続する譲り状や地検文書が同封された書簡を受け取る。これらの荘園領地を伊東祐親の物であると思っていた祐経は、代官を伊東に差し向け、返還を求めた。伊東は「恩知らずな奴」と怒り、伊東の娘で祐経の妻であった満功御前は土井荘(現在の神奈川県小田原市)を所領とする土肥遠平に嫁がされて排除された。その後祐経は、六波羅に「伊東家の領地の領有権問題」で訴訟を起こし、伊東も検非違使別当から呼び出され、裁判となった。平重盛に財宝・賄賂の寄進を行っていた伊東は、その管理を代行すると言う形で収入を得て、実質的な所有権を確保していた。結果、伊東荘は2分割される事となり、伊東に有利な判決が下った。
1,168 明菴栄西が、以下2点を意図し、博多から宋へ向かう。
①天台山(現在の中国浙江省台州市天台県和合街)に登って仏教の根本を学ぶ
②腐敗した日本の天台宗を立て直す
3週間後に明州(現在の中国浙江省寧波市)に到着した。明菴栄西は、禅宗の隆盛を目の当たりにした。天台山へ向かう途上、重源と出会い、帰国迄の半年間行動を共にした。天台山に到着すると、智者大師の肉身塔に向かい、拝礼した。次に阿育王寺(現在の中国浙江省寧波市鄞州区五郷鎮五郷東路)にて、禅を学んだ。明菴栄西は、重源と共に帰国した後、比叡山へ赴き、第5代天台座主明雲に、天台章疏60巻を進呈した。其の後両親の下へ帰郷し、備前国・備中国を中心に布教し、思索実践に努めた。
1,168 3 30 六条天皇が譲位し、高倉天皇が第80代天皇に践祚する。清涼殿の昼御座から以下が移された。
①八尺瓊勾玉
②日御座の御剣
③御装束
④御帳
⑤御鏡
日御座の御剣は、関白が践祚した天皇に献上し、其の天皇が譲位した場合は、元の贈り主に返却されるのが慣例となっていた。其れに倣い、此の日六条天皇から松殿基房に日御座の御剣が返却され、夜、松殿から高倉天皇に献上された。