西暦1101〜1200年は、エルサレムにテンプル騎士団が設立され、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代である。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し天叢雲剣が行方不明となった。源義経が頼朝に追放され、源頼家が誕生した。堀河天皇の騎射会から始まり、日本の武家政権が確立された100年間の出来事を網羅する。

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源頼家に関する電子書籍 御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
年月日 出来事
1,189 1 23 平親宗が、正三位に叙せられる。
1,189 2 源義経が京都に戻る意志を書いた書簡を持った比叡山の僧手光七郎が捕縛される。
1,189 2 25 以下2名が送った「源義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」という主旨の書簡が源頼朝の下に届く。
①藤原基成
②藤原泰衡
1,189 3 3 藤原泰衡が、源義経を支持していた藤原秀衡の六男藤原頼衡を殺害する。
1,189 3 10 鎌倉方が、藤原泰衡が源義経の叛逆に同心しているのは疑い無いとして、藤原泰衡征伐の宣旨を要請する。
1,189 3 12 平時忠が配所の能登国で死去する。
1,189 4 鎌倉方が、藤原泰衡征伐の宣旨を要請する。
1,189 5 鎌倉方が、藤原泰衡征伐の宣旨を要請する。
1,189 5 31 宮内大輔日野資実が以下の人間等を集めて会議を開く。
①源通親
②左大弁平親宗
その結果、以下の人間の赦免が決定される。
①平時実
②平信基
③藤原尹明
④全真
⑤忠快
⑥能円
⑦行命
1,189 6 後白河上皇が、藤原泰衡征伐の宣旨の検討を行う。
1,189 6 九条任子の入内に当たり、天叢雲剣に代わる神剣の選定に関し、議論が為される。
1,189 6 15 藤原泰衡が、藤原秀衡の遺言を破り、藤原基成の居館衣川館を襲撃する。以下4名を含む十数騎が応戦した。
①武蔵坊弁慶
②第11代藤白鈴木氏当主鈴木重家
③源頼朝の乳母の息子で鈴木の弟の亀井重清
④備前房成
武蔵坊は、源義経の居る持仏堂の入口の前で薙刀を振るって孤軍奮闘するが、矢の雨を受け、立った儘絶命した。鈴木は照井高治に「お主は誰か」と尋ねると、照井は「身内の侍の照井高治だ」と答えた。鈴木は「お主の主人である藤原秀衡の祖父藤原清衡は後三年の役のあった西暦1,083年に源氏の郎党となったと聞くが、清衡・藤原基衡・秀衡・泰衡、ならば義経は、5代の相伝であり、お主はその郎党ではないか。私も重代の郎党であるぞ。ならば私が相手する敵ではない。とは言えども、弓矢取る武士の身であれば遭ったが敵、おかしなものよ、泰衡の味方をする者は恥ずかしい事ぞ。況してや敵に背を見せて逃げるとはなんという事か。卑怯者め、止まらぬか」という主旨の発言をした為、照井は戻って来て鈴木と組み、鈴木は照井の右肩を斬り付け、鈴木は其の後、左手に2騎、右手に3騎を斬り倒し、数名に手傷を負わせた所で自分も深傷を受け「重清よ、犬死にするな。私は此れ迄だ」と言い腹を掻き切って自害した。亀井も「紀伊国鈴木(現在の和歌山県新宮市)を鈴木重家と共に出た日から、命を義経に預けたのだ。今思いもしなかった事だが重家と一所で死ぬことを嬉しく思う。死出の山で待っていてくれ」と言って、鎧の草摺をかなぐり捨てて「音にも聞け、目にも見よ。鈴木重家の弟に亀井重清、生年23、弓矢の手並は有名であるが、東国の奴らは知らないだろう。初めて見物させてやるぞ」と言い終わらない内に、大勢の敵の中に割って入り、弓手(左手)に回ると、馬手(右手)に矢を放ち、斬りかけたので、重清の正面に向かう者はいなかった。重清は敵3騎を討ち取り、6騎に手傷を負わせて、重清自身も大きな傷を数多く負ったので、鎧の上帯を解いて、腹を掻き切って、重家の倒れた所に頭を同じくして倒れた。備前も討たれて死亡した。義経は、一切戦わずに持仏堂に篭り、郷御前と娘を殺害し、自身も自害した。
1,189 熊野(現在の和歌山県・三重県)から平泉へと向かっていた鈴木重家の妻小森御前が、志津川(現在の宮城県本吉郡南三陸町)にて鈴木が戦死した事を聞かされ、其の儘乳母と共に志津川に身を投げ自害する。小森御前は孕っていた。
1,189 7 2 後鳥羽天皇より忠快を釈放し、京都に帰還させる主旨の宣旨が下される。
1,189 7 7 奥州から、源義経が殺害された旨を伝える飛脚が鎌倉に到着する。
1,189 7 20 北条時政主導で、奥州藤原氏征伐の達成を祈願する事を意図し、願成就院(現在の静岡県伊豆の国市寺家)の建設に着工する。
1,189 7 22 吉田経房から送付された、後白河上皇が、源義経が死去した為戦闘を停止する様命じる旨が記載された院宣が鎌倉に届く。
1,189 7 27 藤原秀衡の四男藤原高衡が、藤原泰衡が酒に浸していた源義経の首級を鎌倉に持ち込む。その後以下2名が首実検を行った。
①和田義盛
②梶原景時
1,189 8 8 源頼朝が、藤原泰衡征伐の宣旨を朝廷に要請する。
1,189 8 9 藤原泰衡が、源義経の扱いを巡って対立していた以下2名を殺害する。
①藤原秀衡の参男藤原忠衡
②藤原秀衡の五男藤原通衡
1,189 8 13 源頼朝が、奥州藤原氏征伐に関し大庭景義に諮問する。大庭は以下2点を主張し、源は此れを採用した。
①奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要である
②戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される
1,189 8 29 藤原泰衡征伐に関し、後白河上皇から、源義経は既に誅せられており、又以下2点に差し障りがある為、せめて本年は猶予せよとの宣旨が鎌倉に届く。
①造大神宮の上棟
②大仏寺の造営
しかし、本月13日の大庭景義の進言を優先し、宣旨無しでの出兵を決定する。
1,189 8 30 終日、源頼朝が大倉御所(現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目)にて、奥州藤原氏征伐計画を練り、軍勢を以下の三手に分ける。
①大手軍(源頼朝(大将軍)・畠山重忠)
鎌倉街道中路→下野国→奥州
②東海道軍(千葉常胤(大将軍)・八田知家)
陸奥国岩城郡→奥州
③北陸道軍(比企能員(大将軍)・宇佐美実政)
越後国→出羽国→奥州
1,189 8 31 比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍が、鎌倉を出発する。
1,189 9 ロンドンのユダヤ街で略奪が発生する。以降イギリス全土で反ユダヤ人暴動が起きた。
1,189 9 1 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が鎌倉を出発する。此の際、梶原景時の仲介によって、城長茂も従軍を許され、以下の3兄弟や、吉見頼綱も出陣した。
①小山朝政
②小山政光の弐男長沼宗政
③小山政光の参男結城朝光
1,189 9 7 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が、下野国古多橋駅(現在の栃木県宇都宮市下河原町付近)に到着する。其の後宇都宮二荒山神社(現在の栃木県宇都宮市馬場通り)にて戦勝祈願を行い、宿所に入った源に、小山政光が弁当を献上した。源の前に紺の直垂の上下を着た者が居たので、政光は何者か尋ねると、源は「本朝無双の勇士熊谷直家だ」と答えた。結城朝光が「どの様な手柄で勇士の号を与えたのか」と問うと、源は「西暦1,184年3月20日の一ノ谷の戦いで父熊谷直実と共に命を顧みず戦ったからだ」という主旨の発言をした。すると政光は「直家の様な郎党を従えていない者は自身で勲功を挙げなければなりませんが、私の様な大名は郎党を派遣して忠義を尽くすだけです。皆の者、今度の戦では先頭に進んで自分自身で手柄を立てて、本朝無双の勇士と褒めて頂こうではないか」と以下の人間に命じた。
①小山朝政
②長沼宗政
③結城
④政光の養子宇都宮頼綱
1,189 9 8 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が宇都宮を出発する。其の後常陸国に入り、佐竹秀義を軍勢に加えた。佐竹は源氏の無地の白旗を持参したが、源の旗と区別が付く様に扇を旗の上に付けるよう命じられた。此の出来事が佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来となった。
1,189 9 10 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が、新渡戸駅(杉渡土(現在の栃木県那須塩原市越堀)・寒井(現在の栃木県大田原市)付近)に到着する。城長茂の郎従200名が加勢した。
1,189 9 11 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が、白河関(現在の福島県白河市旗宿)を通過する。
1,189 9 17 常陸入道念西が、石那坂(現在の福島県福島市平石)にて、奥州藤原氏の家臣佐藤基治を破る。
①常陸入道念西の嫡男伊佐為宗
②常陸入道念西の弐男伊達宗村
③常陸入道念西の参男中村資綱
④常陸入道念西の四男伊達為家
1,189 9 18 源頼朝・畠山重忠率いる大手軍が、国見駅(現在の福島県伊達郡)に到着する。夜、源は明朝の攻撃を命じた。畠山は率いてきた人夫80名に用意していた鋤と鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。
1,189 9 19 6時、以下5名等が先陣を切って進軍し、金剛別当秀綱が数千騎を率い、息子の下須房秀方と共に阿津賀志山(現在の福島県伊達郡国見町大木戸の厚樫山)で迎え撃つ。
①畠山重忠
②結城朝光
③加藤景廉
④工藤行光
⑤工藤祐光
10時、金剛別当は、衆寡敵せず大木戸に退却し、藤原国衡に復命した。
1,189 9 20 夜、源頼朝が、明朝に阿津賀志山を越えて合戦する様命じる。此れを受け、以下の7名は畠山重忠を追い越して山を越え、戦端を開こうとした。
①工藤行光
②工藤祐光
③三浦義村
④葛西清重
⑤狩野親光
⑥藤沢清近
⑦河村秀清
畠山の郎党が7名の前を塞ぐ様進言すると、畠山は「其の必要はない。例え、連中の武力で敵が退散したとしても、先陣は私が賜っているのだから、戦功は全て私のものになるだろう。又、一番乗りを競い戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士の精神に反する」という主旨の回答をした。
1,189 9 21 5時、本軍の以下の人間等が大木戸を襲撃する。
①工藤行光
②畠山重忠
③小山朝政
④結城朝光
⑤加藤景廉
⑥下河辺行平
⑦三浦義澄
⑧三浦義澄の弐男三浦義村
⑨佐原義連
⑩葛西清重
⑪和田義盛
奥州藤原氏は激しく抵抗するが、結城が以下2名を含む宇都宮朝綱の郎従7名を率い、安籐次を山の案内者として、鎧を匹馬に負わせ、藤田宿(現在の福島県伊達郡国見町)から会津の方角へ向かい、土湯の嵩(現在の福島県福島市土湯温泉町)、鳥取越(現在の福島県福島市土湯温泉町・福島県耶麻郡猪苗代町若宮)を越え、藤原国衡の軍の後陣の居る山に登った。
①第8代芳賀氏当主芳賀高親
②第3代益子氏当主益子正重
そして一斉に閧の声を発し、矢を放つと、国衡の軍は混乱し、多くの郎従が逃亡した。晴天ではあったが、深い霧で周囲は薄暗く、朝露で滑り易くなっており、敵味方の区別も出来ない状況であった。しかし、下須房秀方は留まり、防戦した。其処へ工藤行光の郎従籐五男がやって来て、下須房と対峙した。籐五男は名前を問うが、下須房は答えなかった。籐五男は、下須房と組み合い、幼いながらも強力であった為苦戦しながらも、下須房を殺害した。金剛別当秀綱は、結城によって殺害された。金剛別当の軍は大将が討ち取られた為、平泉の藤原泰衡の陣へ逃げ帰った。泰衡は周章狼狽し、平泉から逃亡した。又、国衡も逃亡した。源頼朝は追撃を命じ、和田が国衡を追った。
1,189 9 21 夕方、大高山神社(現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬台部)付近で、藤原国衡は出羽街道を経て、大関山(現在の宮城県柴田郡川崎町・山形県山形市)を越えようと考え、大高山神社の水田を右に向かった所、和田義盛と遭遇する。和田が「戻って戦え」と言うと、藤原は名乗りながら馬を返した。互いに敵を左手に見て、藤原が14束の矢を番えている間に、和田が13束の矢を放った。和田の矢は藤原の鎧の袖を射抜いて腕に命中した。藤原は痛みの為、構えを解き、逃げようとした。和田が二の矢を構えた所に畠山重忠の軍勢が到着した。畠山の郎従大串重親が藤原と向かいあった。藤原は狼狽えて深田に入り、馬の足を捕らわれ、もたついている所を大串が襲撃し、藤原の首を取った。大串は藤原の首級を畠山に渡した。又、大将軍の金十郎も戦死し、以下2名を含む30名が捕縛された。
①勾当八
②赤田次郎
1,189 9 22 源頼朝一行が船迫宿(現在の宮城県柴田郡柴田町本船迫下町)に到着する。畠山重忠は、藤原国衡の首級を源に献上し、お褒めの言葉を賜った。源は藤原の首級を首実検した。其処に和田義盛が御前へ進み出て「藤原は私の矢を受けて落命する事になった、畠山の手柄では無い」と言った。畠山は笑って「和田の発言は絵空事だ。殺したと言う根拠は何か。私が藤原の首を持ち込んだのは事実なのに」と言う主旨の発言をした。和田は「首に就いては其の通りだが、剥ぎ取った藤原の鎧を確認して欲しい。大高山神社の前で私と藤原は弓手に向き合い、私の矢が藤原に当った。鎧の左袖の上から二、三枚目の小札に矢が刺さった穴がある筈だ。鎧は赤糸縅、黒馬である」と返した。源が藤原の鎧を持ち込ませて調べると、左袖の小札の三枚目稍後ろ側に鏨を通した様な跡があった。頼朝は、藤原に矢を射たかと畠山に問い、畠山は「否」と答えた。源は「和田の発言は全てが一致するのでその通りだろう。但し畠山も本当の事を言っている。畠山は清廉な人柄で詐称する様な性格では無いから、今回の件は偽装ではない。畠山は郎従よりも後に到着したので、和田の矢を藤原が受けた事は知らなかった。大串重親が首を持ち込んで重忠が受け取り討ち取ったと知った。問題にする様な事では無い」と結論付けた。
1,189 9 23 源頼朝一行が多賀城国府に到着する。以下3名を含む東海道軍が、大手軍に合流した。
①千葉常胤
②八田知家
③八田知家の嫡男小田知重
1,189 9 24 比企能員・宇佐美実政率いる北陸道軍が田川館を襲撃し、以下2名が討ち取られ、斬首・梟首される。
①田川行文
②秋田致文
さらに、由利維平が宇佐美に捕縛された。
1,189 9 25 鎌倉幕府軍と奥州藤原氏の合戦が、物見岡(大亀山(現在の宮城県富谷市大亀和合田)-亀山(現在の宮城県宮城郡利府町)間付近)で発生する。其の後、源頼朝一行が、現在の宮城県大崎市付近へ向けて出発した。
1,189 10 1 源頼朝一行が多加波々城を包囲する。しかし、藤原泰衡を始めとする奥州藤原氏は撤退していた。
1,189 10 2 源頼朝が20,000名の兵を従え、津久毛橋城(現在の宮城県栗原市金成)に到着する。其の後源の軍は、奥州藤原氏を破り、平泉へ向けて進軍した。其の際梶原景高は、
陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸
と詠み、源の歓心を買った。
1,189 10 2 藤原泰衡が、平泉館(現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所)に火を放つ。又、高屋や宝蔵も放火し、逃走した。
1,189 10 3 16時、雨の降る中、源頼朝一行が平泉に到着する。平泉館は既に焼け落ちており、人影も無かった。源は、藤原泰衡捜索を命じた。又、焼け残った宝物庫から以下の品物が見つかった。
①金造りの鶴
②象牙の笛
③瑠璃の灯篭
④金の沓
⑤錦の直垂
⑥銀造りの猫
源は、後に此れ等を戦功を挙げた武士に与えた。
1,189 10 6 藤原基成が衣川館に於いて、3名の息子と共に降伏し、東胤頼によって捕縛される。
1,189 10 7 源頼朝の宿所に、以下の主旨の藤原泰衡からとされる書簡が届く。
「源義経の件に就きましては、藤原秀衝が援助した事であり、私は其の経緯を存じておりません。父の死去後には頼朝のご命令通り、義経を誅した筈です。此の事は勲功に当たる行為の筈ですが、其れにも関わらず罪無くして征伐を受けるのは如何なる所存でありましょうか。其の為、私は先祖の在所を離れ、山林を住居とする始末で不便の極みでございます。奥羽両国が既に頼朝の支配にある以上、此の泰衡には罪を許して頂き、御家人に列せられたいと存じます。此れが許されないのなら、死を免ぜられ遠流にも処して頂きたい。ご返事を頂けるならば、比内郡辺りに返書をご放置頂きたい」
1,189 10 13 源頼朝一行が、平泉から厨川柵(現在の岩手県盛岡市)へ向けて出発する。
1,189 10 14 未明、藤原泰衡が、蝦夷(現在の北海道・樺太)へ向かう途上、比内郡贄柵(現在の秋田県大館市二井田贄ノ里)に立ち寄った際、領主の河田次郎の裏切りにより殺害される。
1,189 10 15 源頼朝一行が、陣ヶ岡(現在の岩手県紫波郡紫波町宮手)にて北陸道軍と合流する。
1,189 10 17 河田次郎が陣ヶ岡に到着し、鎌倉幕府軍に藤原泰衡の首級を差し出す。以下2名は、囚われていた赤田次郎に首級を見せて、藤原に相違無い事を確認した。
①和田義盛
②畠山重忠
源頼朝は「泰衡は既に我が掌中に収まっている。何ぞ汝如きの手を借りようや。汝は旧恩に背き、反逆を敢てするとは許し難い」と八虐の罪に値するとして、河田は斬罪に処された。又、西暦1,062年10月22日に源頼義が安倍貞任を梟首とした事に倣い、泰衡の首級は眉間に八寸の鉄釘を打ち付けられて柱に懸けられ梟首された。其の後泰衡の首級は平泉に戻され、近親者の手により黒漆塗りの首桶に入れられて、以下の歴代の奥州藤原氏の当主と共に中尊寺金色堂(現在の岩手県西磐井郡平泉町)に納められた。
①藤原清衡
②藤原基衡
③藤原秀衡
1,189 10 18 宇佐美実政が、由利維平を引き連れ陣ヶ岡に到着する。しかし、天野則景が「私が由利を生け捕りにした」と主張し争論となった。源頼朝は、実否を本人に尋ねる様梶原景時に指示した。梶原は「お前は泰衡の郎従の中でも名が知れ渡った者だ。まさか真偽を偽り飾る事など無かろう。事実の儘に言上せよ。お前を生け捕ったのは何色の甲冑を着ていた者ぞ」と言うと、由利が「お前は源頼朝の家人か。今の物言い、身分を弁えないにも程がある。亡き御館藤原泰衡は藤原秀郷将軍嫡流の正統として、父祖三代に渡って鎮守府将軍の名を汲む者ぞ。お前の主人ですら斯様な物言いは出来ぬ。それにお前と私は対等であって其れ以上でも其れ以下でもない。運尽きて囚人となるは勇士の常ぞ。鎌倉殿の家人ごときに奇怪な態度を取られる謂れなど甚だ有り得ぬ事。故に質問になど、殊更返答するに能わず」と激怒した。源は無礼を認め、代わりに畠山重忠に尋問させ、由利は「宇佐美実政」と答えた。最終的に源は由利を赦免した。
1,189 10 19 源頼朝が、奥州平定の飛脚を京都に送る。
1,189 10 20 一条能保の使者が陣ヶ岡に到着し、後白河上皇が源頼朝が行った奥州藤原氏征伐の為の出兵を追認した、西暦1,189年9月1日付の宣旨を源頼朝の陣営に届ける。
1,189 10 22 源頼朝一行が陣ヶ岡を出発し、以下を経由して厨川柵に入る。
①高水寺城(現在の岩手県紫波郡紫波町)
②走湯神社(現在の岩手県紫波郡紫波町二日町向山)
1,189 10 23 工藤行光が、岩手郡の領地を与えられ地頭に任ぜられる。
1,189 10 25 源頼朝が、奥羽両国の省帳・田文等の公文書の捜索を命じる。しかし、同月2日の藤原泰衡による放火により、全て燃えてしまい、残存していなかった。そこで以下の兄弟を召し出し、新たに絵図を描かせて田文を作成し直した。
①清原実俊
②清原実昌
1,189 10 30 源頼朝一行が、平泉へ向けて厨川柵を出発する。藤原秀衡が建立させた無量光院(現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉花立)を巡礼した。
1,189 10 31 源頼朝が、胆沢郡鎮守府に鎮座する鎮守府八幡宮(現在の岩手県奥州市水沢佐倉河宮ノ内)を参詣し、吉書始の儀式が執り行われる。戦功のあった以下2名を始めとする御家人に所領が充てがわれた。
①千葉常胤(陸奥国の以下の郡の地頭職に任ぜられる)
❶行方郡
❷宇多郡
❸亘理郡
❹伊具郡
❺岩城郡(後の磐城郡)
❻宮城郡
❼黒川郡
②畠山重忠(陸奥国地頭職に任ぜられる)
1,189 11 2 源頼朝が、奥羽統治の為に葛西清重に対し陸奥国の奉行を命じる。陸奥国の御家人の源への言い分は全て葛西を通す事も併せて通達された。葛西は「今度の勲功、殊に抜群」との理由で、以下の5郡2保の所領を拝領した。
①胆沢郡
②磐井郡
③牡鹿郡
④江刺郡
⑤気仙郡
⑥興田(現在の岩手県一関市大東町)
⑦黄海(現在の岩手県一関市藤沢町)
1,189 11 4 源頼朝が、平泉周辺の郡の検非違使所を管領して濫行を止め、罪科を糾弾する事を命じる。
1,189 11 6 捕縛されていた藤原基成と3名の息子が鎌倉に召される。
1,189 11 7 源頼朝が、西暦1,062年10月11日の衣川の戦いの旧跡を訪れる。
1,189 11 8 源頼朝一行が、捕虜を30名余りを残して放免し、平泉から鎌倉へ向けて出発する。
1,189 11 10 源頼朝が、多賀国府(現在の宮城県仙台市宮城野区・太白区付近)にて地頭等に、郡・郷・荘園の所務に於いて、国郡を費やし土民を煩わせず、荘号の威勢を以て、不肖の道理を押し付けず、以下2名の先例に合わせて運営するように、という主旨の一紙の張文を府廰に置く。
①藤原秀衡
②藤原泰衡
1,189 11 11 源頼朝が、囚人である以下3名等を赦免する。
①佐藤庄司
②名取郡司
③第21世熊野別当湛増
1,189 11 25 源通親が、後白河上皇を自邸に招き、種々の進物を献上する。
1,189 11 28 源頼朝が、下野国宇都宮の社壇に奉幣する。
1,189 12 3 16時、源頼朝一行が鎌倉に帰着する。
1,189 12 12 源頼朝の下に朝廷からの書簡が届けられる。奥州藤原氏征伐の功績から、按察使への任官を打診する内容であったが、源は辞退した。
1,189 12 24 九条兼実の長女九条任子が、従三位に叙せられる。
和田合戦に関する電子書籍 北条義時の挑発にまんまと乗ってしまった和田義盛。