西暦1101〜1200年は、エルサレムにテンプル騎士団が設立され、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代である。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し天叢雲剣が行方不明となった。源義経が頼朝に追放され、源頼家が誕生した。堀河天皇の騎射会から始まり、日本の武家政権が確立された100年間の出来事を網羅する。

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≈は「頃」を意味しています。

源頼家に関する電子書籍 御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
年月日 出来事
1,188 平重衡等による西暦1,181年1月15日の南都焼き討ちで焼失した手向山八幡宮の仮殿が、重源主導で建設される。
1,188 2 4 九条良経が正二位に昇叙する。
1,188 2 5 権中納言源通親が、若輩の九条良経が正二位に昇叙したとして朝廷に抗議し、自らの所職を辞して自らも正二位に叙すことを求める。しかし、九条兼実は「前年に従二位に叙した恩を知らないのは禽獣に異ならない」と罵倒し、両者に亀裂が入った。
1,188 3 7 源義経が平泉(現在の岩手県西磐井郡)に潜伏している事が、源頼朝を始めとする鎌倉方に知られる。
1,188 3 19 未明、九条良通が急死する。良通と前夜に雑談をしていた父の九条兼実は打ちのめされ、出家も考えたが、思い留まった。
1,188 3 20 後白河上皇が、源頼朝の要請を受け、以下2名に対し、源義経征伐の宣旨を下す。
①藤原基成
②藤原泰衡
1,188 10 6 熊野の僧定任が大倉御所に招かれる。定任は源頼朝の帰依を受けており、城長茂とも信仰によって結ばれていた。御簾に招かれた定任は、平氏側であった城の赦免と、城を御家人に加えて貰いたい旨を源に訴えた。其処で源は、城を大倉御所へ連れて来る事を許可した。城が白の水干に立烏帽子を着用してやって来て、北側に梶原景時、南側に畠山重忠が列席する中を進み、御簾に背を向けて、横敷の座に着席した。梶原が「其処は源殿の座る所である」という主旨の注意をすると、城は「知らなかった」と言って立ち上がり、其の儘退出した。源は何も言わなかったが、定任は、城を御家人に推挙する事を取り止めた。
1,188 11 15 後白河上皇が、源頼朝の要請を受け、以下2名に対し、源義経征伐の宣旨を下す。
①藤原基成
②藤原泰衡
和田合戦に関する電子書籍 北条義時の挑発にまんまと乗ってしまった和田義盛。