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≈は「頃」を意味しています。
御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,188 | 平重衡等による西暦1,181年1月15日の南都焼き討ちで焼失した手向山八幡宮の仮殿が、重源主導で建設される。 | |||
| 1,188 | 2 | 4 | 九条良経が正二位に昇叙する。 | |
| 1,188 | 2 | 5 | 権中納言源通親が、若輩の九条良経が正二位に昇叙したとして朝廷に抗議し、自らの所職を辞して自らも正二位に叙すことを求める。しかし、九条兼実は「前年に従二位に叙した恩を知らないのは禽獣に異ならない」と罵倒し、両者に亀裂が入った。 | |
| 1,188 | 3 | 7 | 源義経が平泉(現在の岩手県西磐井郡)に潜伏している事が、源頼朝を始めとする鎌倉方に知られる。 | |
| 1,188 | 3 | 19 | 未明、九条良通が急死する。良通と前夜に雑談をしていた父の九条兼実は打ちのめされ、出家も考えたが、思い留まった。 | |
| 1,188 | 3 | 20 |
後白河上皇が、源頼朝の要請を受け、以下2名に対し、源義経征伐の宣旨を下す。 ①藤原基成 ②藤原泰衡 |
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| 1,188 | 10 | 6 | 熊野の僧定任が大倉御所に招かれる。定任は源頼朝の帰依を受けており、城長茂とも信仰によって結ばれていた。御簾に招かれた定任は、平氏側であった城の赦免と、城を御家人に加えて貰いたい旨を源に訴えた。其処で源は、城を大倉御所へ連れて来る事を許可した。城が白の水干に立烏帽子を着用してやって来て、北側に梶原景時、南側に畠山重忠が列席する中を進み、御簾に背を向けて、横敷の座に着席した。梶原が「其処は源殿の座る所である」という主旨の注意をすると、城は「知らなかった」と言って立ち上がり、其の儘退出した。源は何も言わなかったが、定任は、城を御家人に推挙する事を取り止めた。 | |
| 1,188 | 11 | 15 |
後白河上皇が、源頼朝の要請を受け、以下2名に対し、源義経征伐の宣旨を下す。 ①藤原基成 ②藤原泰衡 |
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