西暦1188年は、源義経が平泉に潜伏している事が鎌倉方に知られ、源義経征伐の宣旨が下された年である。3月7日に潜伏が知られると、後白河上皇は源頼朝の要請を受け、3月20日と11月15日の2度に亘って藤原基成と藤原泰衡に源義経征伐の宣旨を下した。此の年には南都焼き討ちで焼失した手向山八幡宮の仮殿が重源主導で建設され、3月19日には九条良通が急死している。

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年月日 出来事
1,188 平重衡等による西暦1,181年1月15日の南都焼き討ちで焼失した手向山八幡宮の仮殿が、重源主導で建設される。
1,188 2 4 九条良経が正二位に昇叙する。
1,188 2 5 権中納言源通親が、若輩の九条良経が正二位に昇叙したとして朝廷に抗議し、自らの所職を辞して自らも正二位に叙すことを求める。しかし、九条兼実は「前年に従二位に叙した恩を知らないのは禽獣に異ならない」と罵倒し、両者に亀裂が入った。
1,188 3 7 源義経が平泉(現在の岩手県西磐井郡)に潜伏している事が、源頼朝を始めとする鎌倉方に知られる。
1,188 3 19 未明、九条良通が急死する。良通と前夜に雑談をしていた父の九条兼実は打ちのめされ、出家も考えたが、思い留まった。
1,188 3 20 後白河上皇が、源頼朝の要請を受け、以下2名に対し、源義経征伐の宣旨を下す。
①藤原基成
②藤原泰衡
1,188 10 6 熊野の僧定任が大倉御所に招かれる。定任は源頼朝の帰依を受けており、城長茂とも信仰によって結ばれていた。御簾に招かれた定任は、平氏側であった城の赦免と、城を御家人に加えて貰いたい旨を源に訴えた。其処で源は、城を大倉御所へ連れて来る事を許可した。城が白の水干に立烏帽子を着用してやって来て、北側に梶原景時、南側に畠山重忠が列席する中を進み、御簾に背を向けて、横敷の座に着席した。梶原が「其処は源殿の座る所である」という主旨の注意をすると、城は「知らなかった」と言って立ち上がり、其の儘退出した。源は何も言わなかったが、定任は、城を御家人に推挙する事を取り止めた。
1,188 11 15 後白河上皇が、源頼朝の要請を受け、以下2名に対し、源義経征伐の宣旨を下す。
①藤原基成
②藤原泰衡