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≈は「頃」を意味しています。
皇室献上品 高級トイレットペーパー
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,609 | 3 | 7 | オランダ東インド会社の船が、平戸に到着し、オランダ総督マウリッツからの徳川家康への親書と献上品を齎した。家康は使節を駿府に迎え、書状と通航許可の朱印状を託した。 | |
| 1,609 | 3 | 11 |
琉球征伐の為、以下を中心とする鹿児島藩士3,000名、藩船100隻が山川港(現在の鹿児島県指宿市山川金生町)に集結する。 ①樺山久高(総大将) ②平田増宗(副大将) 待機している間に樺山は島津忠恒から以下の内容の書簡を受け取った。 ①琉球王国より和睦申し立てがあれば異議無く談合に応じる事。 ②西暦1,609年7・8月中には片を付け、帰還する事。 ③琉球王国歴々の人質、其の他島々の頭々まで人質に取る。以後の琉球王国の措置は鹿児島藩が定める。 ④尚寧王が首里城に長く籠城する様子が見えたら焼き払い、辺りの島々の者を含む成る可く多くの人質を取って帰陣する事。 ⑤奄美諸島への兵糧米の徴発は、琉球王国より軽くする事。 |
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| 1,609 | 4 | 8 | 島津忠恒一行が、島津の閲兵を受け順風を待った上で此の日鹿児島藩士3,000名、藩船75隻が琉球へ向けて山川港を出港する。 | |
| 1,609 | 4 | 9 | 島津忠恒一行が口永良部島(現在の鹿児島県熊毛郡屋久島町)に到着する。 | |
| 1,609 | 4 | 10 | 島津忠恒一行が口永良部島を出発する。 | |
| 1,609 | 4 | 11 | 島津忠恒一行がで奄美大島の笠利湾(現在の鹿児島県奄美市)に到着。奄美大島の首脳が鹿児島藩に全面協力する意向を示した為、戦闘は起きなかった。 | |
| 1,609 | 4 | 12 | 笠利に奄美大島の島民が集結していると聞き付けた鹿児島藩は巡察を行う。しかし集団を見付ける事が出来なかった。島民は山林に逃げ隠れしていた。其処で鹿児島藩は「山林から島民を呼び集め、抵抗なくば安堵して良い」と伝え、戦いは無く治まった。 | |
| 1,609 | 4 | 14 | 琉球王国が鹿児島藩の軍が奄美大島に到着した事を聞きつける。其処で降伏する為に天龍寺の僧以文を遣わせたが、以文は鹿児島藩との接触を避け、途中で行方を眩ました。此れにより後日尚寧王の怒りを買う事となった。 | |
| 1,609 | 4 | 16 | 島津忠恒一行が大和浜(現在の鹿児島県大島郡大和村)に到着する。 | |
| 1,609 | 4 | 20 | 鹿児島藩の軍船の内13隻が徳之島にやって来て、其の内8隻が湾屋(現在の鹿児島県大島郡天城町)に入港する。島民1,000名が此れを取り囲み棍棒や竹槍等で鹿児島藩に戦闘を挑んだ。鹿児島藩は鉄砲を用い島民50名を殺害したが、無傷では済まなかった。 | |
| 1,609 | 4 | 20 | 島津忠恒一行が西古見(現在の鹿児島県大島郡瀬戸内町)に到着する。 | |
| 1,609 | 4 | 24 |
朝、鹿児島藩の軍船3隻が加計呂麻島の秋徳(現在の鹿児島県大島郡瀬戸内町)に上陸する。此れに対し以下2名が棍棒を持ち、竹槍や煮え滾った粥で戦う島民達を率いた。 ①東之主の息子で掟役の佐武良兼 ②佐武良兼の弟思呉良兼 しかし佐武良兼が射殺され、加計呂麻島側は6名の死者を出し、制圧された。鹿児島藩も死者数名を出し、遅れて島津忠恒一行も秋徳に到着した。 |
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| 1,609 | 4 | 25 | 島津忠恒一行が亀津(現在の鹿児島県大島郡徳之島町)に到着する。 | |
| 1,609 | 4 | 25 | 樺山久高を含む10隻の鹿児島藩の軍船が沖永良部島へ向けて加計呂麻島を出港する。残った鹿児島藩兵は徳之島へ向かった。 | |
| 1,609 | 4 | 26 | 鹿児島藩兵が徳之島へ上陸する。琉球王国の在徳之島平等所にいた琉球守備隊が鹿児島藩兵を砲撃した。しかし、鹿児島藩は応戦し進軍してきた為、山中に逃げ込んだ。鹿児島藩は山狩りを行い、名護良豊の甥で守備隊のトップの番衆主取与那原朝智を捕らえた。 | |
| 1,609 | 4 | 28 | 午前中、徳之島にいた鹿児島藩兵が沖永良部島へ向けて出発し、夕方に到着する。其処で樺山久高と合流し、夜に沖縄本島へ向けて出発した。 | |
| 1,609 | 4 | 29 | 夕方、島津忠恒一行が運天港(現在の沖縄県国頭郡今帰仁村)に到着する。 | |
| 1,609 | 4 | 30 |
尚寧王が鹿児島藩との和睦の使者に隠居していた第18代円覚寺(現在の沖縄県那覇市首里当蔵町)住職菊隠宗意を指名する。菊隠は一度は高齢を理由に断るが、尚寧王の重ねての要請により以下の人間と共に船上で講和交渉に当たった。しかし鹿児島藩は其の儘那覇へ進軍した。 ①名護良豊 ②喜安 菊隠は円覚寺で得度し、後に日本に渡り京都南禅寺等で修業し、琉球に帰国後島津氏との外交に携わり、以下の人間と親交があった。 ①島津義久 ②島津義弘 ③島津忠恒 |
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| 1,609 | 5 | 1 | 島津忠恒一行が、第一目標であった今帰仁城(現在の沖縄県国頭郡今帰仁村)を落城させる。今帰仁城は鹿児島藩兵が到着する前に放棄され誰もいなかった。鹿児島藩は所々を放火した。 | |
| 1,609 | 5 | 3 | 島津忠恒一行が読谷(現在の沖縄県中頭郡)を攻略する。其の後、陸路と海路に分かれ那覇を目指し出発した。 | |
| 1,609 | 5 | 4 | 島津忠恒一行が首里城(現在の沖縄県那覇市)を占拠する。 | |
| 1,609 | 5 | 8 | 尚寧王が鹿児島藩に対し和睦を申し入れ首里城が開城、鹿児島藩によって接収される。尚寧王の弟で第二尚氏王統摂政の具志頭朝盛と補佐役の菊隠宗意も講和交渉に当たった。 | |
| 1,609 | 5 | 19 |
尚寧王が、歴代の国王を祀った廟である崇元寺(現在の沖縄県那覇市泊)で鹿児島藩の以下2名と面会し、尚寧王自ら薩摩に来る様求められる。 ①樺山久高 ②平田増宗 |
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| 1,609 | 6 | 16 |
尚寧王が、以下の人間を含む総勢100名余りの使節団を連れて、薩摩に向けて那覇港を発つ。 ①具志頭朝盛 ②菊隠宗意 ③第22代円覚寺住職恩叔宗沢 ④喜安 |
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| 1,609 | 6 | 23 | 尚寧王一行が薩摩に到着する。島津忠恒を始め、薩摩側の要人と次々に面会した。其の間具志頭朝盛が、琉球王国を経由して明へ渡り、琉球が薩摩に攻め入られたが大丈夫であるという報告し、再度薩摩へ戻り尚寧王と合流した。 | |
| 1,609 | 6 | 29 | アンドレ・ペソアが長崎に到着。 | |
| 1,609 | 8 | 6 | 徳川家康が琉球征服の軍功として琉球王国を島津忠恒に与え、仕置を命じる。其の後、鹿児島藩による琉球王国の領地に対する検地が始まった。 | |
| 1,609 | 8 | 24 | 徳川家康が、日本船のマカオ寄港を禁じる朱印状を下付する。 | |
| 1,609 | 9 | 20 | 江戸幕府から貿易を許可されたオランダ東インド会社が、第3代平戸藩主松浦隆信の導きによって平戸オランダ商館を設立する。 | |