西暦1,224年は、北条義時が没し、執権の代替わりを巡って鎌倉が揺れた年である。此の年頃、西暦1221年に出羽国羽黒山総長吏に任じられた後鳥羽上皇の側近尊長が、熊野・洛中・鎮西を転々とした末に京都へ潜伏し始め、和田朝盛と其の従兄弟で山僧の伯耆房と知己を得た。4月13日に伊賀朝光の参男伊賀光資が脚気の為死去している。6月30日8時、脚気を患い不調が続いていた、西暦1205年に第2代執権となり西暦1213年の和田合戦を経て政所別当と侍所別当を兼ね、西暦1221年の承久の乱を制した北条義時が重病となり、死期を悟って朝から念仏を唱え続けた。7月1日4時に出家し、同日10時、鶴岡八幡宮寺の供僧で心経会の導師である頼暁を師として外縛印を結び、念仏を数十回唱えた中で死去した。7月6日に葬儀が執り行われ、法華堂の東の山上が墳墓とされている。7月4日に訃報を受けた、西暦1221年から初代六波羅探題北方を務めていた北条泰時は7月5日2時に京都を発ち、伊豆国での逗留を経て、北条時房の鎌倉入りと安全確認を受けて7月14日に北条時房・足利義氏と共に鎌倉へ入った。7月16日、北条時房が初代連署に就任し、同日北条政子は泰時を第3代執権に任命する事を決め、大江広元も賛同、時房が後見とされた。だが此の時点で、泰時が北条政村を討つとの噂や、伊賀の方が政村を執権に据え兄伊賀光宗に後見をさせ娘婿の一条実雅を征夷大将軍に就かせようと画策しているとの噂が流れていた。7月18日頃から伊賀光宗・伊賀朝行・伊賀光重が政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始め、8月3日深夜、北条政子が三浦義村の屋敷へ赴いて共謀を問い質し、義村は光宗を止めさせると誓った。8月16日未明には御家人達が鎧兜で走り回る騒動が起き、8月17日、政子は藤原頼経を連れて泰時の屋敷に入り、三浦義村・葛西清重・中条家長・小山朝政・結城朝光等を呼び出して結束を促し、御家人達は政子に協力する事に賛同した。8月19日、西暦1218年に侍所所司へ選任されていた伊賀光宗と伊賀の方の謀反が鎌倉幕府に知られ、政子は御前で両名を流罪とする処分を下し、一条実雅の身柄は朝廷に引き渡された。9月14日に光宗は政所執事を罷免され所領52ヶ所を没収されて二階堂行村の預かりとなり、9月22日には北条義時の墳墓堂の供養が執り行われて「新法華堂」と称される事となった。10月13日、伊賀の方は伊豆国北条郡に配流されて幽閉され、光宗は信濃国へ配流、伊賀朝行と伊賀光重は北条時氏の預かりとなって鎮西への配流が決定した。12月11日には一条実雅が解官され越前国へ配流されている。翌西暦1225年には北条政子が源頼朝の菩提を弔う長楽寺を建て、7月6日に自らも病の床に就く事となる。

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≈は「頃」を意味しています。

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年月日 出来事
1,224 熊野・洛中・鎮西を転々としていた尊長が、京都に潜伏し始める。以下2名と知己を得た。
①和田朝盛
②和田の従兄弟で山僧の伯耆房
1,224 4 13 伊賀朝光の参男伊賀光資が、脚気の為死去する。
1,224 6 30 8時、脚気を患い不調が続いていた北条義時が重病となる。其の後陰陽師が占った。結果、大事には至らず、20時には快方に向かうとされたが、念の為祈祷が行われた。死期を悟った北条は、此の日の朝から念仏を唱え続けた。
1,224 7 1 4時、北条義時が出家する。
1,224 7 1 10時、北条義時が死去する。鶴岡八幡宮寺の供僧で心経会の導師である頼暁を師として、外縛印を結び、念仏を数十回唱えた中での死であった。
1,224 7 4 北条義時の訃報が北条泰時に伝えられる。
1,224 7 5 2時、北条泰時が、鎌倉へ向けて京都を出発する。
1,224 7 6 北条義時の葬儀が執り行われる。法華堂の東の山上が墳墓とされた。兄弟の序列は以下であった。
①北条朝時
②北条重時
③北条義時の五男北条政村
④義時の六男北条実泰
⑤北条有時
1,224 7 7 北条義時の初七日法要が執り行われる。導師は頼暁が務めた。
1,224 7 7 北条時房が、鎌倉へ向けて京都を出発する。
1,224 7 8 北条泰時が伊豆国に入り、当地にて逗留を開始する。
1,224 7 10 北条義時の臨時の法要が三浦義村の主催で執り行われる。導師は源延が務めた。
1,224 7 10 北条時房が鎌倉へ入る。其の後安全を確認した。此れを受けて北条泰時は、鎌倉へ向けて出発した。
1,224 7 14 北条義時の二十七日法要が執り行われる。導師は観基が務めた。
1,224 7 14 以下3名が鎌倉に入る。
①北条泰時
②北条時房
③足利義氏
此の日泰時は由比ヶ浜に宿泊した。
1,224 7 15 北条泰時が自身の屋敷に戻る。
1,224 7 16 北条時房が初代連署に就任する。
1,224 7 16 北条泰時が、北条政子の屋敷に招かれる。政子は泰時を第3代執権に任命する事に決め、大江広元も賛同した。北条時房が後見とされた。だが、此の時点で泰時が北条政村を討つとの噂が鎌倉で流れ、政村の周囲は騒然となっていた。又伊賀の方が、泰時の家督継承に反対し、政村を執権に据え、自身の兄伊賀光宗に後見をさせ、自身の娘婿の一条実雅を征夷大将軍に就かせようと画策しているとの噂も流れていた。
1,224 7 17 以下2名が上洛する。
①北条時盛
②北条時氏
時盛・時氏は、謀反の噂を聞き、鎌倉に居るべきではないかと主張したが、北条泰時・北条時房が促して上洛させた。
1,224 7 18 此の頃から、以下3名が、北条政村の烏帽子親である三浦義村の屋敷に出入りし始める。
①伊賀光宗
②伊賀朝光の四男伊賀朝行
③朝光の五男伊賀光重
1,224 7 21 北条義時の三十七日法要が執り行われる。導師は道禅が務めた。
1,224 7 22 此の日、以下3名が頻繁に三浦義村の屋敷に出入りするので、人々が怪しむ。
①伊賀光宗
②伊賀朝行
③伊賀光重
夜、北条義時の屋敷に光宗・朝行・光重が参集し「此の事を変えてはならない」と誓い合った。其れを聞いていた女中は何の事か分からなかったが、其の様子を北条泰時に伝えた。泰時は、動揺する事も無く「伊賀兄弟が正しい道を誓い合っている事は神妙である」と語った。
1,224 7 28 北条義時の四十七日法要が執り行われる。導師は退耕行勇が務めた。
1,224 8 2 北条義時の五十七日法要が執り行われる。導師は左大臣律師が務めた。
1,224 8 3 鎌倉の周囲の国々の人間が鎌倉に参集する。深夜、北条政子は、三浦義村の屋敷へ赴き「北条政村・伊賀光宗等が此の屋敷に出入りして、何か密談をしているとの噂が有ります。此れはどういう事でしょう。目的が分かりません。もしや北条泰時を陥れるつもりでしょうか。3年前の朝廷との戦での勝利は、天運も有りましたが半分以上は泰時の功績です。北条義時の跡を継ぐのは泰時です。泰時が居なくなれば、人々は長く争う事になるでしょう。貴方は政村の烏帽子親です。共謀を疑わない訳にはいきません。両人共何もせぬ様に」という主旨の発言をした。義村は「存じ上げません」と答えた。政子は「政村に助力して世を乱そうとするのか、平和の為に尽くすのか、早く決断しなさい」と迫った。義村は「政村に逆心はありませんが、光宗は反逆の考えを持っていますので、止めさせましょう」と誓い、政子を帰した。
1,224 8 4 三浦義村が、北条泰時の屋敷を訪れて釈明する。
1,224 8 9 北条義時の六十七日法要が執り行われる。導師は退耕行勇が務めた。
1,224 8 14 三浦義村が北条泰時に会い「北条義時殿の時には、忠義の私に対し、親切にも北条政村殿の元服の烏帽子親にして貰いました。そして三浦泰村は猶子にして頂きました。其の恩を思うと、泰時殿と政村殿の何方に付くか迷っておりました。唯、心から願うは平和な世。伊賀光宗には謀反の企てが有りましたが、私が諌めたので、敵対する事を止めました」と報告する。泰時は動じず「私は政村に危害を加えようとは思っていません。何を以って敵対していると思うのでしょうか」と返した。
1,224 8 16 北条義時の七十七日法要が執り行われる。導師は定豪が務めた。
1,224 8 16 未明、鎌倉にて、御家人達が旗を立てて鎧兜を身に纏って競う様に走り回るという騒動が発生する。しかし明け方には収まった。
1,224 8 17 北条政子が、藤原頼経を連れて北条泰時の屋敷に入る。政子は「私は藤原を抱いて此処に居ます。三浦義村も此処に居る様に」と、北条泰時の屋敷に義村を呼び出す。政子は三浦義村に度々使いを遣わせ、謀反を鎮める様伝えてきたにも拘らず、前日の騒動が発生した為である。義村の他にも以下の人間等が呼び出され、北条時房が言い聞かせた。
①葛西清重
②中条家長
③小山朝政
④結城朝光
其の際政子は「藤原が幼い間は、下々の反逆を抑える事は難しい。但私は長生きしている。根拠は無いが、皆が生存し参集する事は源頼朝殿の願う所である。其の命に従い心と行動を1つにしていれば、誰が蜂起しようが何とも無い」と語った。参集した御家人達は、謀反を防ぐ為に政子に協力する事に賛同した。
1,224 8 18 北条朝時が、自身の主催で、独自に北条義時の四十九日法要を執り行う。
1,224 8 19 伊賀光宗と伊賀の方の謀反が鎌倉幕府に知られる。北条政子は御前で、伊賀光宗と伊賀の方を流罪とする処分を下した。以下2名も同席した。
①北条時房
②大江広元
同時に、一条実雅の身柄を朝廷に引き渡し、裁定を委ねる事とした。其の他の加担した者の罪は不問に付した。
1,224 9 8 一条実雅が京都へ向けて鎌倉を出発する。以下の人間も同行を許可された。
①伊賀朝行
②伊賀光重
③伊賀光宗の長男伊賀宗義
④伊賀光盛
しかし、以下2名も許可無く扈従した為、後に出仕を止められ、所領を没収された。
①源親行
②伊具盛重
1,224 9 14 伊賀光宗が政所執事を罷免され、所領52ヶ所を没収される。伊賀は、二階堂行村の預かりとなった。
1,224 9 22 北条義時の墳墓堂の供養が執り行われる。導師は源延が務めた。墳墓堂は「新法華堂」と称される事となった。
1,224 9 30 一条実雅が京都に到着する。
1,224 10 6 一条実雅が京都に到着したとの情報が、鎌倉幕府に齎される。
1,224 10 11 伊賀光宗が処刑されるとの噂が鎌倉に流れるが、事実では無かった為、間も無く静まる。
1,224 10 12 京都で騒動が有り、以下2名が監禁される。
①伊賀朝行
②伊賀光重
1,224 10 13 伊賀の方が伊豆国北条郡に配流される。伊賀の方は当地にて幽閉された。
1,224 10 13 伊賀光宗が信濃国へ配流される。
1,224 10 13 以下2名が北条時氏の預かりとなり、鎮西への配流が決定される。
①伊賀朝行
②伊賀光重
1,224 11 22 鎌倉幕府の奏請を受けて朝議が開かれ、一条実雅の越前国への流罪が決定される。
1,224 12 11 一条実雅が解官され、越前国へ配流される。
1,224 12 20 京都に留め置かれていた以下2名が鎮西へ配流される。
①伊賀朝行
②伊賀光重
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