以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
垣間見える実直さとプライド。
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| 1,225 | 2 | 3 | 伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に入る。 | |
| ≈ | 1,225 | 4 | 北条政子が、源頼朝の菩提を弔う為、長楽寺(現在の神奈川県鎌倉市長谷)を建立する。 | |
| 1,225 | 6 | 8 |
鎌倉幕府が、鎌倉にて疫病が発生し、死者が数千名を超える事態となった事を受け、災いを払う事を意図し祈祷を行う事を決定した為、以下の人間が評議を行う。 ①定豪 ②良信 ③三浦義村 ④二階堂行村 ⑤国道 北条政子は、二階堂が「般若心経」と「仏頂尊勝陀羅尼」を其々万巻書写供養する事に就いて意見を求めた。此れに対し定豪は、1,000名の僧を集めて仁王経を読誦する事を提案した。又、定豪と良信は「嵯峨天皇の時代に疫病が発生し、五畿七道に多くの人々が亡くなりました。其の際、嵯峨天皇は自ら般若心経を書写し、空海を通じて供養を行いました」と先例を挙げて般若心経書写の功徳を説き、書写供養を行う事となった。 |
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| 1,225 | 6 | 29 |
鶴岡八幡宮寺にて、鎌倉の疫病や炎暑が続く等の災厄を鎮める為の供養が1,200名の僧により執り行われる。4時に集合し、其々左右の廻廊や仮屋に着席した。先ず仁王経一巻を読み、般若心経と尊勝陀羅尼を其々10回唱えた。其れから般若心経と尊勝陀羅尼を1,000巻ずつ摺り、100巻ずつ金泥で経巻として書写した。此の経巻は、諸国の一宮毎に1巻を奉納するというものであった。其の後、供養の儀式が執り行われた。導師は定豪であった。供物として、以下を含む15種の品が用意された。 ①衣類 ②砂金 ③布 ④染物 ⑤帷糸 ⑥白布 ⑦藍染め ⑧綿 ⑨色革 ⑩銭貨 更に、特別な布施として、紫の宿衣が1領加えられた。1,000名の僧には、其々以下が配られた。 ①裹物1つ ②帖絹1疋 ③米約54L 200名の僧には、以下が同じ様に配られた。 ①衣類1重 ②絹布1疋 ③米約54L 此の他にも、多くの人々から以下等が奉納された。 ①橘広仲 ②大江佐房 |
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| 1,225 | 7 | 6 | 北条政子が病を患う。 | |
| 1,225 | 7 | 9 | 北条政子の病状が快方に向かう。 | |
| 1,225 | 7 | 13 | 北条政子の病状が再び悪化する。 | |
| 1,225 | 7 | 14 | 北条政子が逆修を始める。 | |
| 1,225 | 7 | 21 | 北条時房が、六波羅探題南方を退任する。 | |
| 1,225 | 7 | 22 | 朝、北条政子が一時意識不明となる。其の後間も無く息を吹き返した。 | |
| 1,225 | 8 | 4 | 六波羅探題南方に就任する事となった北条時盛が、京都へ向けて鎌倉を出発する。 | |
| 1,225 | 8 | 13 | 北条政子が危篤状態となり、東の御所に移される。 | |
| 1,225 | 8 | 16 | 2時、北条政子が死去する。 | |
| 1,225 | 8 | 17 | 4時、北条政子の死去が発表される。二階堂行盛が出家し、其の後も多くの人間が後に続いた。 | |
| 1,225 | 8 | 17 | 20時、北条政子が勝長寿院にて火葬される。勝長寿院内に墓所が築かれたが、後に寿福寺と高野山にも分骨された。 | |
| 1,225 | 9 | 18 | 北条政子の死去を受けて、鶴岡八幡宮寺の放生会が延期される。 | |
| 1,225 | 9 | 30 | 北条政子の四十九日法要が執り行われる。施主は源頼家の娘竹御所、導師は定豪であった。 | |