西暦1201〜1300年は、源頼家が蹴鞠に耽溺し御家人の所領再分配を命じるも反対され、北条氏が台頭した時代である。重源が東大寺大仏殿の再建に尽力し、和田合戦で北条義時が和田義盛を滅ぼした。源実朝が暗殺され、承久の乱を経て北条氏の執権政治が確立した。モンゴル帝国がユーラシア大陸に拡大した。

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東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿に関する電子書籍 垣間見える実直さとプライド。
年月日 出来事
1,225 2 3 伊賀の方が危篤となったとの情報が鎌倉に入る。
1,225 4 北条政子が、源頼朝の菩提を弔う為、長楽寺(現在の神奈川県鎌倉市長谷)を建立する。
1,225 6 8 鎌倉幕府が、鎌倉にて疫病が発生し、死者が数千名を超える事態となった事を受け、災いを払う事を意図し祈祷を行う事を決定した為、以下の人間が評議を行う。
①定豪
②良信
③三浦義村
④二階堂行村
⑤国道
北条政子は、二階堂が「般若心経」と「仏頂尊勝陀羅尼」を其々万巻書写供養する事に就いて意見を求めた。此れに対し定豪は、1,000名の僧を集めて仁王経を読誦する事を提案した。又、定豪と良信は「嵯峨天皇の時代に疫病が発生し、五畿七道に多くの人々が亡くなりました。其の際、嵯峨天皇は自ら般若心経を書写し、空海を通じて供養を行いました」と先例を挙げて般若心経書写の功徳を説き、書写供養を行う事となった。
1,225 6 29 鶴岡八幡宮寺にて、鎌倉の疫病や炎暑が続く等の災厄を鎮める為の供養が1,200名の僧により執り行われる。4時に集合し、其々左右の廻廊や仮屋に着席した。先ず仁王経一巻を読み、般若心経と尊勝陀羅尼を其々10回唱えた。其れから般若心経と尊勝陀羅尼を1,000巻ずつ摺り、100巻ずつ金泥で経巻として書写した。此の経巻は、諸国の一宮毎に1巻を奉納するというものであった。其の後、供養の儀式が執り行われた。導師は定豪であった。供物として、以下を含む15種の品が用意された。
①衣類
②砂金
③布
④染物
⑤帷糸
⑥白布
⑦藍染め
⑧綿
⑨色革
⑩銭貨
更に、特別な布施として、紫の宿衣が1領加えられた。1,000名の僧には、其々以下が配られた。
①裹物1つ
②帖絹1疋
③米約54L
200名の僧には、以下が同じ様に配られた。
①衣類1重
②絹布1疋
③米約54L
此の他にも、多くの人々から以下等が奉納された。
①橘広仲
②大江佐房
1,225 7 6 北条政子が病を患う。
1,225 7 9 北条政子の病状が快方に向かう。
1,225 7 13 北条政子の病状が再び悪化する。
1,225 7 14 北条政子が逆修を始める。
1,225 7 21 北条時房が、六波羅探題南方を退任する。
1,225 7 22 朝、北条政子が一時意識不明となる。其の後間も無く息を吹き返した。
1,225 8 4 六波羅探題南方に就任する事となった北条時盛が、京都へ向けて鎌倉を出発する。
1,225 8 13 北条政子が危篤状態となり、東の御所に移される。
1,225 8 16 2時、北条政子が死去する。
1,225 8 17 4時、北条政子の死去が発表される。二階堂行盛が出家し、其の後も多くの人間が後に続いた。
1,225 8 17 20時、北条政子が勝長寿院にて火葬される。勝長寿院内に墓所が築かれたが、後に寿福寺と高野山にも分骨された。
1,225 9 18 北条政子の死去を受けて、鶴岡八幡宮寺の放生会が延期される。
1,225 9 30 北条政子の四十九日法要が執り行われる。施主は源頼家の娘竹御所、導師は定豪であった。
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