以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
垣間見える実直さとプライド。
| 年月日 | 出来事 | |||
|---|---|---|---|---|
| ≈ | 1,221 | ジャラールッディーン・アリーが死去する。 | ||
| ≈ | 1,221 | 1 | 造内裏行事所が解散する。 | |
| 1,221 | 1 | 3 | 大内裏の檜皮葺始が執り行われる。 | |
| 1,221 | 1 | 6 | 後鳥羽上皇の側近で第7代法勝寺執行尊長が、出羽国羽黒山(現在の山形県鶴岡市羽黒町手向羽黒山)総長吏に任命される。 | |
| 1,221 | 2 | 20 | 後鳥羽上皇が、城南寺で笠懸を行わせる。 | |
| 1,221 | 2 | 27 | 後鳥羽上皇が29回目の熊野参詣を行う。 | |
| 1,221 | 5 | 13 | 後鳥羽上皇が、順徳天皇を彗星の出現を理由に譲位させ、順徳天皇の第参皇子の仲恭天皇が、第85代天皇に践祚する。 | |
| ≈ | 1,221 | 5 | 14 | 後鳥羽上皇が、城南宮(現在の京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の仏事守護を口実に、諸国の兵を招集する。 |
| 1,221 | 5 | 21 |
後鳥羽上皇が、藤原秀康を通じて、流鏑馬揃えの名目で、以下の人間を含む北面武士・西面武士・近国の武士・大番役の京都の武士1,700騎を高陽院(現在の京都府京都市中京区小川通丸太町)に招集する。 ①小野盛綱 ②佐々木広綱 ③三浦胤義 |
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| 1,221 | 6 | 5 |
後鳥羽上皇が、鎌倉幕府と親しくしていた以下2名を幽閉する。 ①西園寺公経 ②西園寺実氏 しかし、公経は幽閉される直前に、伊賀光季に後鳥羽上皇の討幕計画を伝え、更に三善長衡が其れを伝え聞いた。光季と大江親広も、藤原秀康を通じて招聘されたが、光季は応じなかった。夕方、後鳥羽上皇は、以下の人間等に光季征伐を命じた。 ①藤原 ②佐々木広綱 ③三浦胤義 ④大江 ⑤佐々木高重 光季は、後鳥羽上皇の命を受けた者が攻めて来るとの情報を得た。光季は、家臣から京都を脱出する様進言されたが、此れを拒み、自身の嫡男伊賀光綱を呼び、夜の内に逃げる様申し付けた。しかし光綱は「弓矢取る身である武士が、親が討たれようとしているのに逃げたとあれば、幾ら幼いからと言っても誰も許してはくれないでしょう。親を見殺しにした臆病者と指を差されるのは恥ずべき事なので、是非お供したいと思います。鎌倉を発つ時、母上は『今度はいつお帰りですか』と尋ねられました。私は『父上のお供をして直ぐに帰って来ます』と答えました。此れが最後のお別れの言葉となりました」と言って涙した。光季は、光綱の覚悟を聞いて、共に討死する事を決め、家臣の治部次郎に命じ、光綱に武具を着けさせた。 |
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| 1,221 | 6 | 6 |
明け方、伊賀光季の京極高辻(現在の京都府京都市下京区茶磨屋町付近)の宿所を、以下の人間等が率いる800騎余が取り囲む。 ①藤原秀康 ②三浦胤義 ③大江親広 ④佐々木広綱 ⑤佐々木高重 ⑥五条有範 ⑦肥後前司有俊 ⑧糟屋有季の参男糟屋有長 ⑨間野時連 此れを見た郎党贄田三郎が、光季に「此処は全ての門を開いて、敵を有りっ丈入れた中へ殴り込み、思い切り暴れ回って最期を飾りましょう」と進言した。此れに対して三郎の弟贄田四郎は「小門のみ開ければ、其処から敵は入って来ます。雑魚は弓で狙い撃ちするとして、名の有る者だけを入れて、一騎討ちで雌雄を決するべきではないでしょうか」と反論した。光季は四郎の案を採用し、小門を開けた。先ず、黒革縅の鎧を纏い葦毛の馬に乗った、三浦胤義の家人志賀五郎が入って来た。三郎が此れを射た所、矢は馬腹に当たって馬が暴れ出し、志賀は逃げ出した。次に入って来たのは岩崎右馬允で、此れは贄田右近の矢が馬の股に命中した為退却した。3番手は岩崎弥太郎であったが、籠手を射られた為退却した。4番手は高井時義で、館の奥深くまで進入する事に成功したが、左股と右籠手を射られて退却した。光季は敵方の「正門を突破して雪崩れ込め」という言葉を聞き、力押しに破られるくらいなら、いっそ此方から開けてやれ、と治部次郎に命じた。正門を開くと、敵方が一斉に雪崩れ込んで来た。間野は光季に勝負を挑むが、館の奥から出て来た光季が矢を射掛けると、恐れをなして、馬首を返し退却した。次に三浦が進み出て「やっと穴から出て来たな、臆病者め。其方の悪運も此処迄ぞ。観念せえ」という主旨の発言をした。此れに対し光季は「何を抜かすか此の戯け。後鳥羽上皇陛下を唆して天下を奪わんとする其の野心はお見通しじゃ。者共、此の三浦さえ討てば後は雑魚ばかり。一斉に射止めよ」と発し、郎党達は三浦を目掛けて矢を射掛け、三浦の側に居た兵が次々と斃されていった。一方伊賀光綱は、元服の際、自身に烏帽子を被せてくれた高重の姿を見つけた。光綱は「高重殿なら相手に不足はありません。兼ねて烏帽子親子の契りを交わし、貴方から頂戴した矢を此の通り大切に持っております。しかし此度は、父上の最後にお供致します故、此の矢はお返しせねばなりませぬ」と、重籐弓に矢を番え、矢を射掛けた。其の矢は高重の鎧の弦走に突き刺さった。高重は「光綱よ。誠に立派になったな。行く行くは其方を婿としたかったが、今となっては其れも叶わぬ。嗚呼、此の止まらぬ涙は喜びか、悲しみか」と感激し、もう戦いにならないと引き上げて行った。周囲の者は貰い泣きした。伊賀側は奮戦するも、館は火を掛けられ、生き残った郎党は三郎と四郎だけになった。三郎は「最早此れ迄。最後のご奉公として死出の旅路を先導仕る」と、血で錆びた太刀の切先を口に含んで鍔際まで一気に押し込み自害した。昼過ぎ、四郎は「後は矢の続く限り某がお守り申す。早うご最期を」と、矢を放って防戦した。光季は、鎌倉に使者を送る手配をした上で、光綱を呼び「四郎が時間稼ぎしてくれている間に自刃致そう」と言った。光綱は「自刃とはどの様に致すものでしょうか」と尋ねた。光季は「難しい事では無い。腹を切れば良いのだ」と答えた。光綱は、腹巻の紐を切って脱ぎ置き、直垂を緩め、赤木柄の脇差を握ったが、中々覚悟が出来なかった。光季は「無理も無い。では火の中へ飛び込むと良い。腹を切るよりは怖く無かろう」と言った。光綱は「はい」と答えたものの、飛び込む事は出来なかった。光季は「よし、分かった。光綱よ、此方へ戻っておいで」と、光綱を側に座らせた。光季は「親子は前世で契り合った縁と言うが、其方程絆の深い子は又と居るまい。出来る事なら生き延びて幸せになって欲しいと願う所だが、父の供をしたいという思いを尊重したい。此れは生きてするどんな親孝行にも勝るもの。親子一緒に死出の旅路を行けるなら、此れ以上の喜びは無い」と言って、光綱と抱擁をした上で、斬首した。そして光綱の遺体を火中に投げ入れた。光季は東を向いて「南無帰命頂礼鎌倉八幡大菩薩若宮三所。此の身を擲って北条義時殿が武運長久を祈願し奉る」と、3度拝礼した。続いて西を向いて「南無西方極楽教主阿弥陀如来。生きとし生ける全ての魂を救われる貴方の願いが確かであるなら、どうか我らを迎え給え」と、3度拝礼した。其の後念仏を30回繰り返し「死出の旅路の殿は某こそが仕る。今は此れ迄」と割腹して光綱の遺体に覆い被さった。 |
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| 1,221 | 6 | 6 |
後鳥羽上皇が、藤原秀康を呼び、以下の人間等に味方に付く様説得する院宣を送る様命じる。 ①武田信光 ②小笠原長清 ③小山朝政 ④宇都宮頼綱 ⑤長沼宗政 ⑥足利義氏 ⑦北条時房 ⑧三浦義村 院宣の執筆は葉室光親が行った。葉室は以下の主旨の内容を執筆した。 「源実朝亡き後、家人達は只後鳥羽上皇の判断を仰ごうと申していた。北条義時は、征夷大将軍に誰が相応しいか考えた。そして、鎌倉には後任に相応しい者は居ないと言って、藤原頼経を次代征夷大将軍として鎌倉に送らせた。しかし藤原がまだ幼く、何も分からないのを良い事に、北条は野心を持ち、権威を持とうとした。此れを如何して許せようか。よって今後は北条の執権職を停止し、後鳥羽上皇の沙汰を待つべし。もし此の決定を受け入れず、尚反逆を企てるならば、早く其の命を落とすが良い。此の命に従うのならば、褒美を取らそう。此の命を知らしめよ」 後鳥羽上皇は、北条氏と三浦氏の実権争いを予てから把握しており、三浦胤義から「後鳥羽上皇が北条義時に変わって義村殿に関東を治めろと言えば、北条氏を倒してくれるでしょう」という主旨の発言を聞いて、自らが院宣を下せば、御家人達を味方に付ける事が出来ると考えていた。 |
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| 1,221 | 6 | 6 | 20時、伊賀光季の使者が鎌倉へ向けて京都を出発する。 | |
| 1,221 | 6 | 6 | 20時、三浦胤義の使者が、胤義が三浦義村に向けて書いた決起を促す主旨の書簡を携え、鎌倉へ向けて京都を出発する。 | |
| 1,221 | 6 | 7 |
4時、藤原秀康の従者押松丸が、後鳥羽上皇の以下7名に宛てた院宣7通と伊賀光季の死を伝える密書を携え、鎌倉へ向けて京都を出発する。 ①足利義氏 ②武田信光 ③小笠原長清 ④三浦義村 ⑤横田頼業 ⑥八田知尚 ⑦笠井氏 |
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| 1,221 | 6 | 7 | 4時、西園寺公経の家司三善長衡の使者が、鎌倉へ向けて京都を出発する。 | |
| 1,221 | 6 | 7 | 一条頼氏が京都を出発する。 | |
| 1,221 | 6 | 10 | 14時、三善長衡の使者が鎌倉に到着する。 | |
| 1,221 | 6 | 10 | 17時、押松丸が鎌倉に到着する。しかし其の後、三浦義村によって探し出されて、葛西谷(現在の神奈川県鎌倉市小町)で捕えられ、院宣や上申文書を取り上げられた。 | |
| 1,221 | 6 | 10 | 日没頃、三浦胤義の使者が鎌倉に到着する。其の後三浦義村に胤義からの書簡を手渡したが、義村は其の書簡に返事をせず、北条義時に其の書簡を見せ、通報した。 | |
| 1,221 | 6 | 10 |
安達景盛が、二階堂大路仮御所の庭中に集まった御家人達に、北条政子の以下の言葉を代読する。 「皆心を1つにして聞きなさい。此れは私の最期の言葉です。源頼朝殿が朝敵を滅ぼし、関東に武士の政権を創って以降、貴方方の地位は上がり、土地も随分増えました。平家に仕えていた時には裸足で京都まで行っていた貴方方も、京都へ行って無理に働かされる事も無くなり、幸福な生活を送れる様になりました。其れも此れも全ては源殿のお陰です。其の恩は山よりも高く、海よりも深い。其の恩に報いる志が浅くありませんか。其処に今、不忠の悪臣等の讒言により、道義に反した綸旨が出されました。名を惜しむ者は、藤原秀康・三浦胤義等を討ち取り、3代に渡る将軍の遺跡を守るべきです。もし此の中に朝廷側に付こうという者が居るなら、先ず私を殺し、鎌倉中を焼き尽くしてから京都へ行きなさい」 此れを聞いた御家人達は咽び泣いた。そして一枚岩となり、朝廷と対峙する事となった。 |
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| 1,221 | 6 | 10 |
以下の人間等が軍議を行う。 ①北条義時 ②北条泰時 ③北条時房 ④大江広元 ⑤三浦義村 ⑥安達景盛 当初は箱根山・足柄峠に関を築いての迎撃が有力であったが、大江は、関を築いて守備するには時間を要し、逡巡して鎌倉幕府軍の団結が崩れる恐れが有るとの理由から、即時出撃を推した。義時から問われた北条政子は大江の案に賛成し「上洛しなければ朝廷軍を破る事は出来ない。安保実光を始めとする武蔵国の軍勢を待って速やかに上洛せよ」と命じた。最終的に義時は、武蔵国の軍勢が到着次第出撃する様命じた。 |
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| 1,221 | 6 | 11 | 0時、伊賀光季の使者が鎌倉に到着する。 | |
| 1,221 | 6 | 11 | 鎌倉幕府が定豪に対し、世上無為の祈祷を始める様依頼する。 | |
| 1,221 | 6 | 12 |
一条頼氏が鎌倉に到着する。そして真っ先に北条政子の屋敷へ向かい、政子に「一条信能等、一族の多くが後鳥羽上皇に付きました。しかし私は、旧好を忘れず、1人斯うして馳せ参じたのです」と言った。政子は此の発言に感激した。更に一条は、政子に以下を報告した。 ①西暦1,221年5月31日以前から京都では不穏な空気が流れ、人々は其れに恐れ慄いていた。 ②西暦1,221年6月5日、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府と親しくしていた西園寺公経・西園寺実氏を幽閉した。 ③西暦1,221年6月6日、後鳥羽上皇が1,700騎を招集し、高陽院の門を警備させた。 ④西暦1,221年6月6日、伊賀光季の屋敷が後鳥羽上皇軍により襲撃され、伊賀は自害し、屋敷には火が放たれ、南風が激しく吹いて、火が燃え広がった。 此れにより、鎌倉幕府は即時出撃に対する慎重論が盛り返した。しかし大江広元は「武蔵国の軍勢を待つのは上策では無い。北条泰時が1人でも出発すれば、他の者が付いて来るでしょう」と述べた。政子は、病床に伏していた三善康信に意見を求めたが、三善も大江と同意見であった。此れにより、泰時が先陣を切る事が決定された。 |
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| 1,221 | 6 | 12 |
北条泰時が、先発隊として以下の18騎で京都へ向けて鎌倉を出発する。 ①泰時 ②北条泰時の嫡男北条時氏 ③北条義時の四男で母が側室の伊佐朝政の娘である北条有時 ④北条義時の六男北条実泰 ⑤尾藤景綱 ⑥関実忠 ⑦関の弟平盛綱 ⑧南条時員 ⑨安東光成 ⑩伊具盛重 ⑪武村次郎 ⑫佐久間家盛 ⑬葛山広重 ⑭勅使河原則直 ⑮横溝資重 ⑯安藤左近将監 ⑰塩河中務丞 ⑱内島忠俊 しかし、仲恭天皇が自ら出陣して来た時は如何すれば良いか北条義時に尋ねる為引き返した。義時は「善くぞ尋ねた。其の時は弓を折って降参しろ。そうで無ければ1,000人が1人になっても戦え」と答えた。 |
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| 1,221 | 6 | 16 |
以下の三手に分かれた鎌倉幕府軍が、其々京都へ向けて鎌倉を出発する。大将軍は以下の人間であった。 ①東海道軍 ❶北条泰時(総大将) ❷北条時房 ❸北条時氏 ❹足利義氏 ❺三浦義村 ❻千葉胤綱 ②東山道軍 ❶武田信光 ❷小笠原長清 ❸小山朝政の嫡男小山朝長 ❹結城朝光 ③北陸道軍 ❶北条朝時 ❷結城朝広 ❸加地信実 |
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| 1,221 | 6 | 17 |
関東で初めて、百座の仁王講が執り行われる。導師は重慶、読師は隆修が務めた。又、以下の寺院等の僧100名が参列した。 ①鶴岡八幡宮寺 ②勝長寿院 ③永福寺 ④大慈寺 |
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| 1,221 | 6 | 20 | 加地信実率いる北陸道軍が、菅谷寺(現在の新潟県新発田市)を拠点に挙兵し、越後国加地荘願文山城(現在の新潟県新発田市金山)に60名余で籠城していた藤原信成の家人酒匂家賢率いる朝廷軍を破る。 | |
| 1,221 | 6 | 21 | 明け方、親不知(現在の新潟県糸魚川市)から越後国蒲原(現在の新潟県新潟市の大部分、三条市・新発田市・加茂市・五泉市・阿賀野市・胎内市・北蒲原郡聖籠町・西蒲原郡弥彦村・南蒲原郡田上町・東蒲原郡阿賀町の全域、燕市の大部分、長岡市・見附市の一部)へと進軍していた西面武士宮崎定範と、信濃国市河刑部が交戦する。午後に宮崎達は、宮崎城(現在の富山県下新川郡朝日町)から撤退するが、仁科盛遠率いる300名の軍勢は抵抗した。 | |
| 1,221 | 6 | 23 | 鎌倉幕府軍が遠江国府(現在の静岡県磐田市見付付近)に到着したという知らせが京都に届く。 | |
| 1,221 | 6 | 24 |
朝、朝廷が公卿僉議を開き、以下の場所に12,000騎の派遣を決定する。直様出発した。大将軍は以下の通り。 ①大井戸渡(現在の岐阜県可児市土田):大内惟信(2,000騎) ②鵜沼渡(現在の岐阜県各務原市鵜沼南町):斎藤親頼・神土蔵人(1,000騎) ③板橋(現在の岐阜県各務原市鵜沼朝日町付近):朝日頼清(1,000騎) ④池瀬渡(現在の岐阜県各務原市前渡東町付近):土岐光行・土岐光行の息子土岐国衡(1,000騎) ⑤摩免戸(現在の岐阜県各務原市前渡西町):藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱・佐々木髙重・小野盛綱・惟宗孝親(10,000騎) ⑥稗島(現在の岐阜県各務原市下中屋町付近):小野成時・矢野治郎右衛門(500騎) ⑦印食渡(現在の岐阜県羽島郡岐南町下印食):山田左衛門尉(500騎) ⑧墨俣(現在の岐阜県大垣市):藤原秀澄・山田重忠(1,000騎) ⑨市脇(現在の岐阜県羽島市下中町市之枝):加藤光定(500騎) 更に北陸道へも7,000騎を差し向けた。重忠は、少ない兵力を分散させるのは愚策であるとして、兵を1つに纏め、此方から木曽川を渡って尾張国へ攻め込み、遠江国で北条時房・北条泰時を討ち取って、鎌倉に進軍し北条義時を討って、更に北上して北条朝時を討つ、という作戦を進言した。しかし秀澄は、東山道軍・北陸道軍に挟み撃ちにされる恐れがあると反対し、却下した。 |
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| 1,221 | 6 | 26 |
8時、東海道軍が100,000騎余で尾張国に入る。そして、真清田神社(現在の愛知県一宮市)で軍議を行なった。結果、以下の五手に分かれて進軍する事が決定された。 ①鵜沼渡:毛利季光 ②板橋(現在の岐阜県各務原市):狩野宗茂 ③気瀬(現在の岐阜県各務原市):足利義氏 ④摩免戸:北条泰時・三浦義村 ⑤墨俣:北条時房・安達景盛 |
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| 1,221 | 6 | 26 |
夜、以下3名率いる東山道軍50,000騎が大井戸渡から木曽川を渡る。 ①小笠原長清 ②武田信光 ③小山朝長 東山道軍が大井戸渡に布陣した時、武田は小笠原に「鎌倉幕府軍が勝てば鎌倉幕府に付き、朝廷軍が勝てば朝廷に付こう、此れは武士の習いだ」と話していた。対する朝廷軍は、以下4名等が迎撃した。 ①大内惟信 ②大内惟信の息子大内惟忠 ③高桑大将軍 ④高桑大将軍の弐男高桑次郎 しかし多勢に無勢で、惟忠が討たれると惟信は逃亡し、五条有永・糟屋久季は負傷した。阿井渡(現在の岐阜県美濃加茂市川合町)を守備していた蜂屋入道は負傷して自害、入道の息子鉢屋三郎も討たれた。藤原秀康・三浦胤義・佐々木広綱を始めとする朝廷軍は、防戦するも次第に後退し京都に逃走した。武田は、後を追う様に矛先を木曽川の下流へと向け、東山道軍は鵜沼渡へと進軍した。鵜沼渡を守備していた神地頼経は投降した。神地は家来から投降を進言されていた。朝廷軍が次々と退却する中、渡辺党の渡辺翔は「我は翔」と叫びながら、鎌倉幕府軍の兵を次々と討ち取った。しかし、最終的には撤退を余儀無くされた。 |
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| 1,221 | 6 | 27 |
明け方、以下2名率いる軍が、木曽川の摩免戸を渡る。 ①北条有時 ②北条時氏 主に以下の人間が従軍していた。 ①大江親広の嫡男大江佐房 ②阿曽沼親綱 ③橘公業 ④波多野経朝 ⑤三善康知 ⑥安保実光 しかし、藤原秀康を大将軍とする朝廷軍は応戦せず、次々に退却した。しかし以下2名は残り、鎌倉幕府軍を足止めする為に応戦した。 ①山田重忠 ②鏡久綱 鏡は自身の名を書いた旗を立てて戦い善戦したものの、敗北を悟ると「臆病者の藤原に付き従った為、思う様に戦えなかった。後悔している」と言い捨て、佐房の軍勢に敗れた後に自刃した。佐房は旗を見て悲涙を拭った。山田は、300名の兵を率いて株河(現在の岐阜県養老郡養老町大野付近)に布陣し、児玉党3,000騎を迎撃し、瞬く間に100騎を討ち取った。しかし兵力差は大きく、最終的に山田も退却した。時氏が席田(現在の岐阜県本巣市上保・郡府・北野・春近・石原・三橋・仏生寺付近)に到着すると、盾を背にした朝廷軍が数回矢を射た。時氏は三善・中山重継等に命じて矢を射返させた。鎌倉幕府軍に従軍し、先陣を進んでいた波多野忠綱の息子波多野義重は、矢が右目に当たり、意識が朦朧としたものの、矢を射返した。朝廷軍は逃亡し、以下の要害は鎌倉幕府軍の手に落ちた。 ①株河(現在の岐阜県養老郡養老町大野付近) ②墨俣 ③市脇 そして、北条泰時・三浦義村率いる軍が摩免戸に到着したが、朝廷軍は応戦せず、三浦胤義は陣を放棄して京都へ逃走し、義村と胤義の兄弟対決は実現しなかった。 |
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| 1,221 | 6 | 28 |
東海道軍が以下2ヶ所に布陣し軍議を行う。 ①野上宿(現在の岐阜県不破郡関ケ原町) ②垂井宿(現在の岐阜県不破郡) 三浦義村は「勝ちに乗じ、北陸道軍が上洛する前に、我が軍を京都の東へ進軍させるのは如何でしょう」という主旨の発言をし、以下の大将軍の分担を提案した。 ①勢多(現在の滋賀県大津市瀬田):北条時房 ②手上(現在の滋賀県大津市黒津付近):安達景盛・武田信光 ③宇治川:北条泰時 ④芋洗(現在の京都府久世郡久御山町東一口付近):毛利季光 ⑤淀の渡し(現在の京都府京都市伏見区納所町):結城朝光・義村 泰時は了承し、他の者も異存は出なかった。義村の弐男三浦泰村は本来は義村に付くべきであるが、元服する際の烏帽子親で、且つ泰時から一字取って自身の名が命名された事から、泰時に付く事を所望し、泰時の軍に加わった。 |
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| 1,221 | 6 | 29 |
4時、負傷した以下2名が後鳥羽上皇に、2日前に摩免戸にて朝廷軍が敗北した事を報告する。 ①藤原秀康 ②五条有長 仙洞御所は騒動となり、以下の人間が東西に走り乱れた。 ①女房 ②上下の北面武士 ③医師 ④陰陽師 坊門忠信・源定道・源有雅・藤原範茂等の公卿達は、以下の防護へ向かった。 ①勢多 ②宇治川 ③田原(現在の京都府綴喜郡宇治田原町) |
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| 1,221 | 6 | 29 |
北陸道軍が越後国の以下3名等を率いて進軍していた所、越中国般若野荘(現在の富山県砺波市)にて宣旨を受け取る。 ①小国頼綱 ②金津資義 ③小野時信 加地信実の弐男加地実秀が立った儘「北条義時を誅殺せよ」と読み上げた。北陸道軍の中には信実も居た。 |
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| 1,221 | 6 | 29 |
後鳥羽上皇が以下の人間と共に比叡山に御幸する。 ①土御門上皇 ②順徳上皇 ③雅成親王 ④頼仁親王 ⑤女院 ⑥女房 女院・女房は牛車に乗り、他の者は騎馬であった。後鳥羽上皇は直衣・腹巻・日照り笠、土御門上皇・順徳上皇は布衣、雅成親王・頼仁親王は直垂を其々着用した。道中、尊長の押小路河原(現在の京都府京都市中京区の鴨川沿い)の屋敷にて防戦策を評議した。夕方、以下の人間が加わり、一行は比叡山へ向かった。 ①仲恭天皇 ②尊長 ③久我通光 ④二条定輔 ⑤藤原親兼 ⑥藤原信成 仲恭天皇は女房輿で向かい、尊長・久我・二条・親兼・信成は甲冑を身に纏った。そして、後鳥羽上皇は延暦寺の僧兵に援軍を要請した。其の後以下2名は梶井御所(現在の京都府京都市左京区の一乗寺・修学院地域)に宿泊した。 ①後鳥羽上皇 ②仲恭天皇 又以下2名は、日吉大社(現在の滋賀県大津市坂本)の東本宮境内(十禅師)に宿泊した。 ①雅成親王 ②頼仁親王 |
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| 1,221 | 6 | 29 |
第22代上賀茂神社神主賀茂能久が、院宣と称し、社司・氏人に対して「朝廷軍に与しない者は、社司は解官、氏人に処す」と恫喝する。賀茂の旗には「賀茂太明神・片岡・貴布祢」と書かれていた。又下社では、祢宜祐綱が鎧に身に纏い、以下の3社を巡回し、軍旗を整えて出陣した。 ①賀茂御祖神社(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町) ②賀茂御祖神社の摂社河合神社(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町) ③出雲井於神社(現在の京都府京都市左京区下鴨泉川町) |
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| 1,221 | 6 | 29 |
20時、北条義時の屋敷の釜殿に雷が落ち、人夫1名が死亡する。北条は、此れは自分に対する天罰ではないかと恐れ慄いた。しかし大江広元は、西暦1,189年の源頼朝による奥州征伐の際、陣中に雷が落ちたという先例を挙げ、北条を励ました。又、以下の陰陽師達に占わせたが、最吉であるとの結果が出て安堵した。 ①安倍親職 ②安倍泰貞 ③安倍宣賢 |
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| 1,221 | 6 | 30 | 延暦寺の僧兵が、東国の武士には太刀打ち出来ないとして、後鳥羽上皇の要請を拒否する。 | |
| 1,221 | 6 | 30 |
以下の人間等が、加賀国の林次郎・石黒英光等を率いて、志雄山(現在の石川県羽咋郡宝達志水町・かほく市・河北郡津幡町、富山県氷見市・高岡市の宝達山)にて、北陸道軍と戦闘となる。 ①宮崎定範 ②糟屋有長 ③糟屋有久 ④仁科盛朝 ⑤仁科盛遠 ⑥友野遠久 結果、宮崎・有長・有久は討ち取られ、朝廷軍は壊滅し、林・石黒は降伏した。盛遠は落ち延びるも、勢多にて死去した。結城朝広は此の戦闘で武功を挙げた。 |
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| 1,221 | 7 | 3 | 東海道軍が酒宴を行なっている最中、幸島行時が、北条泰時の為なら死をも厭わないとし、東海道軍に加わる。北条は幸島を上座に招いて盃を与えた。周囲の者は此れに感銘を受け、勇気を奮い起こした。 | |
| 1,221 | 7 | 3 | 東海道軍が野路宿(現在の滋賀県草津市)に入る。 | |
| 1,221 | 7 | 4 |
土砂降りの雨の中、北条時房率いる軍が瀬多に進軍する。既に、瀬多川に架かっていた大橋の中央付近の3.6m程度が引き剥がされ、其処に盾が並べられ、鏃を構え、弓を引ける体制を整えた、以下2名や山僧で構成された3,000騎余の朝廷軍が待ち構えていた。 ①山田重忠 ②亀屋盛成 しかし雨により、瀬多川は濁流と化しており、橋を渡る他無かった。朝廷軍の矢により、多くの鎌倉幕府兵が仕留められた。橋桁を登ろうとする者も居たが、橋桁の上にも大太刀・薙刀を持った山僧達が待ち構えており、直ぐに斬り伏せられていった。其れでも何とか熊谷直国が橋を渡ったが、山田の郎党荒左近に討ち取られた。一方以下2名は瀬多川に飛び込んで渡河を試みたが、鎧を脱ぎ捨てて逃げざるを得ない程の激流であった。 ①吉見頼綱 ②頼綱の息子吉見為頼 此の様子を見ていた横田頼業は、橋から約110m川上に布陣し、遠矢を射掛けた。驚いた山田は退却した。更に三保ヶ崎(現在の滋賀県大津市浜大津)から船で駆け付けた美濃堅者観厳にも矢を射掛け、法師2名を仕留め、驚いた観厳は退却した。 |
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| 1,221 | 7 | 4 |
土砂降りの雨の中、北条泰時率いる軍が、宇治川に進軍する。朝廷軍は矢の雨を降らせ、迎撃した。北条は一旦兵を引き、18時、栗隈(現在の京都府城陽市周辺)に布陣した。北条は翌日出撃するつもりであった。しかし北条は、以下3名等が、北条の許可無く宇治橋(現在の京都府宇治市宇治)周辺で20,000名余の朝廷軍を襲撃し、矢で反撃され、多くの負傷者を出し退却して平等院(現在の京都府宇治市宇治蓮華)に立て籠っているという報告を受けた。 ①足利義氏 ②三浦義村 ③三浦泰村 北条は直様宇治橋に駆け付けた。宇治橋は、奈良法師土護覚心・円音が、橋桁の上で大薙刀を振るい、鎌倉幕府軍を塞いでいる所であった。北条は即座に戦闘を止め平等院に退却する様命じた。 |
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| 1,221 | 7 | 5 |
前日の戦闘で宇治橋での戦いは不利と考えた北条泰時が、水練を得意とした芝田兼義に宇治川の渡河を命じる。雨は止み、晴れ間が広がっていた。しかし、前日からの雨で増水し、川の流れは一段と速くなっていた。芝田は、現地の翁に浅瀬の場所を聞き出し、口封じの為其の翁を殺害した。芝田は、裸になって刀を咥えて、宇治川の中洲の真木島(現在の京都府宇治市槇島町)まで泳ぎ、朝廷軍が居る事を確認して、浅瀬の場所を北条に知らせた。周囲の以下の諸将達は、芝田に浅瀬の場所を尋ねるが、芝田は答えなかった。 ①佐々木信綱 ②水練を得意とした春日貞幸 ③中山重継 ④安東忠家 芝田は先陣を切って、宇治川を渡り始めた。佐々木・春日・中山・安東等も負けじと追随した。急流の宇治川を渡るのは難儀であった。そんな中、芝田と春日の馬に朝廷軍の矢が命中し、馬が水中を漂い、春日は溺れた。春日は、建御名方神に祈念し、沈むのを防ぐ為に、腰刀で甲冑の上帯・小具足を切り、何とか浅瀬に浮かび上がった。北条も馬で宇治川を渡ろうとした。しかし、北条の身を案じた春日が「甲冑を付けている者が溺れている様ですよ」と言い、其の隙に北条の馬を隠した。其の後北条は、民家を壊して作られた筏に乗って宇治川の渡河に成功した。此れ以降鎌倉幕府軍の猛攻が始まり、朝廷軍は255名の死者を出し敗走した。しかし、激流に飲まれ溺死した者や渡河を試みている最中に朝廷軍の弓矢で討たれた者が発生し、鎌倉幕府軍は96名の死者を出し、144名が負傷した。 |
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| 1,221 | 7 | 5 |
北条時房率いる軍が瀬多川を攻略する。以下の人間等は敗走した。 ①大江親広 ②藤原秀康 ③佐々木盛綱 ④三浦胤義 |
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| 1,221 | 7 | 6 |
4時、宇治川・勢多で敗れた以下3名等が仙洞御所を訪れ、後鳥羽上皇へ「戦いは敗北に終わりました。開門して下さい。此処で敵を迎え撃ち、力の限り戦う様をお見せして討死したいと思います」という主旨の報告を行う。 ①三浦胤義 ②山田重忠 ③渡辺翔 此れに対し後鳥羽上皇は「お前達が此処に立て籠ったら私が攻撃されるではないか。早々に立ち去れ」と返答し、開門しなかった。三浦は「本来は此処で自害すべき所だが、兄上の三浦義村殿が淀に陣を張っている。戦って誰かに討ち取られるのなら、兄上の手に掛かって、最後に一言言ってやる」と言い、三浦・山田・渡辺達は東寺に籠り、鎌倉幕府軍を待った。 |
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| 1,221 | 7 | 6 |
三浦義村率いる軍が東寺に入り、以下3名率いる30騎が迎え撃つ。 ①三浦胤義 ②山田重忠 ③渡辺翔 最初に名乗りを上げたのは渡辺であった。奮戦したものの10騎余りを討ち取られ、他の者も逃亡した為、渡辺も退却し、大江山(現在の京都府与謝郡与謝野町・福知山市・宮津市)へと向かった。山田重忠は15騎を討ち取り戦果を挙げたが、味方に多数の負傷者が出た事から般若寺(現在の京都府京都市右京区嵯峨樒原高見町)へ落ち延び、其処で自害した。胤義は、義村を見つけると、襲い掛かった。そして義村に対し「本来なら、鎌倉幕府に仕えて世渡りする筈だったが、兄上を恨み、悔しさの余り京都へ上り、後鳥羽上皇に仕えて謀反を起こした。味方になってくれると思い書簡を差し上げたのに、叔父である和田義盛殿を裏切った兄上を頼りにしたのは間違いであった」と言い捨てた。義村は「愚か者の相手をするのは無意味だ」と相手にせず退いた。最終的に胤義は何人か敵を討ち取ったが、最早此れ迄と、幼子に一目会おうと太秦へ向かうが、鎌倉幕府軍に包囲され、8時、以下2名の息子と共に木嶋(現在の京都府京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋坐天照御魂神社)にて自害した。 ①胤義の嫡男三浦胤連 ②胤義の弐男三浦兼義 胤義の郎従は、胤義の首級を太秦の屋敷に持ち帰ろうとしたが、義村が其の首級を奪い泰時の下へ持参した。同じく8時、後鳥羽上皇の勅使が泰時・義村の下へやって来て、以下を伝えた。 ①今回の合戦は後鳥羽上皇の意思では無く、謀臣が行ったものである ②北条泰時追討の宣旨の撤回 ③京都での略奪禁止 ④全て鎌倉幕府の申請通りに聖断を下す 後鳥羽上皇は、①を主張する事で、皇室の存続を図ろうとした。10時、北条泰時・北条時房率いる軍が其々六波羅に入る。以下3名は逃亡した。 ①藤原秀康 ②小野盛綱 ③尊長 夕方、朝廷軍の宿舎に火が放たれた。京都の民衆は其れを不安そうに見つめ、又胤義の死を惜しんだ。鎌倉幕府軍は、残存兵を探し出し、首を刎ね、馬も殺害した。そして歩くのが困難になる程、死体が市中に散乱した。 |
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| 1,221 | 7 | 7 |
以下2名が、朝廷監視・京都守護の為六波羅の屋敷に入る。 ①北条泰時 ②北条時房 泰時は、鎌倉幕府への戦勝報告の飛脚を鎌倉に遣わせた。其の際、以下4点の問い合わせを言付けた。 ①後鳥羽上皇・仲恭天皇には誰を仕えさせるか ②後鳥羽上皇をどの様にお迎えするか ③御所をどの様な場所に移転すべきか ④公卿・殿上人をどの様に取り計らうべきか |
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| 1,221 | 7 | 7 | 鷲尾(現在の京都府京都市東山区)に佐々木経高が居る事を聞き付けた北条泰時が、佐々木の下に使者を遣わせ「決して命を捨ててはならぬ。鎌倉幕府に申して宥免される様手配しよう」と、降伏を勧める。佐々木は合戦中、仙洞御所にて合戦の策を巡らせていた。佐々木は北条から自害を勧められたものと解釈し、刀を取り、自らの肉や手足を切り裂いた。佐々木は絶命の前に輿で六波羅へ向かい、北条と対面した。北条は、無惨な佐々木の姿を見て「何故言う事を聞かず自害したのか」と悲しみの言葉を漏らし、佐々木の自害が本意では無い事を述べた。此れを聞いた佐々木は両目を見開き、声にならぬ叫びを発して絶命した。 | |
| 1,221 | 7 | 8 | 北陸道軍が京都に入る。 | |
| 1,221 | 7 | 9 |
此の日迄に鎌倉幕府軍は、戦功の有った者や死傷者を文書として纏める。調査は以下の人間が担った。 ①後藤基綱 ②関実忠 ③金持兵衛尉 以下が名簿として記された。 ①戦功の有った者255名 特に討ち取った首級の数が際立っていたのは以下であった。 ❶山城左衛門尉16名 ❷第2代島津氏当主島津忠時7名 ②負傷者132名 ③溺死者96名 其の後、中太弥三郎が其の文書を鎌倉に届けた。 |
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| 1,221 | 7 | 10 | 朝廷が鎌倉幕府軍に対し、藤原秀康等の追討を命じる宣旨を畿内諸国に下す。 | |
| 1,221 | 7 | 10 | 後鳥羽上皇が、高陽院から四辻殿に移送される。 | |
| 1,221 | 7 | 10 |
錦織義継が六波羅に現れ、北条泰時の居所に討ち入る。以下3名等が取り押さえようとしたが、錦織は屈服しなかった。 ①戸矢子有綱の長男佐野基綱 ②戸矢子の弐男園部行綱 ③戸矢子の参男佐野高綱 其処に此の3名の郎従が加わり、錦織は捕縛され、基綱等によって手足を斬られ殺害された。 |
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| 1,221 | 7 | 11 |
貴船(現在の京都府京都市左京区)付近で以下の人間等10名余が捕縛され、斬首・梟首される。 ①神地蔵人 ②頼経入道 又同日、多田基綱も斬首・梟首された。 |
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| 1,221 | 7 | 14 | 2時、鎌倉に戦勝報告が届けられる。北条義時は、平定に至る迄の戦闘の経緯の書かれた書簡を読み「思う事は何も無い。私の果報は王の果報に勝っていたのだ。前世での善行が1つ足りなかった為に武士という低い身分に生まれたに過ぎなかったのだ」と語った。そして北条と大江広元は、西暦1,185年の処置を勘案して、後鳥羽上皇の隠岐国への配流を含む朝廷への処罰を決定した。但し、大江親広は、広元の嘆願により赦免された。広元は、後鳥羽上皇を始めとする、処罰を纏めた書簡を作成した。北条は、後鳥羽上皇の配流先を慎重に検討し、出雲国・隠岐国守護佐々木義清が、隠岐国の有力豪族の村上氏に任せてはどうかと進言した事もあり、隠岐国に決定した。村上氏は、海上貿易を通じて蓄財していた実力者であった。 | |
| 1,221 | 7 | 15 |
乱を起こした張本の以下4名の身柄が六波羅に引き渡される。 ①葉室光親(武田信光の預かり) ②葉室宗行(小山朝長の預かり) ③源有雅(小笠原長清の預かり) ④藤原範茂(北条朝時の預かり) |
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| 1,221 | 7 | 15 | 安東光成が、前日に大江広元が作成した書簡を携え、京都へ向けて出発する。 | |
| 1,221 | 7 | 16 |
乱を起こした張本の以下4名の身柄が六波羅に引き渡される。 ①坊門忠信(千葉胤綱の預かり) ②一条信能(遠山景朝の預かり) ③長賢(結城朝光の預かり) ④観厳(結城朝光の預かり) 又同日、以下2名等が斬首・梟首された。 ①第21代熊野別当湛増の孫田辺法師快実 ②天野四郎左衛門尉 |
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| 1,221 | 7 | 19 | 北条泰時が、伊予国の河野通信を、東国の武士を引き連れ合戦を行った為、乱を起こした張本であるとし、河野に与しなかった伊予国の武士に河野征伐を命じる。 | |
| 1,221 | 7 | 20 |
安東光成が鎌倉から京都に到着し、西暦1,221年7月7日に北条泰時が手配した4点の問い合わせに対する鎌倉幕府からの返答を六波羅に居た北条泰時等に届ける。以下の主旨の内容であった。 ①後鳥羽上皇を隠岐国への流罪とする。 ②仲恭天皇を廃位とし、後堀河天皇を践祚させる。 ③雅成親王・頼仁親王を流罪とするが、配流先は北条に任せる。 ④公卿・殿上人は坂東(関八州(相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国))に下し、其れ以下の者は斬首とする。 其の後、以下の人間等が評議を行った。 ①北条時房 ②泰時 ③三浦義村 ④毛利季光 結果、鎌倉幕府軍は此れ等を速やかに執行した。 |
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| 1,221 | 7 | 21 | 仲恭天皇が、捕縛した公卿達に対する断罪を宣下する。 | |
| 1,221 | 7 | 21 | 北条泰時が、速やかに公卿達を関東に連行する様、預かり人に命じる。 | |
| ≈ | 1,221 | 7 |
平清盛の屋敷を拠点とし、六波羅探題(京都府京都市東山区門脇町周辺)が設置される。以下が就任した。 ①北条泰時(初代六波羅探題北方) ②北条時房(初代六波羅探題南方) |
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| 1,221 | 7 | 22 |
後藤基綱によって以下4名が斬首・梟首される。 ①後藤基清 ②五条有範 ③佐々木広綱 ④大江能範 |
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| 1,221 | 7 | 25 | 小雨の降る中、一条信能を鎌倉へ護送していた岩村城主遠山景朝が、道中美濃国遠山荘岩村(現在の岐阜県恵那市岩村町)の相原にて一条を斬首する。村人は此れを哀れみ、処刑地に小祠を建てて弔い「若宮社(現在の厳邨神社)」と称して其の後も供養を続けた。 | |
| 1,221 | 7 | 26 |
後鳥羽上皇が、四辻殿から鳥羽殿に移送される。其の際以下の人間等が牛車の後ろから騎馬で付き従った。 ①西園寺実氏 ②藤原信成 ③藤原能茂 |
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| 1,221 | 7 | 28 | 鎌倉幕府が、高倉天皇の第弐皇子守貞親王に政務を担わせる。そして、後鳥羽上皇の所有する荘園を守貞親王に献上した。更に、守貞親王の、出家をしていない第参皇子後堀河天皇を次期天皇として立て、近衛家実が、摂政の詔を受けた。 | |
| 1,221 | 7 | 28 | 後鳥羽上皇が出家する。戒師は後鳥羽上皇の第参皇子道助入道親王が務め、似絵の名手藤原信実が御影を描いた。警護の武士を説得して御幸した後鳥羽上皇の母藤原殖子は後鳥羽上皇に会い、悲涙を堪えて帰った。髻は藤原の下に送られた。此れを見た藤原は、声を惜しまず涙した。 | |
| 1,221 | 7 | 29 | 鎌倉幕府が、仲恭天皇を廃位とし、後鳥羽上皇の系統では無い後堀河天皇を、高陽院にて第86代天皇として践祚させる。此の日仲恭上皇は、九条院に行幸した。 | |
| 1,221 | 7 | 30 | 北条時氏が鳥羽殿に参上する。時氏は武装した儘正殿に上がり、弓の上の部分で御簾を上げて後鳥羽上皇に対し「上皇様は流罪となりましたよ。さあさあ出て来て下さいませ」と言って覗き込んだ。後鳥羽上皇は無視した。時氏は「どうしたんですか?まさか謀反の輩を匿っているのですか?さあさあ出て来て下さいませ」と続けた。後鳥羽上皇は、此の時の時氏の声が地獄の使者の様な、責める様な声色だと感じた。後鳥羽上皇は「何故私が謀反の輩を匿うのか。そんな事をする筈が無いだろう。唯京都から出たら子供達と離れ離れになってしまうのが悲しいのだ。特に藤原能茂は幼い頃から目を掛けていた子だ。もう一度会わせてくれ」という主旨の発言をした。此れを受けて時氏は、泣きながら「後鳥羽上皇と藤原能茂は、前世から約束し合った仲です。後鳥羽上皇は今迄色々な命令を下してきましたが、今は『能茂と会わせてくれ』としか命じません。どうか会わせてやって下さい」という主旨の書簡を作成し、北条泰時に訴えた。泰時は、藤原を出家させた上で、後鳥羽上皇と会わせた。 | |
| 1,221 | 7 | 31 | 後鳥羽上皇に付いた者達の所領が、北条時房以下の鎌倉幕府軍の恩賞として宛てがわれる。 | |
| 1,221 | 7 | 31 | 出家して仁和寺に住み、後鳥羽上皇の第弐皇子で第8世仁和寺門跡の道助入道親王に育てられていた佐々木広綱の四男勢多伽丸が、佐々木の謀反の連座として捕らえられ、仁和寺から六波羅に召し出される。勢多伽丸の母や道助入道親王は「佐々木広綱の重罪に就いては何も言う事は出来ないが、勢多伽丸は門弟として久しく親しんでいたので特に哀れである。10歳余の孤児で頼りも無いので、どの様な悪行が出来ようか。身柄を預け置かれたい」と、必死に助命嘆願を繰り返した。北条泰時は、道助入道親王の付き添いの芝築地上座真昭と会い「厳命を重んじて、暫く猶予する、容貌の華麗な様子は、母の憂いと共に憐れみに堪えない」と言い、勢多伽丸を連れて仁和寺に帰る事を許可した。しかし其処に、宇治川で戦功を挙げた佐々木信綱が、自らの武功を取り消してでも勢多伽丸を処刑して欲しい、勢多伽丸を助命するなら自ら自害する、と強く主張した。信綱は北条義時の娘婿であり、鎌倉幕府にとって枢要な人間であった事から、断腸の思いで勢多伽丸を呼び出し、身柄を信綱に与えた。勢多伽丸は斬首・梟首された。 | |
| 1,221 | 8 | 1 | 葉室光親が、武田信光によって護送されている途上、駿河国車返(現在の静岡県沼津市三芳町の蓮光寺付近)の辺りで受けた幕命により、駿河国加古坂(現在の山梨県南都留郡山中湖村の籠坂峠)にて斬首される。 | |
| 1,221 | 8 | 2 |
以下を含む7名が京都を出発する。 ①後鳥羽上皇 ②佐々木義清 ③藤原秀能 |
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| 1,221 | 8 | 2 |
小山朝長に護送されていた葉室宗行が、駿河国浮島原(現在の静岡県沼津市原)を過ぎた所で、葉室光親の遺骨を持った従者と出会い、光親の斬首を知る。助命されるかも知れないと一縷の望みを抱いていた宗行は死を覚悟し、以下の歌を詠んだ。 今日過ぐる 身を浮島の 原にても つひの道をば 聞こさだめつる (浮島の原で死の淵から浮かび上がれるかも知れないと期待していたが、終わりを迎える事が分かり覚悟を決めた) |
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| 1,221 | 8 | 3 |
小山朝長が、鎌倉幕府の命により、葉室宗行を駿河国藍沢原(現在の静岡県御殿場市・駿東郡小山町)にて斬首する。辞世の詩は以下であった。 昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命 (昔は南陽県(現在の中国河南省)の菊水 下流を汲んで齢を延ぶ 今は東海道菊河(現在の静岡県島田市)の 西岸に宿して命を失う) 其の後、葉室を祀る為に藍澤五卿神社(現在の静岡県御殿場市新橋)が建設され、以下4名も合祀された。 ①葉室光親 ②源有雅 ③藤原範茂 ④一条信能 |
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| 1,221 | 8 | 7 |
乱の首謀者として斬首が確定した藤原範茂が、北条朝時によって鎌倉へ護送されている道中、足柄山(現在の神奈川県南足柄市・足柄下郡箱根町、静岡県駿東郡小山町に跨る金時山)にて、清川(現在の神奈川県南足柄市の貝沢川)での入水自殺を所望する。理由として、首と胴が離れて五体満足で無くなっては、極楽往生出来ないという点を挙げた。北条は此れを認め、藤原の着物の袂や懐に石を詰め込んだ。そして藤原は、以下の辞世の句を詠み、入水自殺した。 思いきや苔の下水堰き止めて月ならむ身の宿るべきとは (思いもしなかった事だが、苔の下を流れる川水を堰き止めて、月でも無い我が身を宿す事になろうとは) |
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| 1,221 | 8 | 9 | 順徳上皇が、佐渡国への配流を通告される。そして夜中に順徳上皇は、順徳上皇の母藤原重子の岡崎殿に入った。 | |
| 1,221 | 8 | 10 | 順徳上皇が、数名の近臣を従え、佐渡国へ向けて出発する。 | |
| 1,221 | 8 | 13 | 雅成親王が、但馬国高屋(現在の兵庫県豊岡市)に配流される。同時に、太田昌明が但馬国守護に任じられた。 | |
| 1,221 | 8 | 14 | 頼仁親王が、備前国児島(現在の岡山県倉敷市)に配流される。其の後、備前国守護の加地信実の預かりとなった。 | |
| 1,221 | 8 | 16 | 後鳥羽上皇一行が、出雲国大浜湊(現在の島根県松江市美保関町)に到着する。 | |
| 1,221 | 8 | 18 | 源有雅が、小笠原長清に護送されている道中、甲斐国稲積荘小瀬(現在の山梨県甲府市)にて斬首される。源は、北条政子に助命を懇願するので、暫く死刑執行を待って欲しいと小笠原に願い出るが聞き入れられず、執行に至った。 | |
| 1,221 | 8 | 19 | 坊門忠信が遠江国舞坂(現在の静岡県浜松市西区舞阪町舞阪)から京都に帰還する。坊門の妹の西八条禅尼の嘆願により、北条政子が申し出て助命されていた。坊門は程無くして出家し、越後国へ配流された。 | |
| 1,221 | 8 | 23 |
後鳥羽上皇一行が、船で大浜湊から隠岐国へ向けて出発する。同日、隠岐諸島中ノ島(現在の島根県隠岐郡海士町)に到着した。此の時、後鳥羽上皇は以下の和歌を詠んだ。 我こそは新島守よ沖の海の荒き浪風心して吹け (我こそは新たなる、島守であるぞ、荒き波風よ、我が意に逆らう事無く心して吹けよ) 其の後、後鳥羽上皇の付き人が宿泊先を求めて村人の戸を叩いたが、皆固辞し、後鳥羽上皇一行は三穂神社(現在の島根県隠岐郡海士町崎)の参篭舎で一夜を明かした。 |
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| 1,221 | 8 | 24 | 村上氏が、後鳥羽上皇を迎え入れる。其の後、村上家近くの源福寺(現在の島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前)に行在所が設置された。後鳥羽上皇は、規則正しい生活を送り、読書・写経・神事・将棋に勤しみ、毎日行在所から村上家まで通い詰め、お茶を楽しんだ。牛突きで持て成されたりもした。食事は朝夕の1日2食で、夕食はご馳走であった。村上家は度々上洛したが、其の際後鳥羽上皇は、帰京したい旨の書簡を朝廷経由で鎌倉幕府に届けたりもしたが、断られた。 | |
| 1,221 | 9 | 16 | 定豪が、鶴岡八幡宮寺別当を自身の弟子である定雅に譲り、定雅は第7世鶴岡八幡宮寺別当に就任する。其の後定豪は、同年、祈祷の褒賞として、鎌倉幕府の推挙により、第8代熊野三山検校に就任した。又、第7代新熊野検校及び第13世大伝法院座主も兼務する事となった。だが、定豪は鎌倉を離れなかった。 | |
| ≈ | 1,221 | 10 |
以下2名が南都に潜伏しているとの情報が六波羅に入る。 ①藤原秀康 ②藤原秀澄 北条時房は、秀康・秀澄征伐の為、家人を差し向けた。 |
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| 1,221 | 10 | 22 |
以下2名が河内国で捕縛される。 ①藤原秀康 ②藤原秀澄 |
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| 1,221 | 10 | 30 |
以下2名が六波羅にて処刑される。 ①藤原秀康 ②藤原秀澄 |
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| 1,221 | 11 | 25 | 土御門上皇が、土佐国幡多へ向けて京都を出発する。1人京都に留まるのを良しとせず、自ら鎌倉幕府に申し出ての配流であった。 | |