西暦1201〜1300年は、源頼家が蹴鞠に耽溺し御家人の所領再分配を命じるも反対され、北条氏が台頭した時代である。重源が東大寺大仏殿の再建に尽力し、和田合戦で北条義時が和田義盛を滅ぼした。源実朝が暗殺され、承久の乱を経て北条氏の執権政治が確立した。モンゴル帝国がユーラシア大陸に拡大した。

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東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿に関する電子書籍 垣間見える実直さとプライド。
年月日 出来事
1,213 検非違使の長官が藤原定家の屋敷に来て、庭の梅木2本を引き抜いて高陽院に移植する。藤原は憤慨した。
1,213 1 4 源実朝が、従二位に昇叙する。
1,213 1 24 大江広元が椀飯を務める。
1,213 1 25 北条義時が椀飯を務める。
1,213 1 26 北条時房が椀飯を務める。
1,213 1 27 和田義盛が椀飯を務める。
1,213 2 22 鎌倉幕府が「梅花万春を契る」というお題で和歌会を開催する。以下の人間が参加した。
①源実朝
②北条時房
③北条泰時
④伊賀朝光の弐男伊賀光宗
⑤和田朝盛
1,213 3 8 泉親衡の郎党青栗七郎の弟阿静坊安念が、千葉成胤を訪ね、栄実を擁して挙兵するという内容の謀反を持ち掛ける。千葉はその場で安念を捕縛し、北条義時の下に連行した。北条は源実朝に報告し、大江広元等と評議し、以下2名等に安念を尋問させた。
①二階堂行村
②金窪行親
1,213 3 9 阿静坊安念が自白し、泉親衡の北条義時打倒計画に与した武士が130名余、その仲間が200名に上る事が明らかとなる。中でも、比企能員の勢力が及んでいた信濃国の武士が多く加担していた。此れを受けて鎌倉幕府は、以下の人間等を捕縛した。この時和田義盛は上総国伊隅荘(現在の千葉県夷隅郡)に行っていた為、捕縛を免れた。
①一村近村(信濃国匠作の預かり)
②籠山次郎(高山重親の預かり)
③上田原平三父子3名(豊田幹重の預かり)
④薗田成朝(宇都宮時綱の預かり)
⑤狩野小太郎(結城朝光の預かり)
⑥和田義直(伊東祐長の預かり)
⑦和田義盛の五男和田義重(伊東祐廣の預かり)
⑧渋河兼守(安達景盛の預かり)
⑨和田胤長(金窪行親・安東忠家の預かり)
⑩磯野小三郎(小山朝政の預かり)
1,213 3 11 薗田成朝が、宇都宮時綱の下から逃亡し、祈祷師僧敬音の屋敷へ入る。薗田は、敬音から出家を勧められるが、国司に着任するという願望が叶えられるまでは出家しないと語り、敬音の下から離れて行方知れずとなった。
1,213 3 13 薗田成朝の逃亡が明るみに出る。薗田に受領の願望が有った事を聞いた源実朝は「早く此れを尋ね出し、恩赦有るべき」と発言した。
1,213 3 18 渋河兼守が、翌日の明け方の処刑を言い渡される。渋河は、思いの丈を10首の和歌に込め、其れを荏柄天神社に奉納した。
1,213 3 19 前夜から荏柄天神社に籠っていた工藤祐隆が、前日に渋河兼守が荏柄天神社に奉納した10首を大倉御所に居た源実朝に持参する。源はこの和歌に感じて、渋川を赦免した。
1,213 3 20 源実朝が、正二位に昇叙する。
1,213 3 25 泉親衡が筋替橋付近に潜伏しているとの噂を聞き付けた鎌倉幕府が、工藤十郎を現地に派遣する。しかし、工藤は泉によって殺害され、泉は行方を晦ませた。
1,213 3 31 和田義盛が鎌倉に帰還し、源実朝と面会する。義盛の嘆願により、以下2名が赦免された。
①和田義直
②和田義重
しかし、謀反に積極的に加担したと判断された和田胤長は赦免されなかった。
1,213 4 1 和田義盛が、一族98名を引き連れ、大倉御所を訪問して和田胤長の赦免を訴える。大江広元が取り次いだが、源実朝との面会は叶わず、胤長は謀反の首謀者であるとして、赦免は認められなかった。後ろ手に縛り上げられた胤長は、一族の前に引き立てられ、二階堂行村に引き渡された。その際北条義時は「尚も厳しく取り調べる様に」と態々言った。
1,213 4 9 和田胤長が陸奥国岩瀬郡鏡沼(現在の福島県岩瀬郡鏡石町)に配流される。
1,213 4 11 大倉御所にて和歌会が催される。
1,213 4 11 横山時兼が、和田義盛の屋敷を訪れる。その際、甲冑を身に纏った兵五十数名が周囲を徘徊した為、源実朝は、伊賀朝光に止めさせた。和田の側室は横山の叔母であり、横山の妹は和田常盛の妻であった為、和田家と横山家は密接な親族関係にあった。
1,213 4 13 和田胤長の娘荒鵑が、胤長と会えなくなった悲しみから病を患い、危篤となる。胤長と顔が似ていた和田朝盛が、胤長の代わりに父と偽って帰って来た事を伝えると、荒鵑は少し目を開けてその姿を微かに見て、目を閉じて死去した。其の夜、荒鵑は火葬され、胤長の妻は同日中に出家した。
1,213 4 17 荏柄天神社の前の和田胤長の屋敷が一族に引き渡される。和田義盛は久野谷弥次郎を其の屋敷に住まわせた。
1,213 4 24 北条義時が、屋敷は一族に給付されるという慣習を破り、久野谷弥次郎を和田胤長の屋敷から追い出し、以下2名に与える。
①金窪行親
②安東忠家
1,213 4 29 酒宴を行っていた源実朝が、通り掛かった以下2名に対し酒を振る舞う。
①山内政宣
②宍戸家政
源は山内・宍戸に対し「2人とも近いうちに命を失う事になろう。1人は私の敵として、もう1人は私の味方として」と予言した。
1,213 5 7 源実朝が、大倉御所南面にて、朗月に向かって和歌会を催す。此の日和田家は大倉御所に出仕しなかった。和田朝盛も朝夕の奉仕を止め、屋敷に居た。そこで浄遍僧都と面会し、出難生死の道を学んで、読経と念仏を行った。和田は出家を遂げる為に大倉御所に参上し、源と面会した。和田は源に和歌を献上し、源は其の和歌に感心した。和田は、此の所祇候していなかった事情を伝え、蟠りを解いた。源は、和田のこれまでの忠勲に報いる為、数ヶ所の地頭職を与える下文を授けた。しかし、月が中天に及んだ頃、和田は退出して源延の草庵を訪れ、剃髪して出家し、自身の屋敷に戻る事無く京都へと向かった為、下文にて与えられた地頭職に就く事は無かった。
1,213 5 8 和田朝盛が出家し、京都へ向けて出発した事に怒った和田義盛が、和田義直に朝盛を連れ戻す様命じる。
1,213 5 10 和田義直が、駿河国手越にて和田朝盛を鎌倉に連れ戻す。朝盛は黒衣の儘和田義盛と対面し、朝盛は、義盛の旗下として先陣に立つ事となった。
1,213 5 16 和田義盛が、年来の帰依僧である伊勢国の尊道房を追放する。しかし、伊勢神宮に戦勝祈願させたとの噂が飛び交い、人々は戦乱を予感し、騒然とした。
1,213 5 19 源実朝が、和田義盛が挙兵するとの噂を受けて、側近の宮内公氏を和田の屋敷に差し向ける。宮内に会う為に寝殿から出て来た和田は、烏帽子を落とした。それを見た宮内は、首が落ちた様だ、と感じ、挙兵しても打たれてしまうに違いない、と思った。此の時、以下2名等が武器を揃えていた為、夜、源は刑部丞宮内忠季を差し向けた。
①古郡保忠
②和田義盛の参男朝比奈義秀
和田は「将軍家に対する反逆の気持ちは無い。唯、北条義時の所為は我慢ならず、其れは一族若輩等も同じであり、其れを問い糺す為に出向こうとしている。私は何度も諫めたが憤りは抑えきれず、決起は止むを得ない」と回答した。
1,213 5 20 夜、雨の中、北条義時が、寺社への読経と祈願の依頼の名目で大江広元を招く。北条から大江に伝達する為に遣わされた者の中に、宮内公氏が含まれていた。
1,213 5 21 北条義時から呼び戻されていた北条朝時が義時の下に到着する。
1,213 5 23 小田知重が、近所である和田義盛の屋敷に軍勢が集結している事を大江広元に報告する。大江は来客中で宴を催している最中であったが、小田からの報告を受けると、1人其の場から抜け、大倉御所へ走って行った。三浦義村は、自身の弟の三浦胤義と相談し、「先祖の三浦為継は、源義家に従い、奥州で清原武衡・清原家衡を征伐して以降、源氏から恩禄を賜ってきた。義盛に味方して、先祖代々の主君に矢を射れば天罰を免れる事は出来ない」という理由で、義盛を裏切って北条義時の屋敷へ向かい、義時に義盛の挙兵を告げた。義村と胤義は、義盛に味方するという内容の起請文を書いており、大倉御所北門を固める役割を与えられていた。義時は囲碁の最中であったが、義村の報告に驚く事は無く、冷静な儘大倉御所へと向かった。大江と義時の報告を受けて、以下3名は大倉御所北門を出て、御谷(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)に避難した。
①源実朝
②北条政子
③西八条禅尼
此れを受けて、16時、義盛が、予定を1日繰り上げて、横山党の到着を待たずに挙兵し、150騎を三手に分けて以下の3ヶ所を襲撃した。
①大倉御所南門
②義時の屋敷
③大倉御所南門の向かいの大江広元の屋敷
義村は北条朝時・波多野忠綱等と共に政所付近で応戦したが、18時に大倉御所への侵入を許した。手薄だった北条の屋敷と大江の屋敷は、直ぐに陥落した。北条泰時・朝時・足利義氏等の防戦も及ばず、朝比奈義秀は大倉御所南門を打ち破り、南庭に侵入し、以下の人間を殺害し、火を放った。
①和田義盛の弟和田義茂の参男高井重茂
②五十嵐小豊治
③葛貫盛重
④新野景直
⑤礼羽蓮乗
南側から大倉御所が燃えていくのを見た実朝は、義時・大江等に付き添われて、義村の守備する北門から大倉御所を脱出し、大倉御所の北側の丘の上に在る法華堂に逃げ込んだ。又朝比奈は、朝時を斬り、負傷した朝時は撤退した。更に朝比奈は、政所前の橋で足利義氏と遭遇し、朝比奈が足利の鎧の袖を掴んだ。其処に野田朝季が割って入った。朝比奈は野田を殺害するも、足利は鎧の袖を引きちぎりながら逃亡した。日が暮れると、義盛は由比ヶ浜に兵を引いた。
1,213 5 24 4時、横山時兼が自身の娘婿の波多野盛通・自身の甥の横山五郎等の数十名の親族や横山党を率い、腰越浦(現在の神奈川県鎌倉市)に到着し、和田義盛の軍に加勢する。横山は、此の日に戦いを仕掛けると、義盛と示し合わせていた為、既に合戦が始まっている事に驚いた。義盛は、3,000騎を率いて若宮大路を北上し、大倉御所へ進軍した。先陣の朝比奈義秀は、以下2名等を率い、進軍していた所、鎮西の小物資政等の鎌倉幕府方を破り、大倉御所を目指した。
①土屋義清
②古郡保忠
8時、相模国・伊豆国の以下の御家人等が軍勢を率い、武蔵大路から稲村ヶ崎に到着した。
①曾我氏
②中村氏
③二宮氏
④河村氏
しかし、何方に加勢すれば良いか分からなかった為、源実朝の御教書を求めた。此れを受けて大江広元が、源名義の花押の有る御教書を作成して、使者を稲村ヶ崎に遣わせ、軍勢に示して見せた。相模国・伊豆国の御家人達は、北条義時が源を保護している事を知り、鎌倉幕府軍に付いた。又、千葉成胤も、一族を引き連れて北条に味方した。10時、義盛の軍勢が鎌倉に入り、前日と同じく朝比奈が奮戦した。朝比奈は、土屋・保忠と共に3騎轡を並べて敵陣に突入し、鎌倉幕府軍を攻め立て、追い散らした。鎌倉幕府軍は以下の布陣を敷いていたが、幾度となく後退した。
①若宮大路
❶北条泰時
❷北条時房
②大町大路
❶足利義氏
③名越
❶源頼茂
④大倉郷
❶佐々木義清
❷結城朝光
武田信光は、若宮大路の米町口(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)で朝比奈と遭遇した。両者は睨み合って戦おうとするが、信光の息子武田信忠が割って入った事で、交戦する事無く、朝比奈は走り去った。又朝比奈は、琵琶橋(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)にて宍戸家政を討った。そんな中、北条経由で源の下に、鎌倉幕府軍が苦戦を強いられているとの報告が届いた。驚いた源は、政所へ向かった大江を呼び寄せ、願書を書かせ其れに自筆で和歌を2首添えて、戦勝祈願として鶴岡八幡宮寺に奉じた。義盛率いる軍は、次々に新手を繰り出す鎌倉幕府軍に次第に押されていった。そんな中、甘縄から寿福寺(現在の神奈川県鎌倉市扇ガ谷)・岩窟不動尊(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)を経由して大倉御所へ向かっていた土屋義清が、鶴岡八幡宮寺の赤橋の周辺で、北から矢を受けて死亡した。大町大路では、第24世輪王寺(現在の栃木県日光市山内)別当弁覚が、中山行重を退けた。18時、和田義直が伊具盛重に討ち取られた。此れにより、義直が所持していた、名刀石動丸が行方不明となった。愛息を失った義盛は悲嘆に暮れ「今は戦う甲斐も無し」と号泣した。戦意を失った義盛は、江戸能範の郎党に襲撃され、討ち取られた。此れを受けて、以下3名は自刃した。
①和田義重
②義盛の六男和田義信
③義盛の七男和田秀盛
朝比奈は、和田朝盛の嫡男佐久間家盛と共に、船6隻に500騎を乗せて、海路で所領の安房国へ逃れた。以下4名は波加利荘(現在の山梨県北都留郡・大月市・上野原市・都留市・富士吉田市・南都留郡富士河口湖町)へ敗走した。
①古郡保忠の兄古郡経忠
②古郡保忠
③和田常盛
④横山時兼
岡崎実忠も戦場から離脱したが、其の後殺害された。土屋は寿福寺に葬られた。土屋は寿福寺の本願主であった。又、義盛に味方した愛甲季隆は、兄の愛甲義久一族と共に討たれ、同じく義盛に味方した大庭景兼も討たれ、大庭氏一族は没落した。
1,213 5 25 以下の兄弟が、所領の甲斐国板東山波加利之東競石郷二木(現在の山梨県大月市初狩町中初狩・下初狩付近)で自害する。
①古郡経忠
②古郡保忠
1,213 5 25 以下2名が、甲斐国板東山償原別所(笹子峠(現在の山梨県大月市・甲州市)付近)で自害する。
①和田常盛
②横山時兼
其の後、横山を始めとする234名の首級は、固瀬川(現在の境川(城山湖(現在の神奈川県相模原市緑区川尻)〜江ノ島(現在の神奈川県藤沢市)))の川辺に梟首された。
1,213 5 25 8時、源実朝が、避難していた法華堂から、北条政子の居所である東の御所に移る。其の後源は、二階堂行村を奉行として、西御門にて負傷した約188名の検分を行なった。其の中の1人である、2日前に朝比奈義秀と戦って負傷した相模次郎は、北条義時に支えられて東の御所に入った。金窪行親・安東忠家も同席した。続いて源は、合戦に加わった者の勲功に就いて尋ねた。波多野忠綱は、米町(現在の神奈川県鎌倉市大町)と政所前で、何度も先陣で戦った事を報告した。しかし三浦義村は、米町に就いては波多野の主張を認めたものの、政所前は自分が先陣で戦ったと主張し、言い争いとなった。南庭では、各人が自分の功績を主張した。北条義時は、静かな場所に忠綱を呼んで「此度の合戦の勝利は、三浦が和田義盛を裏切った事が大きい。米町で忠綱が先陣であったのは間違い無いから、政所の件に就いては三浦に譲って穏便に済ませてくれないか。そうすれば破格の褒賞は間違い無い」と、忠綱に譲歩を勧めた。すると忠綱は「武士が戦場に向かう際、先陣を目指すのが本意である。弓馬に携わる者として、一時の褒賞に心を奪われ、先々の名誉を汚す事は出来ない」と、反論した。其処で、以下4名の立ち会いの下、真実を明らかにする事となった。
①源
②北条義時
③大江広元
④二階堂行光
先ず三浦が「和田義盛が襲来した際、私は政所前に駆け付け矢を放ち、敵を寄せ付けませんでした」と主張した。対する忠綱は「私1人が先陣を切りました。三浦は、我が長男の波多野経朝、我が甥波多野義定の弐男波多野朝定の後陣でした。にも拘らず私が見えていなかったという事は、盲目なのではないか」という主旨の返答をした。其処で、共に戦った以下3名に話を聞くことになった。
①波多野盛景
②二階堂基行
③金子太郎
3名は、先陣を切ったのは、赤皮威の鎧を着用し、葦毛馬に乗馬した者であったと回答した。此れは忠綱の事であった。葦毛馬は義時から拝領したもので、「片淵」と呼ばれていた。三浦は、従兄弟であった和田を裏切った事により、後に大倉御所にて千葉胤綱に自身の上座に座られた際「下総の犬めは寝場所を知らぬな」と言ったが、千葉に「三浦の犬は友をも食らう」と返された。
1,213 5 26 鎌倉幕府が、以下2名を始めとする謀反人の所領・所職を没収する。
①和田義盛
②横山時兼
更に、北条義時が、和田に代わり侍所別当に就任した。此れにより北条は、政所別当と侍所別当の兼任となった。
1,213 5 28 鎌倉幕府が、勲功として、以下の領土配分を決定する。
①甲斐国波加利本荘(現在の山梨県大月市初狩町・笹子町付近):武田信光
②甲斐国波加利新荘(現在の山梨県大月市初狩町・笹子町付近):島津忠久
③甲斐国古郡(現在の山梨県上野原市):加藤景廉の息子加藤景長
④甲斐国岩間(現在の山梨県西八代郡市川三郷町):伊賀光宗
⑤甲斐国福地(現在の山梨県大月市富浜町):鎌田為成
⑥甲斐国井上(現在の山梨県笛吹市石和町一帯):大須賀胤信
⑦相模国山内荘(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内):北条義時
⑧相模国菖蒲(現在の神奈川県秦野市):北条義時
⑨相模国大井荘(現在の神奈川県足柄上郡大井町):二階堂行村
⑩相模国懐島(現在の神奈川県茅ヶ崎市):二階堂基行
⑪相模国岡崎(現在の神奈川県中郡):近藤左衛門尉
⑫相模国渋谷荘(現在の神奈川県大和市):因幡局
⑬坂東田原(現在の山梨県都留市):志村次郎
⑭武蔵国長井荘(現在の埼玉県熊谷市妻沼):安達時長
⑮武蔵国横山荘(現在の東京都八王子市):大江広元
⑯上総国飯富荘(現在の千葉県袖ケ浦市):北条時房
⑰上総国伊北郡(現在の千葉県夷隅郡大多喜町・千葉県勝浦市):三浦胤義
⑱上総国幾与宇(現在の千葉県旭市幾世):藤内兵衛尉
⑲常陸国佐都(現在の茨城県常陸太田市):伊賀朝光
⑳上野国桃井(現在の群馬県北群馬郡榛東村):藤原季康
㉑陸奥国遠田郡(現在の宮城県):北条泰時
㉒陸奥国三迫(現在の宮城県栗原市栗駒・金成):二階堂行光
㉓陸奥国名取郡(現在の宮城県):三浦義村
㉔出羽国由利郡(現在の秋田県):大弐局
㉕陸奥国金窪(現在の埼玉県児玉郡上里町金久保):金窪行親
波多野忠綱に関しては、3日前に義村を盲目扱いした事を理由に褒賞は無しとなった。波多野経朝の勲功は其の儘認められた。其の後、義時が大倉御所から若宮大路の屋敷へ入り、家臣に勲功を与えた。
1,213 5 29 既に出家していた山内政宣が、山内首藤経俊の屋敷に出頭する。
1,213 5 29 大江親広が鎌倉に到着する。6日前に和田義盛の襲撃の話を聞いて馳せ参じた。
1,213 5 29 夜、北条泰時が大倉御所に入る。其処で源実朝と面会し、勲功を辞退する旨を伝えた。源は、再三に渡り固辞する泰時に理由を尋ねた。泰時は「和田義盛は、源殿に逆心を持たず、北条義時と敵対しました。私は父の敵と戦ったまで。ただ、和田の攻撃を防ぐ為に多くの御家人が戦いました。褒賞は、其れ等の者に与えるべきであって、私が受けるのは筋が通りません」という主旨の回答をした。周囲の者は此れに感嘆した。しかし源は、重ねて勲功を受け取る様指示した。
1,213 5 30 和田胤長が陸奥国にて処刑される。
1,213 5 31 弁覚が北条義時と面会し、弟子達を率いて大町大路で中山行重を退けた事による褒賞として、北条から「僧徒の身でありながら戦場へ赴いたことは、忠節の表れだ」という源実朝の感謝の言葉を伝えられ、豊前国黒土荘(現在の福岡県豊前市久路土)を与えられる。弁覚は「源殿の長寿の為の祈祷をしておりますので、呪いや祟り等も其の力で防いでおります。姿形の在る敵等には罰を与えるのみ」と答えた。
1,213 6 11 鎌倉で地震が発生する。家屋が倒壊し、山崩れや地割れが発生した。陰陽師は、25日以内に兵乱が起きるだろうと上申した。
1,213 6 源実朝が、後鳥羽上皇から御宸翰を戴き、又鎌倉で西暦1,213年6月11日に地震が起きた事を受けて、以下の歌を詠む。
山は裂け海は褪せなむ世なりとも君にふた心我があらめやも
(山が裂け、海が褪せ干上がってしまうような天変地異でどんな世の中になってしまったとしても、私の忠誠心は二心無く只一筋に後鳥羽上皇に捧げて変わる事はありません)
1,213 6 明菴栄西が、法勝寺の八角九重塔の再建を果たした功績により、権僧正の位を与えられ、紫衣を授けられる。明菴栄西は、此の位を与えられる為に朝廷に多額の賄賂を渡した。此の明菴栄西の行動は、慈円や藤原定家から非難された。
1,213 6 22 鎌倉幕府が、地震を防ぐ為の祈祷を行わせる。
1,213 7 1 御家人達が、武装して大倉御所に馳せ参じる。
1,213 7 14 広沢実高が、所領の備後国三谿郡(現在の広島県三次市の一部)から鎌倉に帰還する。此の頃、広沢が和田義盛の一党であったと讒言する者が居り、疑いを晴らすべく鎌倉幕府に申し立て、認められた。
1,213 7 26 0時、地震が発生したが、晴れの中、大倉御所にて和歌会が開かれる。以下の人間が参加した。
①源実朝
②北条義時
③北条泰時
④東重胤
1,213 10 4 弁覚の使者が鎌倉に到着する。畠山重慶が、日光山の麓に籠居し、牢人を集め祈祷を行い、謀反を企てている旨を鎌倉幕府に伝えた。源実朝は、長沼宗政に重慶を捕縛する様命じた。長沼は、大倉御所から出ると、自身の屋敷に戻る事無く9名の郎党を引き連れ、下野国へと出発した。
1,213 10 7 以下の人間が氷取沢(現在の神奈川県横浜市磯子区)を散策し、和歌に興じる。
①源実朝
②北条時房
③北条泰時
④藤原長定
⑤三浦義村
⑥結城朝光
⑦内藤朝親
1,213 10 11 長沼宗政が、畠山重慶の首級を持参し下野国から鎌倉に帰還する。源実朝は「生け捕って来いと言ったにも拘らず何故殺したのか。畠山重忠は罪も無いのに殺害されており、その末子が隠謀を企てて何の不思議が有ろうか。命じた通りに先ず重慶を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった」と激怒し、長沼の出仕を停止した。しかし長沼は「重慶の謀反は疑い無い。生け捕ってくると、北条政子や女官の願いで許されてしまうだろう。なので殺害した。貴殿は我々の奉公を軽くお考えではないのか」という主旨の反論をした。さらに長沼は源に対し「貴殿は和歌・蹴鞠を業として武芸は廃れた様なもの。女官を部下とし、勇士は無いのと同じである」と吐き捨て大倉御所を去った。以降長沼は謹慎生活に入った。
1,213 10 31 長沼宗政が、小山朝政の取り成しによって源実朝から赦免され、謹慎が解除される。
1,213 12 20 飛鳥井雅経が、藤原定家から、源実朝に献上する万葉集の一部を受け取り、鎌倉に送付する。
1,213 12 23 晴れであった。夜、栄実が出家し、明菴栄西の弟子となった。此れは北条政子の指示であった。
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