西暦1101〜1200年は、エルサレムにテンプル騎士団が設立され、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代である。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し天叢雲剣が行方不明となった。源義経が頼朝に追放され、源頼家が誕生した。堀河天皇の騎射会から始まり、日本の武家政権が確立された100年間の出来事を網羅する。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦

≈は「頃」を意味しています。

源頼家に関する電子書籍 御家人の側室を奪って逆ギレしたり、僧侶の袈裟を勝手に燃やしたり、台風の被災者を救済せずに蹴鞠に興じたりした駄目将軍。
年月日 出来事
1,200 第6代ゴール朝スルターンのギヤースッディーン・ムハンマドが、自身の従兄弟のジャラールッディーン・アリーをホラーサーン(現在のイランの北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州)の総督に任命する。
1,200 1 6 以下2名の奉行により、梶原景時を鎌倉から追放するという評定が下る。連日の評議の末の結論であった。
①和田義盛
②三浦義村
梶原は再度一之宮へ下った。その後梶原の屋敷は解体され、永福寺の僧侶の住居として寄附された。
1,200 1 17 小山朝政が、梶原景時に代わり播磨国守護職に就任する。
1,200 1 30 明菴栄西が、法華堂(現在の神奈川県鎌倉市西御門)にて源頼朝の一周忌の導師を務める。
1,200 2 6 2時、梶原景時が以下の息子等を伴い、京都へ向けて一之宮を出発する。
①梶原景季
②梶原景高
③梶原景茂
1,200 2 6 一之宮に城郭を構え、防戦の備えをしていた梶原景時が、息子達を伴い京都へ向けて一之宮を出発したとの情報が鎌倉幕府の耳に入る。此れを受けて、以下の人間等が大倉御所に集まり審議した。
①北条時政
②大江広元
③三善康信
結果、梶原征伐の為、以下の人間を差し向けた。
①三浦義村
②比企余一兵衛尉
③糟屋有季
④工藤行光
1,200 2 6 22時、梶原景時一行が、駿河国清見関(現在の静岡県静岡市清水区興津)に到着する。其処で現地の以下の武士の襲撃を受けた。
①廬原小次郎
②工藤八郎
③工藤六郎
④三沢小次郎
⑤渋谷重国の五男飯田家義
⑥吉川友兼
⑦渋川次郎
⑧矢部平次
⑨船越三郎
⑩大内小次郎
先ず、廬原が追い込み、以下2名が討ち取られた。
①梶原景時の六男梶原景国
②梶原景時の八男梶原景則
そして、飯田の手先2名が梶原景茂の郎党2名を討ち取った。吉川も景茂を討ち取るが、深手を負っていた吉川は、その儘死亡した。更には、渋川の郎党が景時の一族4名を討ち取り、矢部の郎党も狩野藤乙兵衛尉を討ち取った。三沢は、景時の郎党を討ち取った。船越は梶原景時の一族1名を討ち取った。大内は、景時の郎党1名を討ち取った。更に、八郎の郎党と六郎が、梶原景時の七男梶原景連を討ち取った。そして、以下2名が後方の山で自害した。
①梶原景季
②梶原景高
景時は、西奈(現在の静岡県静岡市葵区)の山中で自害した。
1,200 2 7 以下2名の首が探し出され、梶原氏一族33名の首が路頭に梟首される。
①梶原景季
②梶原景高
1,200 2 9 以下4名が、駿河国の人間を伴い鎌倉に帰着し、合戦の記録を提出する。
①三浦義村
②比企余一兵衛尉
③糟屋有季
④工藤行光
1,200 2 10 安達親長が、梶原景時一族が滅んだ事を六波羅に伝える為に上洛する。持参した源頼家の御教書には、京都にいる仲間を探し出して捕える様書かれていた。
1,200 2 10 梶原景時と親交の深かった加藤景廉が領地の一部を没収される。
1,200 2 11 梶原景時の美作国守護職を罷免し、梶原氏の所領を没収する。又、以下の人間に恩賞が与えられた。
①比企余一兵衛尉
②糟屋有季
③西暦1,200年2月6日に梶原景時一行を襲撃した現地の武士
1,200 2 11 吉川友兼の息子吉川朝経が、梶原氏の所領であった播磨国福井荘(現在の兵庫県姫路市勝原区・網干区)の地頭に任ぜられる。
1,200 2 11 小山朝政が、播磨国5ヶ荘の地頭に補任される。
1,200 2 11 夜、梶原朝景が北条時政の屋敷に出頭し、工藤行光経由で武器を差し出す。
1,200 2 12 糟屋有季が、梶原景時と親交の深かった安房判官代佐々木高重を捕らえる。
1,200 2 14 武田信光が、甲斐国から鎌倉に到着する。信光は鎌倉幕府に対し「兄の武田有義が、梶原景時との約束を受けて密かに上洛しようとしていると聞いたので、詳細を尋ねる為屋敷に向かいましたが、既に逃げ去った後であり、行方が分かりません。唯、鎌倉幕府に対する反逆を企て、土御門天皇に許可を得る為、又、九州の武士を糾合する為に上洛し、有義を征夷大将軍に擁立するという主旨の梶原からの一通の書簡が有り、梶原と同心したのは明らかです」と報告した。
1,200 2 17 源頼家が、大倉御所の侍所にて波多野盛通に梶原景時と通じていた勝木則宗を捕縛する様命じる。波多野は、侍所に居た勝木を後ろから抱えて捕えようとした。しかし、相撲が達者で大力の持ち主であった勝木は、右手を振り抜き、腰刀を抜いて波多野を刺そうとした。其処に、横に居た畠山重忠が、座った儘左手を伸ばし、腰刀を持っていた勝木の右手を掴んで腕をへし折った。痛みで気を失った勝木は其の儘捕らえられた。其の後、勝木は和田義盛からの取り調べを受け「梶原景時は、九州の一族に向けて、九州を支配する為の宣旨を要求したから、急いで京都に来る様促す主旨の書簡を送っていた」と自白した。
1,200 2 20 和田義盛が、第3代鎌倉幕府侍所別当として還補される。
1,200 2 21 以下4名が、勝木則宗を捕縛した波多野盛通への恩賞と、勝木への刑を決定する。
①大江広元
②三善康信
③三善宣衡
④二階堂行光
其処に、予てから波多野を恨んでいた真壁紀内が「勝木を生け捕ったのは、波多野ではなく畠山重忠です」という主旨の発言をした。召された畠山は「そんな話は知りません。波多野一人の手柄と伺っています」と否定した。其の後畠山は、侍所にて真壁に対し「此の様な讒言は最も無益な事。弓矢に携わる武士ならば、私事を忘れるのが本来。貴殿は波多野を恨んでいるのかも知れないが、此処は波多野が一人で勝木を生け捕ったといってやるのが武士なのではないのだろうか。波多野は、先祖代々の勇士。其の名を汚す事は、道理に外れた事である」と説いた。真壁は赤面して言葉も出ず、周囲の者は畠山に感心した。
1,200 3 28 北条政子が、源頼朝の菩提を弔う意味を込め、源義朝から伝わる亀ケ谷の地を明菴栄西に寄進し、寿福寺建立計画を掲げる。
1,200 3 29 12時、北条政子を施主として、寿福寺造営の事始が執り行われる。以下2名が奉行を務めた。
①三善康信
②二階堂行光
また同日、明菴栄西が、北条が前日に建立計画を掲げた寿福寺の開山に迎えられた。
1,200 6 9 安達盛長が死去する。
1,200 6 24 源頼家が、僧侶が斬る袈裟を問題視し、念仏禁止令を発する。比企時員は源に命じられ、念仏僧14名を捕らえ、袈裟を剥ぎ取り、筋替橋(現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の近くで焼却した。筋替橋には大勢の見物人が集まり、源の施政を批判した。しかし、伊勢称念の袈裟だけは「俗人の束帯と僧侶の袈裟とは同じ黒を用いる事になっている。どうして黒衣の着用を禁止されるのか。総じて、今の世の政治の有様は、仏の道にも、世の中の道理の何れにも外れたもの。此れは滅亡の元凶でしょう。しかし、私の袈裟は、正しい道を表した袈裟であるので、焼く事は出来ないでしょう」と主張した事で焼かれなかった。伊勢称念は、再び袈裟を身に纏い其の場を去った。此の念仏禁止令は直ぐに廃止となり、世間の笑い種となった。
1,200 7 10 陸奥国葛岡(現在の宮城県大崎市岩出山)の新熊野神社の僧が、坊領の境相論に於いて、双方の文書を持参し、一帯の地頭である畠山重忠に結審を望む。畠山は、藤原秀衡の代では朝廷の安泰を祈祷していた神社であったが、今は鎌倉幕府の繁栄を祈祷している神社であるので、三善康信経由で、源頼家の裁定を仰いだ。源は、絵図の中央に一本の線を引き「土地が広いか狭いかは運次第だ。態々使いを出して現地を調査するのは面倒である。以後の境界争いは全てこの様に結審する。不服が有るならば訴訟など起こさぬ様に」という主旨の発言をした。
1,200 8 17 北条政子が佐々木定綱に託して京都で書かせた「十六羅漢図」が完成する。佐々木は十六羅漢図を鎌倉に届ける為、京都を出発した。
1,200 8 20 淡路国・阿波国・土佐国の守護佐々木経高が、此れ等の国から兵を京都に招集する。洛中は騒動となり、後鳥羽上皇は怒った。
1,200 8 26 十六羅漢図の開眼供養が寿福寺にて執り行われる。導師は明菴栄西が務め、北条政子も参列した。
1,200 9 7 鎌倉幕府が六波羅から「佐々木経高が朝廷の権威を軽んじ、洛中で強盗を捕らえると称しては人々の家を略奪しているという。国元の淡路国では朝廷に納める分の年貢を奪い取り、西暦1,200年8月20日には守護を務める三ヶ国から軍勢を集めて武装させ、朝廷を驚かせた。 何故其の様な暴挙に及んだのか問い質した所「敵の襲来に備える為」と答弁したが、其の様な事実はなく非常識も甚だしい。よって後鳥羽上皇の逆鱗に触れた」という主旨の書簡を受け取る。
1,200 9 11 佐々木経高が淡路国・阿波国・土佐国の守護職を罷免される。
1,200 10 11 源頼家が、小壺(現在の神奈川県逗子市小坪)にて笠懸を行う。射手には以下の人間が選ばれ、武芸を披露した。
①結城朝光
②海野幸氏
③小笠原長経
④和田義盛の弟和田義胤
⑤和田常盛
其の後、船を出して遊覧し、酒宴を行った。最中源は、泳ぎの名人との評判が高かった朝比奈義秀に、其の技を披露する様命じた。朝比奈は直様海に飛び込み、10往復した後、潜水して生きた鮫を3匹抱き抱えて戻って来た。周囲の者は皆喝采で迎え、驚嘆した源は、その日乗って来た、大江広元が献上した奥州産の名馬を与えようとした。しかし、予てから其の馬を欲しいと思っていた常盛が所望した為、源は、朝比奈と常盛で相撲を取らせ、勝者に其の馬を与える事にした。直様船を浜に寄せ、小坂光頼の屋敷の庭を借りて、相撲が行われた。しかし実力伯仲で中々勝負が決まらず、北条義時が割って入って引き分けにしようとした所、其の隙に常盛は衣を着替える間も無く馬に飛び乗って去って行った。朝比奈は大いに悔しがり、其の場に居た者は大笑いした。
和田合戦に関する電子書籍 北条義時の挑発にまんまと乗ってしまった和田義盛。