西暦1201〜1300年は、源頼家が蹴鞠に耽溺し御家人の所領再分配を命じるも反対され、北条氏が台頭した時代である。重源が東大寺大仏殿の再建に尽力し、和田合戦で北条義時が和田義盛を滅ぼした。源実朝が暗殺され、承久の乱を経て北条氏の執権政治が確立した。モンゴル帝国がユーラシア大陸に拡大した。

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東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿に関する電子書籍 垣間見える実直さとプライド。
年月日 出来事
1,205 本年から翌年にかけて、第9代ルーム・セルジューク朝スルタンのカイホスロー1世が、トラブゾンを包囲させる。しかし、占領は失敗に終わり、アレクシオス1世が、ルーム・セルジューク朝の包囲からトラブゾンを守り抜いた。アレクシオス1世は港を封鎖して対抗したが、これによりクリミア半島とトレビゾンド帝国を行き来していた商人は身動きが出来なくなった。また、この包囲により中東各地からトレビゾンド帝国にやって来た商人は重傷を負い、スィヴァス(現在のトルコ)で開催された博覧会で、カイホスロー1世は大声で非難された。
1,205 ナースィル・ウッディーン・カバチャが、クトゥブッディーン・アイバクの妹と結婚する。
1,205 1 1 西八条禅尼が鎌倉に到着する。
1,205 1 9 明菴栄西が、北条政子が南都で描かせた「七観音図」の供養の導師を務める。
1,205 1 26 源実朝が、正五位下に昇叙する。
1,205 2 3 北条時政から以下2名に言い渡されていた勘当が解除される。
①畠山重忠
②畠山重保
1,205 2 19 源実朝が、右近衛中将に任ぜられる。
1,205 4 北条時政が、牧の方と共に稲毛重成を自身の屋敷に呼び出し歓待する。牧の方は稲毛に対し「畠山次郎重忠・重保父子が謀反の意志を秘めている」と讒言し、様子を探らせる相談をした。牧の方は、前年に北条政範が上洛の途上で病死した件について、介護した畠山重保の態度に疑惑を抱き、政範を碌な医者にも診せず見殺しにしたとして、逆恨みしていた。
1,205 5 1 北条時政が、稲毛重成を鎌倉に呼び寄せる。
1,205 5 2 源実朝が、以下の和歌を含む12首を詠む。源が和歌を詠んだのは、此の時が初めてであった。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
(険しい箱根の道を超えてくると、伊豆の海が開けている。沖の小島に白波が寄せているのが見えるよ)
1,205 6 14 五字文殊菩薩の供養が大倉御所にて執り行われる。明菴栄西が導師を務めた。
1,205 7 7 稲毛重成から鎌倉で騒ぎが有ると聞いた畠山重忠が、以下の人間を含む134騎を率い、菅谷館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)から鎌倉へ向けて出発する。
①重忠の弐男畠山重秀
②本田近常
③重忠と乳兄弟である榛澤成清
1,205 7 8 稲毛重成に呼び寄せられた畠山重保が鎌倉に到着する。
1,205 7 9 平賀朝雅が牧の方に「畠山重保から悪口を言われた」と讒言する。牧の方は、これは畠山重忠・重保の謀反の表れであると北条時政に訴えた。時政は以下2名に重忠征伐を告げた。
①北条義時
②北条時房
義時・時房は「重忠は西暦1,180年の源頼朝の挙兵以来忠義を尽くしています。頼朝もその志を鑑みて息子達を守護する様丁寧に頼んでいます。源頼家の味方だったにも拘らず、比企能員征伐にて我々に味方してくれたのは、重忠の正室が我々の兄弟であるという義理を重んじたからです。其れなのに何を理由に謀反を企てるのでしょうか。もし重忠の度々の勲功を無視して征伐すれば、後悔する事になります。事の真偽を確認してからでも遅くはありません」という主旨の発言をした。しかし、牧の方の意向により、牧の方の兄大岡時親が義時の屋敷を訪れ、大岡は「私が継母であるが故に反対しているのではないか。重忠の謀反は既に発覚している事で、重忠の功績は功績であるが、陰謀は陰謀である。将軍の為、世の為に時政が伝えたにも拘らず、貴殿は重忠に代わって悪だくみを誤魔化そうとしている」と言う主旨の牧の方の意見を伝えた。最終的に義時・時房は時政に従わざるを得ず、重忠征伐に同意した。更に時政は、稲毛重成にも重忠征伐について話し、源実朝にも同様に訴え、源は同意した。
1,205 7 10 早朝、北条時政の指示が以下2名に下され、由比ヶ浜に謀反人を討つという名目で兵が集結する。
①三浦義村
②佐久間家村
4時、快晴であった此の時、畠山重保も、謀反人を討つという名目で稲毛重成に招かれ、郎従3名と共に由比ヶ浜に到着した。重保は、何の警戒心も持たず、三浦に近付いた。其処に佐久間達が重保の馬を包囲し、重保は奮戦したものの、郎従諸共殺害された。朝、畠山重忠は、布陣していた鶴ヶ峰(現在の神奈川県横浜市旭区)の麓で畠山重保が殺害された事、そして大軍が進軍して来ている事を知った。以下2名は重忠に、菅谷館に立て籠って討手を待った方が良いと進言した。
①本田近常
②榛澤成清
しかし重忠は「鎌倉の一大事に駆け付けるのが武士というものだ、私自身を討つ為であっても、後へは引けない」とし、迎え撃つ事となった。12時、北条義時率いる軍が二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)に到着した。其の後、小休止していた重忠の軍を包囲し、矢の雨を浴びせた。16時、4時間程交戦した頃、愛甲季隆の射た矢が重忠に命中した。重忠は「我が心正かれば、此の矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、2本の矢を地面に突き刺し死亡した。又、榛澤も討たれた。重忠の死を知った畠山重秀・本田等が自害し、戦闘は終了した。又、菅谷館に居た重忠の妻は家臣達を含む24名で加賀国額田荘(現在の石川県小松市額見町付近)司の下に落ち延びた。其の後重忠の妻一行は、重忠の遺命により、稲毛の嫡男で小沢城(現在の神奈川県川崎市多摩区菅仙谷)主の小沢重政の姉や、綾小路局の養子小沢重量を頼り小沢城へと移り、重忠の妻は小沢城にて篠塚重興を出産した。更に畠山重忠の四男畠山重慶は上古寺(現在の埼玉県比企郡小川町)の祖父畠山重弘の弟畠山重遠を頼り、其処に遺髪を埋葬し、五輪塔を建てて弔った。其の後重慶は慈光寺(現在の埼玉県比企郡ときがわ町西平)に登り剃髪して、第27世慈光寺別当に就任した。
1,205 7 11 北条義時が鎌倉に帰還する。北条時政が義時に戦いの様子を尋ねると、義時は「重忠の弟や親類は他所へ赴いていました。従っていたのは僅かに百騎程。重忠が謀反を企てたというのは虚言である。讒言によって征伐されたのでは不便極まりない。首実検で重忠を見た時、涙を止める事が出来ませんでした」という主旨の発言をした。時政は何も言えなかった。
1,205 7 11 夕方、三浦義村等が、経師ヶ谷(長勝寺(現在の神奈川県鎌倉市材木座)付近)にて以下3名を殺害する。
①榛谷重朝
②榛谷重朝の嫡男榛谷重季
③榛谷重朝の弐男榛谷秀重
又此の日、稲毛重成は大河戸行元に、小沢重政は宇佐美祐村に其々殺害された。
1,205 9 4 以下2名が、北条時政が、源実朝を暗殺し平賀朝雅を征夷大将軍に据える計画を立てている事に気付く。
①北条政子
②北条義時
政子は、以下の御家人等を遣わせて、名越殿に居た源を義時の屋敷に移動させて保護した。
①長沼宗政
②結城朝光
③三浦義村
④三浦義澄の九男三浦胤義
⑤天野遠景の嫡男天野政景
時政は兵を招集するが、部下達は源の警護に当たった為孤立無援となった。時政と牧の方は此の日の内に出家した。
1,205 9 5 北条義時が、以下2名を鎌倉から伊豆国北条郷(現在の静岡県伊豆の国市韮山)へ追放する。
①北条時政
②牧の方
又此の頃、義時は第2代執権及び第3代政所別当に就任した。
1,205 9 5 以下の人間等が北条義時の屋敷に集まり、平賀朝雅征伐の相談を行う。
①三善康信
②安達景盛
1,205 9 10 平賀朝雅を征伐する事を伝える使者が鎌倉から京都に到着する。
1,205 9 11 仙洞御所で囲碁を打っていた平賀朝雅が、召し使いの少年から、自身を殺害する為に鎌倉から討手が差し向けられた事を伝えられる。平賀は此の事を後鳥羽上皇に伝え、退出の許可を得た。平賀は東洞院通・六角通(現在の京都府京都市中京区東洞院通六角下る御射山町、六角通東洞院東入三文字町付近)の屋敷に戻ったが、以下の人間から襲撃された。
①五条有範
②後藤基清
③安達親長
④佐々木定綱の嫡男佐々木広綱
⑤佐々木高重
⑥金持広親
⑦佐々木盛綱
平賀は防戦したが、防ぎ切れずに逃亡し、金持・盛綱等が追撃した。平賀は松坂(現在の京都府京都市山科区厨子奥花鳥町・日ノ岡夷谷町付近)に到着するが、山内首藤経俊の六男中山通基に射止められ死亡した。
1,205 9 16 平賀朝雅暗殺の報告が鎌倉に届く。
1,205 9 19 大岡時親が出家する。
1,205 9 21 鎌倉幕府が、宇都宮頼綱が謀反を起こし、一族郎党を率いて鎌倉に向かっているという情報を入手する。これを受け、以下3名等が、小山朝政を北条政子の屋敷に呼び出した。
①北条義時
②大江広元
③安達景盛
大江は頼綱の非道と将軍家に対する不忠について指摘し、小山に宇都宮征伐を命じたが、小山は「宇都宮とは義理の兄弟です。他の者に命じて下さい。私は謀反には同意しておりません。もし宇都宮が本当に攻めてくるのならば、防戦には尽力致します」という主旨の発言をし、辞退した。北条からも小山に対し圧力が掛けられたが、小山は此れを撥ね除け、宇都宮を庇い通した。
1,205 9 25 宇都宮頼綱が、鎌倉幕府に対し、謀反の意が無い事を記した書簡を小山朝政経由で送付する。小山も書簡を送り、宇都宮を庇った。
1,205 9 30 宇都宮頼綱が、家臣60名と共に出家する。
1,205 10 1 宇都宮頼綱が、鎌倉へ向けて、宇都宮を出発する。
1,205 10 3 宇都宮頼綱が鎌倉に到着する。北条泰時の屋敷に参上し、面会を求めるが、北条に拒否される。又宇都宮は結城朝光に、剃髪して落とした髻を提出し、結城は其れを北条経由で源実朝に届けた。源は髻を結城に返却した。最終的に宇都宮は処罰を免れた。
1,205 10 15 京都からやって来た藤原定家の弟子内藤朝親が、新古今和歌集の写本を持参し、鎌倉に到着する。
1,205 10 18 内藤朝親が源実朝に、新古今和歌集の写本を献上する。源は熱心に読み耽り、本歌取りを行なって、自らの和歌創作に繋げていった。
1,205 11 20 山内首藤経俊が、款状を鎌倉幕府に提出し、伊賀国・伊勢国の守護職復帰を願い出る。逃亡した事に関し、その時に応じて行動するのは兵の故実であると釈明し、西暦1,205年9月11日に中山通基が平賀朝雅を仕留めた事に関する勲功を強調したが、鎌倉幕府は復帰を認めず、大内惟義の嫡男大内惟信を伊賀国・伊勢国の守護職に任命した。
源実朝に関する電子書籍 短期間で位階の昇叙と官職の昇進を重ねたが中身は...