西暦1201〜1300年は、源頼家が蹴鞠に耽溺し御家人の所領再分配を命じるも反対され、北条氏が台頭した時代である。重源が東大寺大仏殿の再建に尽力し、和田合戦で北条義時が和田義盛を滅ぼした。源実朝が暗殺され、承久の乱を経て北条氏の執権政治が確立した。モンゴル帝国がユーラシア大陸に拡大した。

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東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿に関する電子書籍 垣間見える実直さとプライド。
年月日 出来事
1,203 2 2 鎌倉で雪が約21.2121cm積もる。源頼家一行は、山内荘(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内)へ鷹場を見に行った。夜、源一行が帰る途上、亀ケ谷付近で平知康が、乗っていた馬が急に騒いだ所為で古井戸に落ちた。源は平を大倉御所まで連れて行き、小袖20領を与えた。
1,203 2 7 6時、鎌倉で地震が発生する。雷鳴も3回起きた。
1,203 2 11 ギヤースッディーン・ムハンマドが譲位し、シハーブッディーン・ムハンマドが、第7代ゴール朝スルターンに即位する。シハーブッディーンはインドからゴール朝に帰還し、貴族達からの支持を得ていた。其の後ムハンマドは、以下を任命した。
①ナースィル・ウッディーン・カバチャ(ムルターン(現在のパキスタンのパンジャーブ州)のムスリム総督)
②ジャラールッディーン・アリー(ゴール(現在のアフガニスタン)及びガルチスターン(現在のアフガニスタンのヘラート州付近)の総督)
其の後アリーは、クヒスタン(現在のイランの南ホラーサーン州)にて、イスラム教シーア派の一分派であるイスマーイール派に対する遠征を指揮した。ムハンマドには実子が居なかったが、数千名のトルコ人奴隷を息子の様に扱い、兵士や行政官としての訓練を施した。そして勤勉で聡明な奴隷達は、ムハンマドの軍や政府内で重要な地位に昇進していった。或る廷臣が、ムハンマドに男子の後継者が居ない事を嘆いた際、ムハンマドは「他の君主には、1人や2人の息子が居るかも知れないが、私は数千名の息子を持っている。彼らは私のトルコ人奴隷であり、私の領土を受け継ぐ者達である。そして私の後も、彼らは此の地で私の名を金曜礼拝のクトバで讃える事になるだろう」という主旨の発言をした。
1,203 2 14 源頼家が鶴岡八幡宮寺を参詣する。此の日は晴れで風は静かであった。回廊から遥拝して帰った。
1,203 2 15 源頼家の嫡男一幡が鶴岡八幡宮寺に奉幣する。此の日は晴れであった。源は神馬2頭を奉納した。御神楽を行うと、巫女が以下の八幡神の御託宣を述べた。
①今年中に関東で事が起きるだろう
②若君は家督を継ぐべきでは無い
③岸の上の木は、其の根が既に枯れている。人は其れを知らずに、梢を頼りにしている
源は此れを聞いて「御託宣では無く比企家への警告ではないのか、私は随分前から比企能員の屋敷を避けているのに」と考えた。其の後御行始の為、三善康清の屋敷を訪れ蹴鞠を行った。源は此の日三善の屋敷に泊まった。
1,203 2 16 源頼家が三善康清の屋敷から大倉御所に帰宅し、的始を行う。
1,203 3 5 源頼家が、三善康清の屋敷で蹴鞠を250回・120回行う。
1,203 3 13 ギヤースッディーン・ムハンマドがヘラート(現在のアフガニスタン)にて崩御する。ギヤースッディーンは大モスクに葬られた。
1,203 3 18 北条義時の助けを得て、源実朝が鶴岡八幡宮寺に参詣する。源頼家は神馬2頭を奉納し、以下2名が此れを引いた。
①結城朝光
②伊賀朝光の嫡男伊賀光季
頼家は「実朝が次期征夷大将軍か。先日の八幡神の御託宣を良い事に義時のやり方が露骨になっている。唯北条時房は変わり無い。今思えば北条泰時が改名を申し出たのも、私との繋がりを断たせ様とする義時の計らいだったのかも知れない」と考えた。
1,203 3 25 源頼家が、西暦1,192年に炎上してから再建されなかった、鶴岡八幡宮寺の塔の地鎮祭が執り行う。以下2名が付き従った。
①北条時政
②大江広元
総奉行は三善康信が務めた。
1,203 3 30 以下の人間が蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
⑨藤原清基
1,203 4 16 鶴岡八幡宮寺で一切経会が執り行われる。
1,203 4 17 源頼家が三善康清の屋敷で蹴鞠を行う。
1,203 4 23 源頼家が急病の為寝付いていると、駿河国片上御厨を伊勢神宮領に寄進すると良いという夢のお告げがあった為、武田信光の所務を停止して寄進する。奉行は大江広元が務めた。
1,203 4 27 体調が回復した源頼家が沐浴を行う。源は、4日前の夢のお告げを実行した事が回復に繋がったと捉えた。
1,203 4 28 永福寺で一切経会が執り行われる。其の後の舞を源頼家が観覧した。源は、辺りの桜が綺麗だと感じ、帰りに二階堂に在る二階堂行政の山荘に立ち寄った。源は、晩鐘の鳴る頃に大倉御所に戻った。
1,203 5 9 三善康清の屋敷で以下の人間が蹴鞠を行う。藤原清基は見証として控えた。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
1,203 5 15 鶴岡八幡宮寺にて祭礼が執り行われる。源頼家は北条義時を奉幣の使者として遣わせた。
1,203 6 2 以下の人間が蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
⑨藤原清基
1,203 6 15 源頼家が、鶴岡八幡宮寺の臨時祭に参詣する。
1,203 6 28 源頼家が以下2名と共に、尊暁の坊にて蹴鞠を行う。
①藤原清基
②大江広元の嫡男大江親広
1,203 6 29 0時、以下2名が結託して自身を追放しようとしているという情報を掴んでいた源頼家によって派遣された武田信光が、阿野を捕縛する。其の後大倉御所に幽閉され、塩谷朝業に預けられた。
①阿野全成
②北条時政
1,203 6 30 源頼家が、阿波局を大倉御所へ連れて来て尋問する為、北条政子の下へ比企能員を差し向ける。しかし北条は、阿波局が前日の阿野全成の件に就いて知っている事は無いとし、阿波局の差し出しを拒否した。
1,203 7 5 阿野全成の常陸国への流罪が執行される。
1,203 7 6 源頼家が、狩猟の為伊豆国へと向かう。
1,203 7 8 源頼家が安全祈願をさせている鶴岡八幡宮寺の僧が、政所から布施を行う。
1,203 7 9 三善康清が以下の人間等を誘い、自身の屋敷で蹴鞠を行う。
①紀行景
②冨部五郎
③大輔房源性
④加賀房義印
1,203 7 10 源頼家一行が、伊豆奥(現在の静岡県下田市)の狩倉に到着する。10時、源は、和田胤長に伊東崎山中の大洞を検分させた。18時、30kmの行程を巡り和田が戻って来ると「中に居た大蛇に飲み込まれそうになり、其れを斬り殺してきた」と報告した。此れを聞いた源は「其れなら鱗の一つも持って来い」と言った。
1,203 7 12 源頼家一行が、駿河国富士の狩倉に到着する。源は、人穴(現在の静岡県富士宮市)に仁田忠常を始めとする6名に入らせた。2日前と同様に大蛇が居た時の為に重宝の刀を持たせたが、其の日は戻らなかった。
1,203 7 13 10時、仁田忠常を含む2名が源頼家の下に帰還する。人穴は、蝙蝠が飛び交い蛇が足元を這うという状況であった。千人の鬨の声のような大声がしたかと思うと、時折人の泣く声が聞こえ、其の声に従って刀を川に投げ入れた。其の奥に大きな川が在って渡る事が出来ず、川の向こうに光が見えると、中に不思議な姿の人が現れた。残り4名は、其の霊気により死亡した。源頼家は、面白がって仁田達を人穴に行かせるのではなかったと後悔した。地元の古老曰く、浅間大菩薩の御在所で、今迄中に入って其の地を見た者はいないとの事であった。
1,203 7 19 源頼家一行が鎌倉に帰還する。
1,203 8 1 源頼家の命を受けた八田知家が、下野国にて阿野全成を殺害する。其の後八田は、源から恩賞として筑後守を与えられた。源は、阿波局を捕縛しようとしたが、阿波局の姉である北条政子が引き渡しを拒否した。
1,203 8 2 源頼家が、京都に居る阿野全成の参男阿野頼全の殺害を以下2名に命じる為、大江能範を上洛させる。
①源仲章
②佐々木定綱
1,203 8 3 源隆保が左馬頭に復帰する。
1,203 8 8 8時、鶴岡八幡宮寺若宮に宝殿の棟の上に唐鳩が留まっていたが、急に地に落ちて死亡する。
1,203 8 12 鶴岡八幡宮寺の経所と下回廊の繋ぎ目の上から、鳩が3羽、噛み付き合って地に落ち、1羽が死亡する。
1,203 8 17 鶴岡八幡宮寺の閼伽棚の下で、頭の切られた鳩が発見される。源頼家は、此の鳩を殺した者は自分を殺したいのだろう、と考えた。
1,203 8 24 阿野頼全が、延年寺(現在の京都府京都市東山区五条坂東とりべ山)にて在京御家人により殺害される。
1,203 8 26 以下の人間等が蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
1,203 8 28 源頼家が急病となり、大江広元の屋敷で倒れる。
1,203 8 31 源頼家の病気治癒を願う祈祷が行われる。卜筮によると、霊神の祟りであるとされた。
1,203 9 1 以下20名が、東大寺南大門の仁王像の造像に着手する。
①大仏師
❶運慶(阿形像を担当)
❷快慶(阿形像を担当)
❸定覚(吽形像を担当)
❹湛慶(吽形像を担当)
②小仏師16名
1,203 9 26 重源が製作した、賢明寺(現在の三重県津市久居元町)の板五輪塔が完成する。57.3cmの五輪型板の表面に1,036体の千躰仏を浮き彫りにし、裏面には上方に「宝篋印陀羅尼」、下方に銘文が陰刻された。
1,203 10 3 源頼家の体調に回復の兆しが見られない事から、北条時政が、頼家の息子達への以下の相続を取り決める。
①一幡に関東28ヶ国の地頭職と総守護職を譲る
②源頼朝の弐男源実朝に関西38ヶ国の地頭職を譲る
此の決定に一幡の外祖父であった比企能員は、全て一幡に与えられるべきものを、実朝にも譲渡するのはおかしいとして憤慨し、実朝と北条氏の殺害を決意した。
1,203 10 8 比企能員が、自身の娘若狭局を介して源頼家に北条時政征伐を訴える。此れを聞いた頼家は能員を病床に呼び寄せ、時政征伐を許可した。其の話を障子の陰から立ち聞きしていた北条政子は、時政に此れを伝えた。時政は以下2名に対し「能員が謀反を企てているので、攻めてしまおうと思う」と伝えた。
①天野遠景
②仁田忠常
天野・仁田は「御前に呼び寄せ始末しましょう」と提案した。時政は大江広元に相談した。大江は「源頼朝公以来、政務を補佐する事は有ったが、兵法については返答する事は出来ない。良く考えるべきではないか」と明言を避けたが、能員征伐には反対しなかった。時政は、能員の下へ使者を遣わせ「薬師如来の開眼供養を致しますので、時政の名越殿(現在の神奈川県鎌倉市大町)へお越し下さい。其の序でに政治向きの話も致しましょう」と誘った。使者が帰った後、能員は親類に引き止められた。しかし能員は「仏事と政治向きの話の為に私を呼んだのであろう」と言って、武装しては却って疑いを招くとして、昼に平服で以下の人間のみを連れて時政邸へと向かった。
①郎党2名
②雑色5名
時政邸へと入った能員は、待ち構えていた天野・仁田によって左右の手を掴まれ、竹藪に引き倒され殺害された。能員の屋敷に逃げ帰った雑色が、比企一族に事の次第を伝えると、能員の館の最奥部に在る小御所の一幡の屋敷に立て籠もった。
1,203 10 8 北条時政の名越殿にて、薬師如来の開眼供養が執り行われる。導師は明菴栄西が務めた。
1,203 10 8 15時、北条政子は、比企一族の一幡の屋敷への立て籠もりを謀反と見做し、比企一族征伐の命を下し、以下の人間等が出陣した。
①北条義時(総大将)
②北条泰時
③平賀朝雅
④畠山重忠
⑤小山朝政
⑥長沼宗政
⑦結城朝光
⑧榛谷重朝
⑨三浦義村
⑩和田義盛
⑪和田常盛
⑫和田景長
⑬土肥維平
⑭後藤信康
⑮伊賀朝光
⑯尾藤知景
⑰工藤行光
⑱金窪行親
⑲加藤景廉
⑳加藤景廉の嫡男遠山景朝
㉑仁田忠常
対する比企一族側は以下の人間等が迎え撃った。
①比企余一兵衛尉
②比企三郎
③比企五郎
④比企時員
⑤中野能成
⑥笠原親景
⑦中山為重
⑧糟屋有季
⑨小笠原長経
⑩細野四郎
⑪渋河兼忠
⑫児玉党
⑬河原田次郎
比企一族側の抵抗は激しく、義時側は、加藤・尾藤・景長や郎党等が負傷し、代わって畠山が笠原の軍勢を破ると、笠原は能員の館に駆け込んで火を放った。糟屋は、義時側が惜しんで逃がそうとするが一幡の屋敷から出て来ず、8名を討ち取った後他の郎従と共に殺害された。笠原も一幡の屋敷に籠り、義時側と交戦した末に殺害された。児玉党も討たれた。戦場から引き上げてきた河原田・中山は一幡の前で自刃した。三郎・五郎・時員・笠原は戦死した。余一兵衛尉は女装して脱出を試みるが、加藤に討たれ梟首された。若狭局は一幡を抱いて、一幡の屋敷の小門から脱出した。戦闘は16時に終結したが、夜、渋河が殺害され、比企一族側は敗北した。生き残った能員の末子比企能本は、義盛に預けられ、後に安房国へ配流された。
1,203 10 10 以下3名が捕縛される。
①中野能成
②小笠原長経
③細野四郎
北条時政は中野に対し「所領を奪われたそうだが、本領を安堵する」という主旨の下文を発した。
1,203 10 10 比企能員の縁者であった島津忠久が、薩摩国・大隅国・日向国の守護職を罷免される。
1,203 10 11 源頼家が体調を回復し、3日前の一連の事件に就いて知り激怒する。源は堀親家を使者として、以下2名に対し北条時政を討つ様命じる書簡を送った。
①和田義盛
②仁田忠常
和田は其の書簡を受け取り、堀を捕縛させ、北条時政の名越殿へ入った。堀は工藤行光によって殺害された。
1,203 10 12 仁田忠常が、比企一族征伐の恩賞を受ける為、北条時政の名越殿に入る。しかし夜になっても忠常が帰宅しなかった為、忠常の弟の以下2名等が、忠常が討たれたと考え、北条義時の居た北条政子の屋敷を襲撃した。
①仁田忠正
②仁田忠時
忠正は波多野忠綱によって殺害され、忠時は自害した。其の頃帰宅途中であった忠常は一連の騒動に就いて知ると、決死の覚悟で大倉御所へと向かったが、加藤景廉によって殺害された。
1,203 10 13 源実朝が、征夷大将軍に任ぜられる。同日、土御門天皇が、源実朝の征夷大将軍就任を宣下した。
1,203 10 13 源頼家が、北条政子により出家させられる。鎌倉を追放され、修禅寺(現在の静岡県伊豆市修善寺)に軟禁される事となった。
1,203 10 13 朝、鎌倉幕府からの使者が京都に到着し、朝廷に「西暦1,203年10月7日に源頼家が亡くなった為、源実朝が跡を継いだ。実朝を征夷大将軍に任命して欲しい」という主旨の北条時政からの書簡が届けられる。
1,203 10 16 島津忠久が、薩摩国守護職に復職する。しかし、大隅国・日向国の守護職には復帰出来ず、北条氏のものとなった。
1,203 10 16 源実朝が北条時政の名越殿に入る。北条は御家人の所領を安堵する御触れを出した。
1,203 10 21 源実朝が第3代鎌倉殿に就任する。又此の日、源実朝を第3代征夷大将軍とする宣旨が鎌倉に到着した。
1,203 11 4 源頼家が、以下を伴い修禅寺へ向けて出発する。神輿は三艘であった。
①先陣随兵:100騎
②女騎:15騎
③小舎人童:1名
④後陣随兵:約200騎
1,203 11 8 鎌倉幕府が、謀反を防ぐ事を意図し、平賀朝雅を京都守護に就任させる為に京都に派遣する。平賀は第118代武蔵守を罷免され、西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛し、其の後第9代京都守護に就任した。
1,203 11 8 完成した東大寺南大門の仁王像の開眼供養が執り行われる。
1,203 11 13 源実朝の元服の儀式が執り行われる。以下の人間が参列した。
①大江広元
②小山朝政
③和田義盛
④中条家長
⑤安達景盛
1,203 11 14 北条時政が第2代政所別当に就任する。ただ、大江広元も引き続き在職した為、政所別当が2名存在する事となった。また、この頃北条は初代執権に就任した。
1,203 11 29 源実朝が、右兵衛佐に任ぜられる。
1,203 12 7 一幡が、北条義時の差し向けた藤馬によって刺殺され、埋められる。
1,203 12 10 源頼家が北条政子・源実朝に対し、以下2点を訴える書簡を送る。
①修禅寺の寂しさは耐え難いので、中野能成を寄越して欲しい
②安達景盛の身柄を引き渡し処罰させて欲しい
②は、西暦1,199年8月13日に源頼家が中野能成に命じ、安達景盛の側室を小笠原長経の屋敷に置き自身の側室とした事に関する一連の騒動の逆恨みであった。結局源の要望は聞き入れられず、頼家は、以後書簡を送る事を禁じられた。
1,203 12 19 鎌倉幕府が以下の寺社奉行を定める。
①鶴岡八幡宮寺
❶北条義時
❷和田義盛
❸清原清定
②勝長寿院
❶大江広元
❷小山朝政
❸宗孝尚
③永福寺
❶畠山重忠
❷三浦義村
❸三善康清
④阿弥陀堂(永福寺南堂)
❶北条時房
❷山田重弘
❸足立遠元
⑤薬師堂
❶大江親広
❷千葉常秀
❸二階堂行政
⑥法華堂
❶安達景盛
❷結城朝光
❸中条家長
1,203 12 27 源実朝が、大倉御所の馬場で小笠懸を行う。以下2名が指導・手助けを担当した。
①小山朝政
②和田義盛
北条時政は、小山・和田に対し褒美としてそれぞれに馬を与えた。
源実朝に関する電子書籍 短期間で位階の昇叙と官職の昇進を重ねたが中身は...