西暦1,202年は、源頼家が名実共に第2代鎌倉幕府征夷大将軍となる一方、其の日々が蹴鞠に費やされていった年である。1月22日、西暦1201年に木造僧形八幡神坐像を開眼した快慶と快尊・慶聖を含む28名によって造られた東大寺八幡神像の開眼供養が執り行われ、1月24日には勝木則宗が釈放されて鎮西へ帰った。2月17日に源頼家は正三位に昇叙し、8月11日には従二位に叙されて征夷大将軍を宣下され、翌12日、伊豆国での狩猟から鎌倉へ帰還した源頼家は第2代鎌倉幕府征夷大将軍に就任した。西暦1199年の家督相続から三年半を経ての就任であり、西暦1192年の源頼朝の宣下に次ぐものであった。8月20日に其の報せが京都からの使者によって伝えられると、源頼家は、源頼朝は征夷大将軍になる為に朝敵を倒し奥州を領土としたが自分は其の職を引き継いだだけであり、朝敵が居なくなれば為すべきは都の警固と相論の裁定位であろう、後鳥羽上皇は武芸のみならず和歌や蹴鞠にも並々ならぬ力量をお持ちであるから我等も何時か鞠庭に招いて頂ける時が来るかも知れない、と考えたという。実際此の年の記録は蹴鞠に埋め尽くされており、2月4日の120回・310回に始まり、2月6日には三善康清の庭で500回、4月8日には360回・250回、4月9日には123回・120回・120回・240回・250回、6月11日には220回・520回、8月18日には120回・450回、9月27日には一日で270回・160回・280回・230回・130回・390回・550回を数え、紀行景・北条時房・冨部五郎・比企時員・肥田宗直・大輔房源性・加賀房義印・藤原清基等が常連であった。2月8日に源義重が死去すると、2月23日に中原親能の屋敷で蹴鞠を行おうとした源頼家に対し、北条政子は二階堂行光を遣わせ、源氏の遺老の死から20日も経たぬ内の興遊は人の誹りを招くと諫め、源頼家は蹴鞠を取り止めている。3月15日には相模国積良の古柳を大倉御所の鞠庭へ移植させ、3月24日には源義朝の居館であった沼浜城を解体して明菴栄西が住職を務める寿福寺に寄進した。4月2日、源頼家は比企能員の館で白拍子微妙と引き合わされ、讒言により投獄され奥州へ追放された父為成を捜す旅の途上である事を聞いて奥州へ使者を遣わせたが、8月23日に父の死去が報告されると微妙は号泣して倒れ伏し、9月2日、明菴栄西の禅房で出家、北条政子は深沢の里に居所を与えた。9月11日には微妙と通じていた古郡保忠が亀ケ谷に押し掛けて従僧達を殴り、9月14日に源頼家から咎められている。7月頃、明菴栄西は延暦寺の別院として建仁寺を創建し、真言宗・天台宗・禅宗の兼学道場として発展させる事で天台宗からの弾圧を逃れようとした。7月16日には夕立の後の水溜まりに平知康が自らの直垂や帷子を脱いで吸わせ、夜の酒宴では北条時房の改名を源頼家に命じさせたが、翌17日、北条政子は平知康を思い上がった怪しからん奴と言い放ち、法住寺殿の合戦は平知康の所為で起きたと昔話を語った。9月10日には北条泰時が三浦義村の娘矢部禅尼と結婚し、9月5日には鶴岡八幡宮寺若宮の西回廊に止まった鳩の為に問答講一座が修されている。10月8日、源頼家は数百騎を率いて伊豆国・駿河国の狩倉へ向かい、和田常盛・榛谷重朝・和田胤長・海野幸氏・望月重隆・仁田忠常・工藤行光等10名にのみ弓矢を持たせた。11月15日には大倉御所の北の中庭の松の植え込みを巡り、紀行景が山口有綱の松に難を付けて一悶着起きている。12月1日、諸国の守護が定められた諸事以外の雑務に介入しているとの訴えが多数発生していた事を受け、大江広元を奉行として之を止める様通達し、違反者は罷免すると厳命した。12月26日には源頼家の弐男公暁の初めての神拝の儀が鶴岡八幡宮寺で執り行われ、比企三郎と仁田忠時が神馬2頭を引いた。

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年月日 出来事
1,202 1 22 以下の人間を含む28名によって造られた東大寺八幡神像の開眼供養が執り行われる。
①快慶
②快尊
③慶聖
1,202 1 24 勝木則宗が釈放され、鎮西へと帰る。
1,202 2 4 源頼家が、狩衣を着用して鞠庭へやって来て、以下の人間と共に120回・310回の蹴鞠を行う。
①紀行景
②北条時房
③冨部五郎
④比企時員
⑤肥田宗直
⑥大輔房源性
⑦加賀房義印
1,202 2 6 前年三善康清が庭に植えた鞠の懸りが良い感じになっているという事で、以下の人間が500回の蹴鞠を行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
1,202 2 8 源義重が死去する。源頼朝の命日の翌日であった。
1,202 2 17 源頼家が正三位に昇叙する。
1,202 2 22 6時、鎌倉で地震が発生する。
1,202 2 23 源頼家が、中原親能の屋敷で蹴鞠を行う予定であった為、外出しようとする。しかし、北条政子が遣わせた二階堂行光が「源義重は源氏の遺老であり、武家にとって無くてはならない人物でした。同月8日に義重が亡くなって、まだ20日も経っていないのに興遊されるのは、人の誹りを招くでしょう。宜しくありません」という主旨の北条の言葉を伝えた。源は「蹴鞠は人から非難されるものでは無い」と反論したが、最終的には蹴鞠を取り止めた。
1,202 2 25 源頼家が、京都からやって来た使者から正三位に昇叙した事を伝えられる。
1,202 3 15 源頼家が、相模国積良(現在の神奈川県鎌倉市津・腰越・手広・笛田、現在の神奈川県藤沢市川名)の周辺に、名木である古い柳が在ると聞き、大倉御所の鞠庭に移植する事を決定する。北条時房・紀行景を含む約60名で現地へ向かった。
1,202 3 16 源頼家一行が、積良から帰還し、持ち帰った柳を大倉御所の石御壷の中に植える。しかし、紀行景は余り良い木では無いと言った。
1,202 3 22 源頼家の命により、尊暁に紀行景等の鞠足を饗応させる。夕方、尊暁が蹴鞠を見たいと言ったので、懸りの木の下で300回蹴った後、各々帰宅した。
1,202 3 24 源頼家が、源義朝の居館であった沼浜城(現在の神奈川県逗子市沼間の法勝寺付近)を解体して、明菴栄西が住職を務める寿福寺に寄進する。頼家が「北条政子の夢に義朝が現れ、ずっと海辺に居ると、漁師の漁の業を見るのが辛いから、寺の中に移築して六楽を得たい」という主旨の発言をして、其の夢の内容を三善康信に記させ実現した。大江広元は「六楽と言うのは六根の楽の事ではないか」と言った。
1,202 4 2 源頼家が大倉御所で蹴鞠を行う。其の後比企能員の館へ向かった。源は、思う所が有って比企の館から足が遠のいていたが「庭木の花が見頃なので」と以前から誘われていた為断り切れなかった。何か有ると思っていた源であったが、やはり「微妙」という名の白拍子と引き合わされた。歌も舞も堪能であったが、何か訳が有りそうで、比企が「私に直接聞け」と言うので尋ねたが、中々答えてくれない。何度か聞いてやっと比企が身の上話を始めた。父為成が讒言の為右獄(現在の京都府京都市中京区西ノ京西円町)に投獄され、其の後右獄の囚人は、為成を含め源頼朝の雑用に追い立てられて奥州に追放された。其れから間も無く、母親は悲しみに耐えきれず病気になり死去し、一人で生きていく為に七歳から身に付けたのが芸であり、今父親の生死を知る為に奥州へ向かう途上であった。此の話を聞いていた周囲の人間は皆涙し、奥州には使者を遣わして父親の事を調べるように命じ、微妙は鎌倉に留まる事となった。微妙は比企の目に留まり、自分の饗応に召し出されたのだと源は考えた。其の後は夜もすがら酒を飲み、明朝、鶏の鳴く頃に源は帰宅した。
1,202 4 8 以下の人間が蹴鞠を360回・250回行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
其の後源は、永福寺の多宝塔供養に参列し、乳母の冥福を祈った。明菴栄西が導師を務め、布施は北条政子が用意した。
1,202 4 9 源頼家が、123回・120回・120回・240回・250回の蹴鞠を行う。其の後北条政子がやって来て微妙の芸を鑑賞した。北条は微妙の父親を慕う心に感心し、直ぐに使者を奥州に遣わせ、使者が帰ってきた際は自身の屋敷に来させる様命じ、微妙は、使者が戻って来るまで北条の所で待つ事となり、連れて行かれた。
1,202 5 6 源頼家が、中原親能の亀ケ谷の屋敷の持仏堂の庭の木の下で蹴鞠を行う。此の日は南風が強く、回数は伸びなかった。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
⑨藤原清基
1,202 5 20 源頼家が蹴鞠を行う。暗くなってからは火を灯し、小鞠を持って来させて120回行った。此れを見ていた紀行景は源に「天賦の才をお持ちです」と言った。源は弓を始めた時にも其の様な事を言われたのを思い出した。
1,202 5 27 鶴岡八幡宮寺の神事が執り行われる。源頼家は、奉幣の使者を北条時房に務めさせた。
1,202 6 1 源頼家が、三浦半島の海辺で笠懸の射手を10騎選定する。
1,202 6 11 以下の人間が大倉御所で蹴鞠を220回・520回行う。北条時房と藤原清基は脚気気味で今回は見証となった。
①紀行景
②源頼家
③冨部五郎
④比企時員
⑤肥田宗直
⑥大輔房源性
⑦加賀房義印
⑧六位進盛景(北条と藤原の代理)
⑨細野四郎(北条と藤原の代理)
⑩稲木五郎(北条と藤原の代理)
1,202 6 21 源頼家が、相模国足下郡早河荘(現在の神奈川県小田原市)を中分とする。土肥遠平の知行を停止して、140町6反の田を箱根神社に寄付した。
1,202 6 22 北条時政が夢のお告げで、北条宗時の菩提を弔う為に伊豆国へ向かう。墳墓堂は桑原郷(現在の静岡県田方郡函南町)に在った。
1,202 7 建仁寺(現在の京都府京都市東山区小松町)が、延暦寺の別院として、明菴栄西を開山として創建される。明菴栄西は、真言宗・天台宗・禅宗の兼学道場として建仁寺を発展させ、天台宗からの弾圧を逃れようとした。
1,202 7 16 源頼家が、夕立が来たが直ぐに晴れたので蹴鞠を始めようとする。しかし、水溜まりが出来ていた。平知康が此れを見て着用していた直垂や帷子を脱いで、其れで水を吸わせた。源は、此の日北条政子が蹴鞠を観覧する為、北条が紀行景の様な鞠足をまだ見た事が無い為、蹴鞠が只の遊びでは無いと分かって貰う好機と考えていた。16時に開始し交代しながら360回行った。夜、東北の御所で酒宴を行い、平は鼓を打った。平は酒が回ると、北条時房に酒を勧めて散々持ち上げておいて、源に時房の改名を命じろと言った。
1,202 7 17 北条政子が前日の平知康に関し、思い上がった怪しからん奴と言い放ち帰宅する。政子は、法住寺殿の合戦は平の所為で起きた、謀反人として倒された叔父や大叔父にも取り入られようとしていたのに、等と昔話をしていた。北条時房は改名する事となった。源頼家は、時房の元服の際、加冠役を誰が務めるのか分からない儘式を始め、其の場で源頼朝が、佐原義連に役を与えたと聞いていた。又佐原が昔、三浦の酒宴の席で宿老2名が乱闘寸前の喧嘩になったのを、叱りつけて黙らせた功に、其の時報いたのだという話も聞いていた。そういう話が、宿老たちは大好きだ。頼家は、頼朝が時房には佐原の様な家子になって欲しかったのだろうと考えた。
1,202 8 5 北条時政が伊豆から鎌倉に帰還する。
1,202 8 6 源頼家が北条時房を伴い、狩猟の為伊豆国へ出発する。鶴岡八幡宮寺に道中の無事を祈願する祈祷をして貰った。
1,202 8 11 源頼家が従二位に叙され、征夷大将軍を宣下される。
1,202 8 12 以下2名が鎌倉に帰還する。
①源頼家
②北条時房
源は此の日、第2代鎌倉幕府征夷大将軍に就任した。
1,202 8 18 源頼家が、120回・450回の蹴鞠を行う。
1,202 8 20 京都からの使者が鎌倉に到着し、源頼家が西暦1,202年8月11日に従二位に叙され、翌日の12日に征夷大将軍に就任した事を伝える。頼家は「源頼朝は征夷大将軍になる為に、朝敵を倒し奥州を領土とした。私は其の職を引き継いだだけで、歴戦の宿老から見れば、狩猟しか知らないのに征夷大将軍だ。もし此の世から朝敵が居なくなれば、我等のする事は都の警固と、領地争いの相論の是非を裁定する事ぐらいだろう。北条時房が改名したのも、丁度良い時期であったのかも知れない。後鳥羽上皇は武芸も堪能でいらっしゃるが、和歌や蹴鞠にも並々ならぬ力量をお持ちであるという。我等もいつか鞠庭に招いて頂ける時が来るかも知れないではないか」と考えた。
1,202 8 23 微妙の父親の事を調べる為に奥州へ向かった使者が鎌倉に帰還する。微妙の父親は既に死去していた事を報告した。それを聞いた微妙は、号泣しながら気を失い倒れ伏した。
1,202 9 2 源頼家が放生会の為、鶴岡八幡宮寺に参宮する。夜、微妙は父の後世を弔う為明菴栄西の禅房で出家した。北条政子は微妙を哀れみ、深沢(現在の神奈川県鎌倉市)の里に居所を与え、其処から持仏堂に参る様言い付けた。頼家は、北条が此れからは源頼朝を父と思いなさいとでも言いたいのだろう、微妙は大姫に似ていたのかも知れない、と考えた。微妙は古郡保忠と通じていたが、古郡は此の時甲斐国に下向していた。
1,202 9 3 源頼家が、鶴岡八幡宮寺の馬場の桟敷で流鏑馬を観覧する。しかし参宮はしなかった。
1,202 9 5 12時、鶴岡八幡宮寺若宮の西回廊に鳩が止まる。そこにずっと留まっているので、源頼家は、僧達がこの鳩のために問答講一座を修し、法楽を行うのを見物しに行った。以下2名も付いて来た。
①北条時政
②大江広元
他にも多数の見物人が集まって来たが、18時、鳩は西方に飛び去って行った。
1,202 9 8 以下の人間が蹴鞠を250回・130回行う。
①紀行景
②源頼家
③北条時房
④冨部五郎
⑤比企時員
⑥肥田宗直
⑦大輔房源性
⑧加賀房義印
⑨藤原清基
1,202 9 10 北条泰時が、三浦義村の娘矢部禅尼と結婚する。泰時は改名を望んだが、此れを源頼家は、北条時房が改名した事を気にしているのではないかと考えた。
1,202 9 11 夜、古郡保忠が甲斐国から鎌倉に帰還する。微妙が明菴栄西の弟子祖達房に頼んで出家した事を知った古郡は、問い質したい事が有るとして亀ケ谷に押し掛けた。祖達房は恐怖し、大倉御所の門前へ逃亡した。怒りの収まらない古郡は、従僧達を殴った。北条政子は結城朝光を遣わせ、古郡を宥めさせた。北条は、結城・和田義盛経由で源頼家に事を次第を伝えた。
1,202 9 14 古郡保忠が、源頼家から咎められる。
1,202 9 26 源頼家が鶴岡八幡宮寺の祭礼に参詣する。
1,202 9 27 源頼家が一日中蹴鞠を行い、回数は270回・160回・280回・230回・130回・390回・550回を数えた。此の日の三嶋大社の祭礼には、源に代わり北条義時が代理で参詣した。
1,202 9 28 荏柄天神社(現在の神奈川県鎌倉市二階堂)の祭礼が執り行われ、源頼家に代わり大江広元が代理で参詣する。
1,202 10 3 源頼家が蹴鞠を行う。230回・160回行った後、火を灯して、石御壷に紀行景を呼び勝負した。150回に達した所で平知康が、鞠を打ち落とした。後から紀は「平は、此の儘勝負が続くとどちらが落としても恥となるから、敢えて自分が鞠を打ち落とした、平の振る舞いは礼儀を欠いたものでは無い」という主旨の発言をし、北条政子にも伝えて貰う様弁明した。
1,202 10 8 源頼家が数百騎を率い、伊豆国・駿河国の狩倉へと向かう。源は、内に控える5名以外は外に控えさせ、勢子を定めた。弓矢は、射手の以下10名だけに持たせた。
①和田常盛
②榛谷重朝
③和田義盛の甥和田胤長
④海野幸氏
⑤望月重隆
⑥小坂弥三郎
⑦鎌田小次郎
⑧笠原親景
⑨仁田忠常
⑩工藤行光
1,202 10 16 源頼家一行が鎌倉に帰還する。此の日仁田忠常の館で小笠懸を行った。仁田が源に懸物を10種100品献上し、源は其の内9種を射手達の命中した矢の数に応じて褒美として与えた。
1,202 10 25 源頼家が、時雨が降り続いているのを見ていたが、三善康清の庭の木が良い色に染まっているだろうと見たくなって馬を跳ばす。其の後晴れ、蹴鞠を行ったが、水溜まりが多く難儀した。
1,202 11 15 源頼家が、大倉御所の北の中庭に松の植え込みを作らせる。以下の人間に2本ずつ松を持ち込ませた。
①北条時房
②和田義盛
③三浦義村
④三浦義村の弟山口有綱
紀行景が松の良し悪しを見て、山口の松に難を付けると、山口は顔色を変え「私にだけそんな事を言うとは不審だ。京下りの方々には此の様な事がよく有りますが、不当、不当」と言った。紀は何も言わずにこの2本も並べて植えた。
1,202 11 17 源頼家が、由比浦(現在の神奈川県鎌倉市由比ガ浜)にて、射手10騎で笠懸の会を催す。
1,202 11 29 源頼家が、鎌倉の諸堂の僧侶を大倉御所に呼んで饗応する。
1,202 12 1 源頼家が、諸国の守護が、定められた諸事以外の雑務に介入しているとの訴えが多数発生している事を受け審議を行い、止める様通達させる。其れでも違反する者は罷免すると厳命した。奉行は大江広元であった。
1,202 12 24 鶴岡八幡宮寺で御神楽が執り行われる。三善宣衡が「庭火」の曲を歌ったが、源頼家は不参加であった。
1,202 12 26 源頼家の弐男公暁の初めての神拝の儀が鶴岡八幡宮寺で執り行われる。源は神馬2頭を奉納し、以下2名が此れを引いた。
①比企三郎
②仁田忠時
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