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≈は「頃」を意味しています。
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| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,201 | 2 | 2 | 源頼家が、政所に諸国の大田文の提出を命じ、大輔房源性に田数計算をさせ始める。源は、西暦1,182年以後の勲功として与えられた恩地に関し、約4,958,680㎡以上を有する場合は超過分を没収し、領地を与えられていない御家人に分配する様大江広元に命じた。しかし大江は反対した。 | |
| 1,201 | 2 | 3 | 三善康信が源頼家に対し、前日に源が命じた御家人の所領の再分配を遠回しに諌めた。源は渋々決定を延期した。此の時三善は約6,079,341.68㎡の領地を有していた。 | |
| 1,201 | 2 | 27 | 夜、城長茂率いる軍が、大番役として京都に滞在していた、平安京東洞院大路東(現在の京都府京都市南区東九条南山王町)に所在する小山朝政の宿所を包囲する。此の日小山は、土御門天皇が後鳥羽上皇の仙洞御所への行幸に供奉していた為、不在であった。宿所に残っていた兵が応戦した為、城は退却した。後鳥羽上皇と土御門天皇がいる仙洞御所の二条東洞院殿へ参上し、四方の門を閉ざして、後鳥羽上皇に対し、源頼家追討の宣旨を要求した。しかし後鳥羽上皇が此れを拒否した為、城長茂率いる軍は引き上げ、清水坂(現在の京都府京都市東山区)に潜伏した。城長茂の軍に参加していた藤原高衡は、軍から離脱し、藤原範季の屋敷に逃げ込んだ。其の後、小山率いる軍が清水坂へ向けて城を追撃するが、小山が清水坂に到着した時には既に城は居なかった。 | |
| ≈ | 1,201 | 3 |
城長茂に呼応して、以下2名が越後国蒲原の鳥坂城(現在の新潟県胎内市羽黒)にて反乱を起こす。 ①城資盛 ②資盛の叔母で弓の名手の板額御前 |
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| 1,201 | 3 | 9 | 京都守護の要請により、後鳥羽上皇が城長茂追討の宣旨を下す。 | |
| 1,201 | 3 | 28 | 城長茂が吉野山に潜伏している事を突き止めた鎌倉幕府軍が、城と郎党新津四郎を含む5名を、吉野の奥で殺害し、別の5名を捕虜とする。城は出家したばかりであった。 | |
| 1,201 | 3 | 29 | 城長茂の反乱を収める為、朝廷が「建仁」への改元を行う。 | |
| 1,201 | 3 | 31 | 3日前に吉野の奥にて、鎌倉幕府軍によって殺害された城長茂と郎党新津四郎を含む5名の首が、平安京を引き回される。更に、同じく3日前に捕虜となった5名も殺害された。 | |
| 1,201 | 4 | 4 | 藤原高衡が鎌倉幕府軍によって殺害される。高衡は、城長茂の郎党に、信濃小路(現在の京都府京都市南区西九条針小路町)の藤原範季の屋敷から連れ戻されていた。 | |
| 1,201 | 4 | 4 |
以下2名が鎌倉幕府軍によって殺害される。 ①城長茂の甥城資家 ②長茂の甥城資正 |
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| 1,201 | 5 | 5 | 鳥坂城に篭城する城資盛を越後国・佐渡国の御家人が襲撃するも、城の陣の前に敗北した事が鎌倉幕府に報告される。 | |
| 1,201 | 5 | 6 |
以下3名が協議し、上野国に居る佐々木盛綱に越後国の御家人を招集させ、城資盛を征伐する事を決定する。 ①北条時政 ②大江広元 ③三善康信 同日、佐々木への御教書を和田義盛が受け取り、上野国へ飛脚が出された。 |
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| 1,201 | 5 | 8 | 上野国磯部郷(現在の群馬県安中市磯部・上磯部・下磯部・東上磯部・西上磯部)の屋敷の門外に居た佐々木盛綱が、鎌倉幕府からの御教書を受け取る。佐々木は屋敷に戻らず、城資盛征伐の為、越後国へ直行した。佐々木の家族が追い付き「軽はずみな行動では?」と問うと佐々木は「其の昔、平将門が反乱を起こした際、追討使となった藤原忠文は、朱雀天皇から宣旨を受けた時は食事中であったが、箸を投げ捨て参内し、刀を拝領して、直様平征伐へ向かったと聞いている。此の様な行動こそが勇士の心掛ける事だ」と返した。 | |
| 1,201 | 5 | 11 | 佐々木盛綱率いる軍が、鳥坂城周辺に到着する。佐々木は使者を遣わせ、3日前に鎌倉幕府から受け取った御教書の内容を城資盛に伝えた。城は「此方へ出向いて頂き、雌雄を決したい」と返答した。此れを受け、越後国・佐渡国・信濃国の御家人が郎党を集め、佐々木の下に参集した。佐々木は軍を再編成し、阿賀野川(現在の新潟県・福島県・群馬県)を渡った。佐々木は再度城へ使者を遣わすと、城は、鳥坂城の付近で戦闘を行うと返答した。城の軍勢は1,000名であり、多勢の鎌倉幕府軍に対し、最初から守勢で迎え撃った。 | |
| 1,201 | 6 | 8 | 出家していた佐々木経高が、洛中での騒動に対する申し開きを記した書簡を、自身の嫡男佐々木高重に持参させ、鎌倉幕府に提出する。其の後、源頼家は経高を赦免したが、領地は返還されなかった。 | |
| ≈ | 1,201 | 6 | 10 | 佐々木盛綱の参男佐々木盛季が一番矢、海野幸氏が二番矢を放ち、城資盛の篭城する鳥坂城へ先制攻撃を仕掛ける。鳥坂城には、帯曲輪に木柵が巡らされ、空堀には逆茂木が立ち並び、城軍は矢石で迎撃し、鎌倉幕府軍は多数の死者を出した。又、盛季と海野は先駆けを争って負傷した。死傷者を出しながらも鎌倉幕府軍は帯曲輪に迫った。すると板額御前が、髪を結い上げ腹巻きを身に付け矢倉の上に立ち、次々と弓で鎌倉幕府兵を百発百中で仕留めていった。しかし、藤沢清親が板額御前の両腿に矢を命中させ、板額御前は倒れ、藤沢は板額御前を捕虜とした。此れを切っ掛けに城軍は崩れ始めた。結果、4時間の戦闘の末鳥坂城は落城した。 |
| 1,201 | 7 | 29 |
藤沢清親によって鎌倉に護送されていた板額御前が、源頼家によって大倉御所に招かれる。源と板額御前が面会する際、板額御前を見ようと、多数の御家人が参集した。板額御前は傷が完治しておらず、気遣いながらの参上であったが、侍所に控えていた以下の人間の座を通る時も、源を前にした際も、臆する事なく堂々としていた。 ①畠山重忠 ②小山朝政 ③和田義盛 ④比企能員 ⑤三浦義村 |
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| 1,201 | 7 | 30 | 浅利義遠が源頼家に対し、板額御前を妻として迎え入れたい旨を伝える。源は「何故謀反の徒を室に望むのか。其れを望むのは思惑が有るのではないか」と問うと、浅利は「全く特別な思惑はありません、只同心の契りを交わして武勇に秀でた男子を儲け、朝廷や武家に忠義を尽くさせる為です」と答えた。源は「此の者の顔立ちは良いが、心の猛々しさを思えば、誰が愛らしく思うだろうか。常人の望む様な事では無い」と笑いながら許可した。其の後浅利は、板額御前を伴って、本拠である甲斐国八代郡浅利郷(現在の山梨県中央市浅利)へ下向し、一男一女を儲けた。 | |
| 1,201 | 8 | 10 | 豊島朝経が土佐国守護に任命される。 | |
| 1,201 | 9 | 9 | 台風により鎌倉の家々が押し潰され、港では船が引っ繰り返され、鶴岡八幡宮寺の回廊や八足門を始めとする仏閣・塔廟が倒れる等の被害が発生する。下総国では高潮が発生し、葛西郡(現在の東京都葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区)の海辺では、潮が押し寄せ農民・漁師等の家が巻き込まれ、1,000名が溺死した。此れ迄見証として源頼家の鞠会に加わっていた北条泰時は、北条家に詰める事が増えた為、鞠会に参加しなくなった。 | |
| 1,201 | 9 | 13 | 台風の影響により、この日開催される予定であった鶴岡八幡宮寺の放生会が延期となる。 | |
| 1,201 | 9 | 21 | 台風により鎌倉が被害を受ける。12日前にも台風を受けた鎌倉周辺は、2度の台風で五穀が全滅した。 | |
| 1,201 | 10 | 5 | 蹴鞠の名手で北面武士の紀行景が鎌倉に到着する。蹴鞠に熱中していた源頼家が、後鳥羽上皇の許可を得て京都から招いていた。 | |
| 1,201 | 10 | 7 | 紀行景が、大江広元に大倉御所へ招かれ、源頼家と対面して銀剣を賜る。 | |
| 1,201 | 10 | 9 |
以下の人間等が蹴鞠を行う。 ①紀行景 ②源頼家 ③北条時房 ④冨部五郎 ⑤比企時員 ⑥肥田宗直 ⑦大輔房源性 ⑧加賀房義印 |
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| 1,201 | 10 | 13 | 早朝、源頼家が蹴鞠に興じる。此の日は前月延期となった鶴岡八幡宮寺の放生会が催される予定であった。 | |
| 1,201 | 10 | 16 | 源頼家が猟犬を飼い始める。比企時員は其の世話を命じられた。 | |
| 1,201 | 10 | 18 | 源頼家が大倉御所で蹴鞠を催す。 | |
| 1,201 | 10 | 20 | 源頼家が蹴鞠に興じる。此の日北条泰時は、中野能成を呼び「蹴鞠は、奥深い藝なので夢中になる事に文句は無いが、二度の台風で、寺社・民家が破壊され、五穀は不作となり、飢饉に陥っている時なので慎むべき」と源を批判した。此れに対し源は、泰時の父である義時や、泰時の祖父で源の祖父でもある時政を差し置いて忠告して来た事もあり立腹した。 | |
| 1,201 | 10 | 30 | 夜、北条泰時の近習親清法眼が北条の屋敷にやって来て「中野能成に申された事が、詳しく将軍の耳に入りました。但し、嘘も混ざっているので、父や祖父を飛び越えて注意をするなんて生意気だと、ご機嫌を損ねていると有り有りとこの目で見ました。そこで、ご病気だと言われて、暫く国元へ帰っていては如何でしょうか。今までの将軍の様子を見ている限りでは、不機嫌はそうは十日もひと月も続きません。ほんの一時の事ですから」と勧めると、北条は「全然注意をした積もりでは有りません。愚かな私が思う所を、多少お側近く仕える者に相談しただけである。もし処罰されるならば、国元にいても同じである。こんな話が出る前に急な用事が出来たので、明日の夜明けに伊豆国へ下るつもりです。前もって門を出る儀式を終えています。今の忠告によって敢えて出発する訳では無い。貴方の配慮を恥ずかしく思います」と言って、蓑や笠等を引っ張り出して見せた。 | |
| 1,201 | 10 | 31 | 北条泰時が伊豆国へ向けて出発する。 | |
| 1,201 | 11 | 7 | 北条泰時が鎌倉に帰還する。伊豆国では飢饉で困っている人々を助ける為の徳政を行った。 | |
| 1,201 | 11 | 24 | 快慶が、自身の制作した「木造僧形八幡神坐像」を開眼する。 | |
| 1,201 | 12 | 10 |
佐々木経高が、源頼朝の月命日を営む。以下の謝礼を贈った。 ①導師:絹の反物三疋 ②お供の僧:白布一反 参列した御家人達は、佐々木の境遇を思って涙した。これをお忍びで参列していた北条政子が目撃していた。 |
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| 1,201 | 12 | 29 | 京都から、源頼家から赦免された礼を述べる為に佐々木高重を伴って鎌倉に来ていた佐々木経高が、京都へ帰る為に源に挨拶をする。源は、取り上げた領地の一ヶ所を返還した。北条泰時は「北条義時が、許してやるなら全ての領地を返してやるべきだと言っている」と話した。其の後も会談が持たれ、経高は往時の忘れ難き話を述べ、和田義盛を始めとする古参の御家人は涙した。泰時は、帰宅後義時に「経高殿に落ち度が全く無かったとは言いません。しかし其の所領は全て武功によって得たものであり、赦免するのなら全て返還してあげなければ、痼りが残ってしまいます。経高殿は誰もが認める歴戦の勇士。其れがあの様な扱いを受けていては私達も良い気はしません。況して恨みを残しては、いざ有事に敵方へ寝返ってしまうかも知れません。源殿はもう少し慎み深くお考えあるべきではないでしょうか」という主旨の発言をした。 | |