西暦1201〜1300年は、源頼家が蹴鞠に耽溺し御家人の所領再分配を命じるも反対され、北条氏が台頭した時代である。重源が東大寺大仏殿の再建に尽力し、和田合戦で北条義時が和田義盛を滅ぼした。源実朝が暗殺され、承久の乱を経て北条氏の執権政治が確立した。モンゴル帝国がユーラシア大陸に拡大した。

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東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿に関する電子書籍 垣間見える実直さとプライド。
年月日 出来事
1,204 チンギス・カンがモンゴル高原西部の遊牧部族連合ナイマン王国のカンのタヤン・カンを討ち、モンゴル高原を統一する。
1,204 1 以下の人間等が、伊勢国守護山内首藤経俊の屋敷を夜襲する。
①若菜盛高
②平雅楽助
③三浦盛時
④平基度
その後、鈴鹿関(現在の三重県亀山市関町新所)を塞ぎ、以下の場所に城を構えた。
①日永(現在の三重県四日市市)
②若松(現在の三重県鈴鹿市)
③南村
④高角(現在の三重県四日市市)
⑤関(現在の三重県亀山市)
⑥小野(現在の三重県亀山市)
1,204 1 3 重源が、後鳥羽上皇が行幸を仰ぎ東大寺総供養を営む。
1,204 1 28 和田義盛が、山内首藤経俊の屋敷を夜襲したのは伊勢国員弁郡司進士行綱であると鎌倉幕府に報告する。
1,204 2 9 源実朝が、従五位上に昇叙する。
1,204 2 12 強い寒風が12時になると止み、御弓始めを催す。射手は以下の6名であった。
①和田胤長・榛谷重朝
②金刺盛澄・海野幸氏
③望月重隆・吾妻助光
各々2射ずつ、5回射終わると、西の廊下で源実朝から以下の褒賞を与えられた。
①行騰
②騎馬用の沓
③征矢
1,204 2 20 京都にて「北条時政が、畠山重忠と戦い敗北し山中に隠れた。大江広元は既に殺害されている」という誤報が流れる。
1,204 3 1 藤原定家の下に「畠山重忠が挙兵し、大倉御所を攻めた。北条時政と大江広元が狙われた」という風聞が入る。此れを受けて藤原は、西園寺公経の屋敷を訪れ、此の風聞の真偽に就いて確認した。西園寺は「鎌倉からまだ情報は届いていないが、平賀朝雅が言うには、関東に於ける騒乱の情報は入っていないとの事だ」という主旨の返答をした。藤原は「陰陽師等の占いでも同様の結果が出ており、此れは天狗の仕業である」とした。
1,204 3 13 西暦1,204年1月28日の和田義盛の報告により、進士行綱が捕らえられ、囚人となる。
1,204 4 7 源実朝が、右近衛少将に任ぜられる。
1,204 4 10 平賀朝雅の使者が鎌倉に到着し、伊賀国で平維基の子孫等が、伊勢国で平度光の子息等が反乱を起こした事を報告する。これを受けて、山内首藤経俊が事情を尋ねる為に現地に入ったが、問答無用で戦いを仕掛けられ、多勢に無勢で、兵を集める為に逃亡した。
1,204 4 11 鎌倉幕府が平賀朝雅に対し、伊賀国・伊勢国で反乱を起こした者の征伐を命じる。
1,204 4 23 イメレティ(現在のジョージア)から進軍した以下2名が、父方の伯母であるグルジア王国国王タマルの援助を受けてトラブゾン(現在のトルコ)を占領する。
①アレクシオス1世
②アレクシオス1世の弟ダヴィド・メガス・コムネノス
トレビゾンド帝国が建国され、アレクシオス1世が初代トレビゾンド帝国皇帝に即位した。その後、アレクシオス1世とコムネノスは二手に分かれて西進した。アレクシオス1世は以下の都市を占領した。
①リムニア
②サムスン(現在のトルコ)
③スィノプ(現在のトルコ)
サムスンはルーム・セルジューク朝にとって黒海への玄関口であったが、アレクシオス1世の占領により、貿易や勢力拡大の機会を封じられた。コムネノスは艦隊を率いて以下の都市を占領した。
①ケラソス(現在のトルコのギレスン県)
②ジデ(現在のトルコのカスタモヌ県)
③アマスラ(現在のトルコのバルトゥン県)
④ヘラクレア・ポンティカ(現在のトルコのゾングルダク県カラデニズ・エレーリ)
コムネノスが、パフラゴニアに滞在している間、アレクシオス1世は、ルーム・セルジューク朝から領土の東部を守備する為、トラブゾン近郊に留まった。
1,204 4 24 平賀朝雅が、200騎を率いて伊賀国・伊勢国で反乱を起こした者の征伐の為出陣する。
1,204 4 28 平賀朝雅率いる軍が伊勢国に入る。鈴鹿関が反乱軍によって塞がれていた為、美濃国を経由した。
1,204 5 11 平賀朝雅率いる軍が、伊勢国朝明郡富田荘に所在する富田家資の参男平基度の居館である富田館(現在の三重県四日市市東富田町)を襲撃する。数時間の交戦の結果、平賀達は以下の人間等を殺害した。
①平
②松本盛光の父の参男松本盛光(自身が築城させた松本城(現在の三重県四日市市松本)で応戦)
③松本盛光の父の四男
④松本盛光の父の九男
1,204 5 11 平賀朝雅率いる軍が、安濃郡(現在の三重県津市)の岡貞重とその子息・親族等を殺害する。
1,204 5 12 平賀朝雅率いる軍が伊勢国多気郡(現在の三重県多気郡多気町・明和町・大台町)に進軍し、以下2名を討つ。
①庄田佐房
②庄田師房
更に、河田刑部大夫を捕縛し、伊賀国名張郡六箇山(現在の三重県名張市上比奈知・下比奈知・滝之原・長瀬・布生・奈垣・神屋)に砦を築き抵抗していた平盛時とその一族を討った。
1,204 5 13 平賀朝雅率いる軍が、小野城(現在の三重県亀山市)に籠城していた若菜盛高を殺害する。
1,204 5 30 平賀朝雅率いる軍が、伊賀国の残党を追討する。
1,204 6 7 若菜盛高の従者が、山内首藤経俊の屋敷を夜襲したのは若菜であると白状する。これにより、進士行綱は無罪となり、本領を安堵された。
1,204 6 9 鎌倉幕府が論功行賞を行い、山内首藤経俊の伊賀国・伊勢国の守護職を罷免する。後任として平賀朝雅を就け、京都守護と兼務させた。また平賀は、伊勢平氏の私領の水田を賜った。
1,204 7 6 西暦1,204年6月9日の論功行賞から漏れていた加藤光員が、西面武士として検非違使に任ぜられる。
1,204 8 14 源頼家が、入浴中に北条氏の刺客に首に縄を掛けられ、睾丸を切断された上で刺殺される。
1,204 8 15 源頼家死去を伝える為に伊豆国からやって来た飛脚が鎌倉に到着する。
1,204 8 20 源頼家の家人等13名が謀反を企てたが発覚する。これを受けて、北条義時が派遣した金窪行親等が征伐した。
1,204 8 30 鎌倉幕府が、源実朝の正室を後鳥羽上皇の外叔坊門信清の娘西八条禅尼とし、京都から迎える事を決定する。当初は足利義兼の娘が候補に挙がっていたが、源は拒否し、朝廷に打診し、藤原兼子が西八条禅尼を推薦していた。藤原は、鎌倉幕府内に、朝廷の息の掛かった西八条禅尼を送り込む事で、自身の発言権を強めるという狙いが有った。
1,204 11 7 以下の人間が、西八条禅尼を迎える為に、京都へ向けて鎌倉を出発する。
①北条時政
②北条時政の四男北条政範
③結城朝光の嫡男結城朝広
④千葉常秀
⑤畠山重忠の六男畠山重保
⑥八田知家の六男八田知尚
⑦和田常盛の嫡男和田朝盛
⑧土肥惟光
⑨葛西清重の拾男葛西清宣
⑩佐原義連の長男佐原景連
⑪多々良明宗
⑫長江義景
⑬宇佐美祐能
⑭佐々木盛綱の参男佐々木盛季
⑮南條平次
⑯安西四郎
道中政範は病を患い、介護は重保が担った。
1,204 11 25 北条時政一行が上洛する。
1,204 11 26 平賀朝雅の六角洞院亭にて、前日に上洛した北条時政一行を歓迎する酒宴が開かれる。其の席で平賀と畠山重保が口論となったが、周囲の人間が取り成した。
1,204 11 27 北条政範が病により死去する。
1,204 11 28 北条政範が東山辺(現在の大阪府豊能郡能勢町山辺)に葬られる。
1,204 12 5 北条政範死去の報告が鎌倉幕府に齎される。以下2名は悲嘆に暮れた。
①北条時政
②北条時政の継室牧の方
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