西暦1201〜1300年は、源頼家が蹴鞠に耽溺し御家人の所領再分配を命じるも反対され、北条氏が台頭した時代である。重源が東大寺大仏殿の再建に尽力し、和田合戦で北条義時が和田義盛を滅ぼした。源実朝が暗殺され、承久の乱を経て北条氏の執権政治が確立した。モンゴル帝国がユーラシア大陸に拡大した。

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東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿に関する電子書籍 垣間見える実直さとプライド。
年月日 出来事
1,206 鶴岡八幡宮寺の良信が江島神社(現在の神奈川県藤沢市江の島)に辺津宮を建立する。鶴岡八幡宮寺の供僧の慈悲上人良真が源実朝に願い出て実現した。
1,206 2 22 クトゥブッディーン・アイバクが、シハーブッディーン・ムハンマドから、ペシャーワル(現在のパキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州)の門からインドの最も奥地(現在のインドのメーガーラヤ州・現在のバングラデシュのマイメンシン管区付近)までの総督に任命される。
1,206 3 クトゥブッディーン・アイバクの部下ムハンマド・バフティヤール・ハルジーが、チベット征服を意図し、10,000名の兵を率いデヴィコット(現在のインド西ベンガル州南ディナージプル県)を出発する。チベットは軍馬が豊富であり、チベットとの貿易ルートを確保する事が意図として有った。この際、東方の国境を守る為、自身の部下アリー・マルダン・ハルジーをゴーラーガット(現在のバングラデシュのロンプール管区ディナジプール県)に残して行った。
1,206 3 ムハンマド・バフティヤール・ハルジー率いる軍が、チベットへ向かう途上、カムラップ(現在のインドのアッサム州)のライに、自身に加勢する様促す。しかし、ライは拒否した。
1,206 3 ムハンマド・バフティヤール・ハルジー率いる軍が、現在のインドのシッキム州を経由してティースタ川を渡り、出発から16日目にチベットのチュンビ渓谷(現在の中国チベット自治区)に到着する。ハルジー達は、現地の村々から略奪を開始した。しかし、ベンガル地方の蒸し暑く湿気の多い平原に慣れていたハルジー達にとって、険しいヒマラヤ山脈の峠は不慣れな地形であった。チベット人は、ハルジー軍を罠に嵌めて多大な損害を与えた。ハルジーは撤退を決意し、ベンガル地方へ向けて敗走するが、チベット人は追撃しゲリラ戦を仕掛けた。ハルジー軍は大敗し、飢えた兵士は、生き残る為に自分たちの馬を食べる事を余儀なくされた。カムラップの平原を通過し、ティースタ川近くの丘陵地帯にある古い石橋を渡ろうとしたが、アーチが破壊され、対岸に渡るのが困難である事に気付いた。対岸に渡る際に多数の兵と馬を失い、渡る事の出来た兵はカムラップ山麓の部族長アリ・メックによって、カラトヤ川右岸に沿って北に向かって10日間、コチ族・メク族・タル族の土地を経由してデヴィコットにエスコートした。デヴィコットに帰還した兵はハルジー含め僅か100名程度であった。
1,206 3 ムハンマド・バフティヤール・ハルジーが、アリー・マルダン・ハルジーに暗殺される。
1,206 3 10 東大寺二月堂の供養式が執り行われる。
1,206 3 14 大雪の中、名越の北条義時の山荘にて和歌会が開かれる。以下の人間が参加した。
①源実朝
②東重胤
③内藤朝親
1,206 3 15 シハーブッディーン・ムハンマドが、インド遠征の途上、ガズニーにて、ゴール朝に敵対するホラーサーンのシーア派の一派であるイスマーイール派の放った刺客により暗殺される。其の後ゴール朝は、以下の人間による後継者争いにより解体へと向かっていった。
①シハーブッディーン・ムハンマドの甥ギヤースッディーン・マフムード(トルコ系グラームが支持)
②第3代ゴール朝領バーミヤーン支配者バハー・ウッディーン・サーム2世(イランの現地兵士達が支持)
③フィルズクー(現在のイランのテヘラン州)を支配していたディヤー・アルディーン・ムハンマド
クトゥブッディーン・アイバクは、ゴール朝の現在のインドのラージャスターン州周辺の領土を巡り、自身の義父でトルコ系グラームのタージ・アルディン・ユルディズと争った。
1,206 3 21 バハー・ウッディーン・サーム2世が病死する。此れにより、サーム2世の息子ジャラール・アルディーン・アリが新たな次期ゴール朝スルターン候補となった。サーム2世と同じく、サーム2世の息子のアラ・アルディーン・ムハンマドやイランの現地兵士達がアリを支援した。最終的に、ギヤースッディーン・マフムードがゴール朝の後継者争いを制し、第8代ゴール朝スルターンに即位した。ジャラールッディーン・アリーは、ガルチスターンの総督を罷免され、現地の要塞に投獄された。
1,206 4 ジャラール・アルディーン・アリが、アラ・アルディーン・ムハンマドをガズニーの支配者として戴冠させる。自身はバーミヤーンに帰還した。しかし直ぐに、アリとムハンマドはバーミヤーンにて対立し、その間にガズニーをタージ・アルディン・ユルディズが占領した。ギヤースッディーン・マフムードは、ユルディズによるガズニーの統治を認めた。ユルディズは更にパンジャーブ(現在のインド・パキスタン)に進軍した。クトゥブッディーン・アイバクは此れに応戦する為に進軍し、ユルディズをコヒスタン(現在のパキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州)に撤退させ、ガズニーを掌握し、宗主権を認めさせた。マフムードが国内の支配を固めると、アイバク達が、マフムードの居るフィルズクーの宮廷にニザームッディーン・ムハンマドを差し向け、ゴール朝の統治に関する、解放証書と叙任証書を求めた。
1,206 4 アリー・マルダン・ハルジーと共にムハンマド・バフティヤール・ハルジーの部下であったムハンマド・シーラン・ハルジーがアリーを拘束する。その後アリーはデリーに逃亡し、クトゥブッディーン・アイバクに対し、ハルジー家の問題に介入する様説得した。ハルジー家は、シハーブッディーン・ムハンマドの支配下に無かった為、アイバクがこの問題を裁く権限は無かったが、自身の部下のアワド(現在のインドのウッタル・プラデーシュ州)総督カイマズ・ルミに対し、ラクナウティ(現在のインド西ベンガル州マールダー県ガウル)に進軍し、ハルジー家の長達に適切な、軍人に対して与えられた徴税権およびその権利が設定された土地であるイクターを割り当てる様指示した。デブコット(現在のインドのチャッティースガル州)のイクターをムハンマド・バフティヤール・ハルジーの部下であったフサムディン・イワズ・ハルジーに割り当てた。シーランとハルジー家の長達はこれを不服とし、デブコットに進軍した。
1,206 4 1 源実朝が、従四位下に昇叙する。
1,206 6 25 クトゥブッディーン・アイバクが、デリーにて独立し「奴隷王朝」を開き、初代奴隷王朝スルターンに即位する。しかし、アイバクが正式に統治者として認められたのは西暦1,208〜1,209年にかけての事であった。
1,206 7 12 重源が入滅する。
1,206 7 23 公暁が、北条政子の屋敷にて着袴の儀式を行う。
1,206 10 21 明菴栄西が、重源の後任として第2代東大寺大勧進職に就任する。其の後備前国は東大寺造営料国から外され、東大寺向けの瓦は伊良子(現在の愛知県田原市伊良湖町)の瓦窯で生産された。丸瓦への名入れは万富から引き続き行われた。
1,206 11 21 公暁が、乳母夫である三浦義村に付き添われ、北条政子の計らいにより、源実朝の猶子となり、初めて大倉御所に入る。三浦は贈り物を献上した。
1,206 12 9 北条時政が、伊豆国願成就院(現在の静岡県伊豆の国市寺家)の南傍等に塔婆を建て、供養を行う。
1,206 12 19 東重胤が数ヶ月ぶりに鎌倉に帰還する。源実朝が和歌を送って鎌倉に戻って来る様催促しても、なかなか戻って来なかった為、源は東を蟄居とした。
1,206 12 19 北条義時の別荘で、以下の人間等が和歌会を開催する。
①源実朝
②北条泰時
③東重胤
④内藤朝親
源実朝に関する電子書籍 短期間で位階の昇叙と官職の昇進を重ねたが中身は...