西暦1517年は、後の世界を変える宗教改革が始まり、甲斐国・遠江国・若狭国で争乱が続いた年である。10月31日、ドイツの神学者マルティン・ルターが「95箇条の論題」を発表し、贖宥状を販売したローマ教皇レオ10世を批判した。此れに賛同する人々がルター派(プロテスタント)を結成し、ローマ教皇を奉じるカトリックとの対決姿勢を強めた。西暦1515年に第5ラテラン公会議が印刷の統制を打ち出しながら、同じ年に贖宥状が売られていた矛盾が、二年で刃となって返った事になる。甲斐国では、1月18日に今川氏親勢が都留郡で西海右近進・西海平八郎を含む三兄弟や大石与五郎等を討ち取ったが、1月21日には武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣して吉田城の今川勢と交戦し、今川勢は次第に孤立して、民衆は河口湖の鵜島へ逃れて越年した。小林父子は1月22日に新倉へ進軍し、1月23日に吉田城を攻撃、今川勢は2月2日に撤退を始めたものの、2月17日に吉田城が落ちて退路を断たれた。今川氏親は2月12日に連歌師宗長へ武田信虎との和睦の斡旋を依頼し、2月18日に甲府へ入った宗長の交渉で和睦が成立して、今川勢は駿河国へ撤退した。西暦1515年に今川と通じて武田を椿城で大敗させた大井信達も此の和睦を受けて武田信虎に降伏し、大井の方を武田の正室として差し出し、武田は川田館へ帰還した。西暦1516年に今川勢が甲斐国中を焼いて以来の国境封鎖も解かれ、物資が不足し撰銭も行われて相場が高値で推移し困窮していた領民に道が開けた。3月23日には勝山城に籠城していた今川氏親勢2,000名余が駿河国へ帰国し、氏親自身も4月頃に帰国した。武田信虎は3月30日に広厳院と其の末寺へ禁制を与え、4月23日には一蓮寺領を安堵している。遠江国では、7月9日に今川氏親が連日の雨で川幅の拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡河し、西暦1516年に曳馬城を奪って籠もった大河内貞綱と、西暦1514年に三岳城を追われて城へ迎えられた斯波義達を包囲したが、両名は城を堅く守り兵糧攻めにも屈しなかった。然し9月4日、梅ヶ島金山の炭鉱夫が井水の水源を断って曳馬城は陥落し、大河内貞綱と弟巨海道綱は自害、斯波義達は降伏して足利家一門という事で助命の上捕縛され、普済寺で出家して尾張国へ送還された。曳馬城には吉良家家臣から今川家家臣に転じた飯尾賢連が城主として据えられ、西暦1501年の浜松荘争いに始まった遠江国の抗争は今川氏親の勝利で決着した。若狭国では、4月頃に武田元信が不穏な噂が有るとの情報を得、6月頃に延永春信勢が侵攻して和田まで攻め込んだ。武田元信は朝倉孝景に救援を求め、室町幕府にも働き掛けて足利義稙から武田の支援を命じる御内書を得た。7月頃、朝倉孝景が朝倉宗滴率いる軍を急派して延永勢を破ると、延永は丹後国の倉梯城へ敗走して籠城し抗戦した。同じ頃、朝倉景職・逸見氏・本郷氏が高浜城の防備を固め、白井清胤等の軍勢は余戸に布陣した。9月頃に朝倉宗滴が逸見氏と共に倉梯城を落とし、9月16日頃には再び若狭国へ攻め込んだ延永春信勢が本郷氏等に討たれた。西暦1516年に一色義清の実権が失われて始まった丹後国の内乱が、隣国を巻き込んで広がった形である。白井清胤率いる軍は其の後も丹後国で攻勢を続け、10月7日に堤城を、10月25日に吉沢城を攻撃している。畿内では、10月頃に三好之長が淡路水軍を掌握する為に淡路へ侵攻し、西暦1511年に兵庫津へ上陸して細川高国方に付いていた細川尚春は堺へ逃れたが、翌々西暦1519年に阿波国で討たれる事となる。

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年月日 出来事
1,517 1 18 今川氏親勢が、都留郡の以下の人間を含む三兄弟や、大石与五郎等を討ち取る。
①西海右近進
②西海平八郎
1,517 1 21 武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城(現在の山梨県富士吉田市上吉田東)の今川氏親勢と交戦する。今川勢は次第に孤立し、民衆は河口湖の鵜島(現在の山梨県南都留郡富士河口湖町大石)に逃れて越年した。
1,517 1 22 以下2名が、新倉(現在の山梨県富士吉田市)に進軍する。
①小林道光
②小林昌喜
1,517 1 23 小林道光が、吉田城を攻撃する。
1,517 2 2 吉田城の今川氏親勢が、撤退を始める。
1,517 2 12 今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川は、宗長を武田の下に遣わせた。
1,517 2 17 小林道光が、吉田城を落城させる。今川氏親勢は、退路を断たれた。
1,517 2 18 宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田の正室として差し出した。武田は、川田館に帰還した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。此の封鎖により、甲斐国では、物資が不足し、撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民は困窮していた。
1,517 3 23 勝山城に籠城していた今川氏親勢2,000名余が、駿河国へ帰国する。
1,517 3 30 武田信虎が、広厳院(現在の山梨県笛吹市一宮町金沢)と其の末寺に禁制を与える。
1,517 4 武田元信が、若狭国に不穏な噂が有るとの情報を得る。
1,517 4 今川氏親が、駿河国へ帰国する。
1,517 4 23 武田信虎が、一蓮寺(現在の山梨県甲府市太田町)領を安堵する。
1,517 6 延永春信勢が、若狭国に侵攻する。和田(現在の福井県大飯郡高浜町)にまで攻め込んだ。武田元信は、朝倉孝景に救援を求めた。又、室町幕府にも働き掛け、足利義稙は武田の支援を命じる御内書を出した。
1,517 7 朝倉孝景が、朝倉宗滴率いる軍を武田元信に急派する。其の後朝倉は、延永春信勢を破り、延永勢は丹後国へ敗走し、倉梯城(現在の京都府舞鶴市行永)に籠城し、抗戦した。
1,517 7 以下が高浜城(現在の福井県大飯郡高浜町事代城山)の防備を固める。
①朝倉景職
②逸見氏
③本郷氏
1,517 7 白井清胤等の軍勢が、余戸(現在の京都府舞鶴市余部上・余部下・和田・長浜)に布陣する。
1,517 7 9 今川氏親が、連日の雨で川幅が拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡り、曳馬城を包囲した上で、籠城する以下2名に対し、攻撃を仕掛ける。
①大河内貞綱
②斯波義達
大河内達は、曳馬城を堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかった。
1,517 9 朝倉宗滴が、逸見氏と共に倉梯城を落城させる。
1,517 9 4 曳馬城が、梅ヶ島金山(現在の静岡県静岡市葵区梅ヶ島)の炭鉱夫によって井水の水源が断たれ、陥落する。以下2名は自害した。
①大河内貞綱
②大河内の弟巨海道綱
斯波義達は降伏し、足利家一門という事で助命されたものの、捕縛された。其の後斯波は、普済寺(現在の静岡県浜松市中央区広沢)で出家し、尾張国へ送還された。飯尾賢連は、吉良家家臣から今川家家臣に転じ、今川氏親から、曳馬城主に任じられた。
1,517 9 16 延永春信勢が若狭国に侵攻する。しかし、本郷氏等に討たれた。
1,517 10 三好之長が、淡路水軍を掌握する為淡路に侵攻する。細川高国方に寝返っていた細川尚春は、堺に逃亡した。
1,517 10 7 白井清胤率いる軍が、堤城(現在の京都府京丹後市丹後町宮)を攻撃する。
1,517 10 25 白井清胤率いる軍が、吉沢城(現在の京都府京丹後市弥栄町吉沢)を攻撃する。
1,517 10 31 ドイツの神学者マルティン・ルターが「95箇条の論題」を発表して、贖宥状を販売したレオ10世を批判する。これに賛同する人たちがルター派(プロテスタント)を結成し、これまでどおりローマ教皇を奉じるカトリックに対し対決姿勢を強める。
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