西暦1517年は、今川氏親と武田信虎の和睦が成立し、曳馬城が陥落して、マルティン・ルターが「95箇条の論題」を発表した年である。和睦は2月18日の事で、今川氏親から斡旋を依頼された連歌師宗長が武田信虎と交渉して成立させ、大井信達も武田に降伏して大井の方を武田の正室として差し出した。陥落は9月4日、発表は10月31日の事で、大河内貞綱が自害し、ルターは贖宥状を販売したレオ10世を批判した。

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年月日 出来事
1,517 1 18 今川氏親勢が、都留郡の以下の人間を含む三兄弟や、大石与五郎等を討ち取る。
①西海右近進
②西海平八郎
1,517 1 21 武田信虎の家臣小林道光の息子小林昌喜が出陣し、吉田城(現在の山梨県富士吉田市上吉田東)の今川氏親勢と交戦する。今川勢は次第に孤立し、民衆は河口湖の鵜島(現在の山梨県南都留郡富士河口湖町大石)に逃れて越年した。
1,517 1 22 以下2名が、新倉(現在の山梨県富士吉田市)に進軍する。
①小林道光
②小林昌喜
1,517 1 23 小林道光が、吉田城を攻撃する。
1,517 2 2 吉田城の今川氏親勢が、撤退を始める。
1,517 2 12 今川氏親が、連歌師宗長に、武田信虎との和睦の斡旋を依頼する。今川は、宗長を武田の下に遣わせた。
1,517 2 17 小林道光が、吉田城を落城させる。今川氏親勢は、退路を断たれた。
1,517 2 18 宗長が、甲府の知人の屋敷に到着する。其の後、武田信虎と交渉し、和睦を成立させた。今川氏親勢は、駿河国へ撤退した。大井信達は、此の和睦を受けて、武田信虎に降伏し、大井の方を武田の正室として差し出した。武田は、川田館に帰還した。今川氏親による駿河国と甲斐国の国境の封鎖は解かれた。此の封鎖により、甲斐国では、物資が不足し、撰銭も行われ、相場が高値で推移して領民は困窮していた。
1,517 3 23 勝山城に籠城していた今川氏親勢2,000名余が、駿河国へ帰国する。
1,517 3 30 武田信虎が、広厳院(現在の山梨県笛吹市一宮町金沢)と其の末寺に禁制を与える。
≈ 1,517 4 武田元信が、若狭国に不穏な噂が有るとの情報を得る。
≈ 1,517 4 今川氏親が、駿河国へ帰国する。
1,517 4 23 武田信虎が、一蓮寺(現在の山梨県甲府市太田町)領を安堵する。
1,517 4 27 越智家教が急死する。越智家頼が家督を継いだが、越智家は混乱に陥った。筒井順賢は、此れを好機と捉え、大和国に侵攻して、越智方を破って称名寺(現在の奈良県奈良市菖蒲池町)に布陣した。
≈ 1,517 6 延永春信勢が、若狭国に侵攻する。和田(現在の福井県大飯郡高浜町)にまで攻め込んだ。武田元信は、朝倉孝景に救援を求めた。又、室町幕府にも働き掛け、足利義稙は武田の支援を命じる御内書を出した。
≈ 1,517 7 朝倉孝景が、朝倉宗滴率いる軍を武田元信に急派する。其の後朝倉は、延永春信勢を破り、延永勢は丹後国へ敗走し、倉梯城(現在の京都府舞鶴市行永)に籠城し、抗戦した。
≈ 1,517 7 以下が高浜城(現在の福井県大飯郡高浜町事代城山)の防備を固める。
①朝倉景職
②逸見氏
③本郷氏
≈ 1,517 7 白井清胤等の軍勢が、余戸(現在の京都府舞鶴市余部上・余部下・和田・長浜)に布陣する。
1,517 7 9 今川氏親が、連日の雨で川幅が拡がった天竜川に300隻余の船橋を掛けて渡り、曳馬城を包囲した上で、籠城する以下2名に対し、攻撃を仕掛ける。
①大河内貞綱
②斯波義達
大河内達は、曳馬城を堅く守り、兵糧攻めにも屈しなかった。
≈ 1,517 9 朝倉宗滴が、逸見氏と共に倉梯城を落城させる。
1,517 9 4 曳馬城が、梅ヶ島金山(現在の静岡県静岡市葵区梅ヶ島)の炭鉱夫によって井水の水源が断たれ、陥落する。以下2名は自害した。
①大河内貞綱
②大河内の弟巨海道綱
斯波義達は降伏し、足利家一門という事で助命されたものの、捕縛された。其の後斯波は、普済寺(現在の静岡県浜松市中央区広沢)で出家し、尾張国へ送還された。飯尾賢連は、吉良家家臣から今川家家臣に転じ、今川氏親から、曳馬城主に任じられた。
≈ 1,517 9 16 延永春信勢が若狭国に侵攻する。しかし、本郷氏等に討たれた。
≈ 1,517 10 三好之長が、淡路水軍を掌握する為淡路に侵攻する。細川高国方に寝返っていた細川尚春は、堺に逃亡した。
1,517 10 7 白井清胤率いる軍が、堤城(現在の京都府京丹後市丹後町宮)を攻撃する。
1,517 10 25 白井清胤率いる軍が、吉沢城(現在の京都府京丹後市弥栄町吉沢)を攻撃する。
1,517 10 31 ドイツの神学者マルティン・ルターが「95箇条の論題」を発表して、贖宥状を販売したレオ10世を批判する。これに賛同する人たちがルター派(プロテスタント)を結成し、これまでどおりローマ教皇を奉じるカトリックに対し対決姿勢を強める。