西暦1515年は、ローマ教皇レオ10世により贖宥状が販売され、マリニャーノでフランソワ1世がスイス傭兵と激突してフランス側が大勝した年である。激突は9月14日の事で、序盤はスイス側が優勢だったものの、フランス騎兵隊・砲兵隊の活躍やダルヴィアーノ率いるヴェネツィアからの援軍もあった。8月14日には足利義稙が三条御所の造営を開始し、11月22日には武田信虎率いる軍が椿城を攻撃して大敗を喫した。

以下の暦は全て西暦に変換しています。 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / 韓国の旧暦 / 日本の旧暦 / ヒジュラ暦 / フランス革命暦 / ソビエト連邦暦

≈は「頃」を意味しています。

年月日 出来事
1,515 第5ラテラン公会議(通算18回目の公会議)でモンテ・ディ・ピエタの利子が正当であると認められた。また、印刷を統制する為の指針が打ち出された。
1,515 椿城(現在の山梨県南アルプス市上野)主大井信達が、甲斐国へ勢力を拡大しようとしていた今川氏親と通じる。
1,515 第217代ローマ教皇レオ10世により、贖宥状(免罪符)が販売される。
1,515 8 14 足利義稙が、新邸として「三条御所(現在の京都府京都市中京区上本能寺前町)」の造営を開始する。
1,515 9 14 第9代フランス王国ヴァロア朝王フランソワ1世とその主軍が、マリニャーノ(現在のイタリアのロンバルディア州ミラノ県)でスイス傭兵と激突した。序盤はスイス側が優勢だったものの、フランス騎兵隊・砲兵隊の活躍や傭兵隊長ダルヴィアーノ率いるヴェネツィアからの援軍もあり、フランス側の大勝に終わる。
≈ 1,515 11 陶興房が、太宰府天満宮に対し、大内義興が周防国に帰国の意志を示した旨を記した書簡を送る。
1,515 11 22 武田信虎率いる軍が、大井信達の居城である椿城を攻撃する。武田率いる軍は、椿城の周辺の地形を把握しておらず、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなった所を今川氏親からの援軍を含む大井勢に襲われ、以下を含む大将格20騎が討ち取られ、将兵も100名以上が戦死し、大敗を喫した。
①小山田大和守
②今井信房
③於曽備州
④板垣伯耆守
⑤飯富道悦
⑥飯富源四郎
⑦甘利衆
今川氏親率いる軍は、甲斐国へ進軍した。此れを受けて武田は、恵林寺(現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)へ逃亡した。今川は駿河国と甲斐国の国境を封鎖した上で、勝山城(現在の山梨県甲府市上曽根町)に布陣した。