以下の暦は全て西暦に変換しています。 日本の旧暦 / 中国の旧暦 / ユダヤ暦 / ヒジュラ暦 / ソビエト連邦暦 / フランス革命暦
≈は「頃」を意味しています。
垣間見える実直さとプライド。
| 年月日 | 出来事 | |||
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| 1,231 | シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュがベンガルに侵攻する。マリク・バルカ・ハルジーは捕えられ、殺害された。イルトゥトゥミシュは、アラウッディーン・ジャニをベンガル総督に据えた。 | |||
| 1,231 | シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュが、グワーリヤルを包囲する。 | |||
| 1,231 | 4 | 19 | 子供が清涼殿の日御座の御剣を盗み出す。しかし、縁側で蔵人判官繁茂が捕らえた為未遂に終わり、日御座の御剣は無事であった。 | |
| 1,231 | 11 | 1 |
晴れの中、藤原頼経の御願寺を、永福寺又は大慈寺の敷地内に建立する事が決定される。又、永福寺の境内に、竹御所の御願寺を建立する事が決まった。そして、以下の人間等が、安陪泰貞・安陪晴賢・安陪重宗を連れて見学に行った。 ①北条時房 ②北条泰時 ③三浦義村 ④二階堂行村 ⑤二階堂行盛 又、金蔵坊に命じて地相を見させた。更に、宅磨為行に絵を描かせ、以下2名が使者として藤原に伝えた。 ①中原師員 ②三浦光村 |
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| 1,231 | 11 | 11 |
晴れの中、永福寺本堂の池の北方に、五大明王を祀る御堂を建立する事が決定される。方角を調べる事になり、以下3名等が、安陪晴賢以下の陰陽師を引き連れ、本堂の裏山へ登り、方角を測量した。 ①藤原親実 ②伊賀光宗(御堂奉行) ③藤原定員 宇都宮辻子御所の位置と照らし合わせた所、東北東と西南西の間であれば問題無いとの事で意見が一致した。しかし此れは、翌年に厄の方角に当たる為、北条政子が方角変えの本所として使った庵が1軒在り、其処を本所とすれば良い、という話になった。しかし安陪が、其の庵は北西では無く、西北西であると答えた。此の一連の出来事は鎌倉幕府に報告された。20時、北条泰時の屋敷で、尾藤景綱が奉行となり、御堂を建立する日時を決めた。其の後ご馳走が出て、親実・伊賀も同席した。 |
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| 1,231 | 11 | 14 |
雨の中、五大明王を祀る御堂の建設地が甘縄の、安達義景の屋敷の南で、千葉時胤の屋敷の北の西山の周辺に変更される。以下2名が現地を視察した。 ①北条時房 ②北条泰時 此の日は橘寺の開眼供養の日に当たる為、縁起が良く無いという事で、以下の陰陽師が占った。 ①安倍泰貞 ②安倍晴茂 ③安倍長重 ④安倍文元 彼らは、橘寺の開眼供養は西暦1,091年で、開眼供養と造作始めは全く別の事であり、忌むべき事では無いと答えた。しかし藤原長定は「辛未の日は縁起が悪いという話も有ります」と言った。此れに対し法橋円全は、以下の辛未の日に吉事が行われた例を挙げた。 ①後一条天皇の西暦1,020年2月15日、興福寺阿弥陀堂の御塔を建てた。 ②堀河天皇の西暦1,100年8月13日、春日大社で一切経を奉納する法要が有り、同日、日吉神社では大般若経の奉納が行われた。 ③鳥羽天皇の西暦1,118年11月7日、熊野山の一切経の奉納が行われ、鳥羽天皇が御幸した。 ④崇徳天皇の西暦1,136年4月6日、熊野山本宮の五重塔の開眼供養が行われた。 ⑤後鳥羽天皇の西暦1,184年11月14日、後白河上皇の願として、蓮華王院三十三間堂で万部の経典四巻を読むお経の法要が行われた。 |
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| 1,231 | 11 | 20 | 此の日は晴れであった。20時、北条時房の公文所が焼亡した。南風が激しく吹き、東は勝長寿院橋辺りまで火が回り、西は永福寺の惣門の内門にまで及んだ。源頼朝・北条義時の法華堂と其の御本尊も灰燼に帰した。人間や家畜の死んだ数は数え切れず、此れは泥棒の放火と云われた。 | |
| 1,231 | 11 | 22 |
晴れの中、以下2名が評定所にやって来る。 ①中原師員 ②三浦義村 以下の人間も出仕した。 ①二階堂行村 ②中条家長 ③二階堂行盛 ④三善康俊 ⑤三善康連 又、以下2名が、源頼朝・北条義時の法華堂と其の御本尊が焼亡した事を報告した。 ①伊賀光宗 ②佐藤業時 そして「仮令止むを得ない火災であったとしても、源頼朝殿・北条義時殿の法華堂が燃えた事は、鎌倉幕府としては、前途を悲観し、恐るべき出来事である」とした意見書を各々提出した。又、法華堂の再建が検討されたが、以下3名等が「墳墓堂が燃えた際に再建した例は無い」と発言した為、助成金を出して、寺家に言い付ける様決定が為された。 ①中原 ②伊賀 ③康連 更に、藤原頼経と竹御所の御願寺建設の延期も決定され、此れを民衆は徳政であるとして評価した。 |
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| 1,231 | 12 | 13 |
以下3名の指揮により、五大明王像の建設が開始される。 ①中原師員 ②伊賀光宗 ③三善康連 又同日、焼亡した源頼朝の法華堂の上棟式が、寺家を中心として執り行われた。 |
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