西暦1201〜1300年は、源頼家が蹴鞠に耽溺し御家人の所領再分配を命じるも反対され、北条氏が台頭した時代である。重源が東大寺大仏殿の再建に尽力し、和田合戦で北条義時が和田義盛を滅ぼした。源実朝が暗殺され、承久の乱を経て北条氏の執権政治が確立した。モンゴル帝国がユーラシア大陸に拡大した。

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≈は「頃」を意味しています。

東大寺大仏殿の再建に尽力した重源と陳和卿に関する電子書籍 垣間見える実直さとプライド。
年月日 出来事
1,227 インダス川流域に於いて、モンゴル帝国とホラズム・シャー朝の勢力が衰え、ナースィル・ウッディーン・カバチャが支配する。
1,227 ラディ・アルディン・アブー・ファディル・アル・ハサン・ビン・ムハンマド・アル・サガニーが、アッバース朝の首都バグダード(現在のイラク)に帰還する。
1,227 2 10 牧の方が、藤原国通の有栖川邸にて北条時政の十三回忌法要を執り行う。以下が参列した。
①牧の方の娘で宇都宮頼綱の正室
②宇都宮頼綱の娘で藤原為家の正室
③以下の人間を含む公卿6名
❶藤原国通
❷為家
④殿上人10名
⑤諸大夫約20名
1,227 2 尊長が黒太郎と共に、十津川(現在の奈良県吉野郡)8郷の内、5郷を味方に引き入れ、熊野で武具を奪って、阿波国へ渡ろうとする。
1,227 2 14 牧の方が、宇都宮頼綱の正室と妊娠7ヶ月前後の藤原為家の正室と共に以下を参詣する為に出発する。
①四天王寺
②南都七大寺
❶東大寺
❷興福寺
❸元興寺
❹大安寺
❺西大寺
❻薬師寺
❼法隆寺
③長谷寺(現在の奈良県桜井市初瀬)
藤原定家は「身重の女性を連れて行くとは如何なものか」と不満を記した。
1,227 2 15 黒太郎の弟が、熊野の神威を恐れ、尊長が黒太郎が武具を奪おうとしている事を熊野に密告する。此れにより、以下の熊野三山は警備を固めた。
①熊野本宮大社(現在の和歌山県田辺市本宮町本宮)
②熊野速玉大社(現在の和歌山県新宮市新宮)
③熊野那智大社(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)
1,227 4 5 藤原定家が、尊長が還俗し、烏帽子を被って髷を結い、十津川の人間の婿となり暮らしている事を耳にする。此の頃、尊長が、第14代石山寺座主長厳や其の弟子の協力を得て、熊野を掌握し、阿波国へ渡ろうとしているとの噂が流れていた。
1,227 5 2 「逆徒が30隻を率いて阿波国へ押し寄せ、守護代と合戦となった。土御門上皇の行宮(現在の徳島県阿波市土成町吉田御所屋敷)の前まで攻め込んだが、守護代を負傷させて撃退した為、阿波国守護となっていた小笠原長経が下向した」との噂が流れる。其の後、此の噂は、海人が夜釣りのために漁火を焚いていたものを敵の襲撃と誤認したものである事が判明した。
1,227 5 14 阿波国の熊野太郎が、尊長一味から「我らに付くか、守護方に付くか」という主旨の書簡が届く。熊野は恐れをなして守護所に伝え、国中が大騒ぎとなった。
1,227 7 尊長が、第2代大友氏当主大友親秀が後見の肥後房の屋敷に匿われている事が判明する。
1,227 7 19 北条泰時の尊長捕縛を指示する書簡が六波羅探題に届く。和田朝盛が、鎌倉幕府から赦免を得る為に、尊長を裏切って北条泰時に通報していた。
1,227 7 20 肥後房の屋敷にて、和田朝盛が尊長の捕縛を試みる。しかし失敗した。
1,227 7 21 早朝、伯耆房が肥後房の屋敷に赴き、尊長との酒宴を張る。伯耆房は、門を出る時に乱入する様、以下等と取り決めをしていた。
①六波羅探題被官
②北条時氏の近習
③菅周則
④小笠原長経
六波羅探題被官・北条の近習・菅・小笠原達は、避暑の名目で、甲冑を持って馬車4輌で神泉苑(現在の京都府京都市中京区門前町)へ向かった。伯耆房は「六波羅の武士が大勢集まっている様です。様子を見て帰って来ましょう」と言って、門を出て神泉苑の軍勢へ向かって合図を送って逃げ去ると、六波羅探題被官・北条の近習・菅・小笠原達は、肥後房の屋敷を襲撃した。尊長は剣で応戦し、勇士2名を負傷させた上で、尊長は、六波羅で見掛けた人物が居る事に気付き、誰か尋ねた。六波羅探題被官・北条の近習・菅・小笠原達は、北条時氏・北条時盛であると回答した。尊長は自殺を図った。しかし即死せず、尊長は「早く首を取れ。然もなくば、伊賀の方が北条義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ」という主旨の発言をし、周囲の者は驚いた。尊長は、馬車で鴨川の西の菅の屋敷に送られた。菅と小笠原は、其々自分の手下の者が先に入ったと主張し、手柄を争っていた。其処で六波羅探題の使者が、尊長に尋問した。尊長は「只今死のうとしているのに、どうして人の味方をして虚言を言おうか。奇妙な事だ」と答えた。続けて六波羅探題の使者は「年来京都に親しくしている者が居ると和田朝盛が言っていたが、本当か」と尋ねた。尊長は「京都に其の様な者が居ても無益だ。そんな奴は居ない」と回答した。尊長は氷を所望した。無いと断られると、尊長は「六波羅探題の者がどうして氷を手に入れられないのか。不甲斐無い奴等め」と辱めた為、六波羅探題の使者達は氷を求め得て与えた。尊長は氷を食べた。尊長は菅に「私の体は必ず円明寺(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に埋めてくれ。河原に晒すな」と遺言を残した。
1,227 7 22 8時、尊長が、帷子を改めて手を洗い、阿弥陀如来の図像を西向きに掛けさせ、高声に念仏を唱え、座した儘死去する。立ち会った者達は極楽往生を口々に讃えた。死臭はしなかった。菅周則は、土用に土を掘り返して葬送すべきでは無いという慣例を破り、尊長の遺言通り円明寺に葬られた。周囲の者は首を取るか相談していたものの、菅は取らなかった。
1,227 7 22 医僧心寂房が、菅周則の下を訪れ、尊長の捕縛に就いて話を聞く。
1,227 7 25 藤原定家が、自身の掛かり付け医の心寂房から、尊長の捕縛に就いて話を聞く。藤原は尊長の捕縛に関し、当日の西暦1,227年7月21日の時点で下人から聞いていたが、心寂房からより詳細な話を聞く事となった。
1,227 7 28 六波羅探題の伝令が鎌倉に到着し、西暦1,227年7月21日に肥後房の屋敷にて尊長が自殺を図った件に就いて報告する。
1,227 7 28 和田朝盛が捕縛される。
源実朝に関する電子書籍 短期間で位階の昇叙と官職の昇進を重ねたが中身は...