西暦186年は、涼州の反乱への対処が続く中で、後漢政府の人事の歪みが表面化した年である。張温が洛陽で太尉に任命されたが、賄賂による就任と噂されて年内に呼び戻された。烏桓族の突騎を任された公孫瓚は食糧を持ち逃げされ、12月頃には辺章が病死した。

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≈は「頃」を意味しています。

年月日 出来事
186 張温が洛陽にて太尉に任命される。此の張以降太尉は在外太尉として洛陽の外にて政務を執り行う様になった。又、今回の張の太尉就任は賄賂によって得られたものではないかと噂された。年内に張は洛陽に呼び戻された。
186 公孫瓚が後漢政府から張温の援軍として出撃を命じられる。此の時公孫は関や津を通過する際の身分証明である都督行事の割符を与えられ、幽州の烏桓族3,000名の突騎の指揮を任された。しかし薊県(現在の中国北京市大興区)にて烏桓族に食糧を持ち逃げされた。
≈ 186 12 辺章が病死する。