西暦187年は、幽州と涼州で同時に反乱が拡大し、後漢政府が涼州の支配権を失った年である。張純が、2年前に張温に従軍を断られた恨みから、自らを「弥天安定王」と名乗り、泰山太守張挙・烏桓族の大人丘力居と共に反乱を起こし、右北平郡(現在の中国河北省唐山市豊潤区)と遼西郡(現在の中国河北省・遼寧省)を攻略する。張挙は自らを天子とし、漢に代わったので天子を位から降ろし公卿は自らを迎えよという主旨の書簡を各郡に送付した。3月頃、滎陽(現在の中国河南省鄭州市)の農民軍が中矣令を殺害し、4月頃には何苗が此の農民軍を破って車騎将軍に任じられ、済陽(現在の中国河南省)侯となった。同じ4月頃、韓遂が涼州にて反乱を起こし、後漢政府は涼州刺史に耿鄙を任命する。耿鄙が佞吏を信用した為に氐族・羌族が反乱を起こし、治中程球を先鋒として涼州6郡を包囲して兵と馬の徴発を開始し、韓遂率いる反乱軍と対峙した。耿鄙は程球を気に入っていたが、程球は裏切り者で強欲であった為、涼州の民から嫌われていた。反乱軍は北宫伯玉・李文侯と北宫伯玉の従者数百名を殺害して100,000名の兵を奪い、隴西郡を包囲し、隴西太守李相如が韓遂と連なって寝返った。又、漢陽太守盖勳は優れた実績を持ちながら耿鄙から軽蔑されていた為に故郷へ帰り、後任として傅燮が漢陽太守に就任する。傅燮は耿鄙に対し、訓練を受けていない者を戦場に連れて行くのは人命を無駄にする事だと孔子の言葉を引き合いに出し、休戦を宣言して報酬と罰を明確にした軍事的規律を定める事、抵抗しなければ反政府勢力の内部抗争が再燃する事、程球がいては官軍の心が1つに纏まらない事を説いたが、耿鄙は応じなかった。5月頃、耿鄙が兵を率いて狄道(現在の中国甘粛省定西市臨洮県)に向かったが、別駕によって先ず程球が、次に耿鄙が殺害され、軍は散り散りになった。城中の兵は少なく食糧も尽きたが、傅燮は城を守った。扶風(現在の中国陝西省宝鶏市)の司馬馬騰と漢陽人王国が韓遂率いる反乱軍に寝返り、王国は自らを「連民将軍」と名乗り、韓遂と馬騰は王国を反乱軍の指導者として支持して共に三輔へ侵攻した。王国は傅燮に対し酒泉太守の黃衍を遣わせ、天は既に後漢に無いとして引き抜きを図ったが、傅燮は剣を掴んで賊になれと言うのかと黃衍を叱った。更に司徒の崔烈が涼州の放棄を提案したが、傅燮に激しく批判された。一方、胡騎数千名が韓遂に従い、城外で傅燮を故郷の霊州(現在の中国寧夏回族自治区銀川市)に送りたいと叩頭した。傅燮の息子傅幹は後漢はもう駄目であり漢陽は守れないとして氐族・羌族を頼って帰郷する事を進言したが、傅燮は伯夷が殷の衰えても周に仕えなかった故事を挙げて後漢に殉ずる意志を示し、俸禄を賜った以上は逃げられないとして、傅幹には才智があるから努力せよと述べ、主簿の楊會を自らにとっての程嬰であるとして頼る様に告げた。傅幹は喉を詰まらせて言葉にならず、周囲の者達も皆泣き崩れた。そして傅燮は両翼の軍勢を率いて進撃し戦死した。反乱軍は漢陽軍を包囲し、漢陽太守の傅燮が戦死した事で後漢政府は涼州の支配権を失った。同じ5月頃、張温が反乱を鎮められなかったとして太尉を罷免され、後任に崔烈が就き、張温は其の後衛尉に転任した。6月頃、前月に太尉に就任した崔烈の後任として許相が司徒に就き、更に光禄勲であった沛国(現在の中国安徽省・河南省・江蘇省・山東省)の丁宮が司空に任命された。7月頃、護烏桓校尉公綦稠・右北平太守劉政・遼東太守陽終が張純率いる軍に殺害される。其の後公孫瓚が3,000名の兵を率いて張純を追撃して撃破し、烏桓族を率いていた貪至王が公孫瓚に降伏した。戦功として公孫瓚は騎都尉に昇進した。10月11日、太丘県(現在の中国河南省商丘市永城市)の長の陳寔が死去し、淇陽城(現在の中国河南省安陽市林州市)に葬られた。葬儀には30,000名が参列し、中郎将蔡邕が碑文を刻み、大将軍何進が使者を遣わせ弔辞を読ませ、司空荀爽や太僕韓融等多数の人々が喪に服した。11月頃、長沙郡(現在の中国湖南省)の反乱軍の指導者であった区星が、住民を10,000名余り集めて長沙城を攻撃する。しかし議郎であった孫堅が長沙太守に就任し、一ヶ月で此れを鎮圧した。更に、区星に呼応した零陵郡の周朝と桂陽郡の郭石等も孫堅によって鎮圧された。其の際、宜春(現在の中国広西省)長であった廬江(現在の中国安徽省合肥市)太守陸康の従子が反乱軍に攻め入られて孫堅に助けを求め、主簿が郡界を越える出撃を止めようとしたが、孫堅は太守には文徳が無く征伐を功としてきたとして静止を振り切って出撃し、反乱軍は孫堅の到来を知って逃走した。其の後霊帝は孫堅の功績を讃え、烏程(現在の中国浙江省湖州市)侯に封じた。12月、崔烈が太尉を解任され、後任に大司農の曹嵩が就いた。

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年月日 出来事
187 張純が、2年前に張温に従軍を断られた恨みから、自らを「弥天安定王」と名乗り、以下の人間と共に反乱を起こし、右北平郡(現在の中国河北省唐山市豊潤区)と遼西郡(現在の中国河北省・遼寧省)を攻略する。
①泰山太守張挙
②烏桓族の大人丘力居
又、張挙は自らを天子とし「張挙が、漢に代わった。天子を位から降ろせ。公卿は張挙を迎えよ」という主旨の書簡を各郡に送付した。
187 3 滎陽(現在の中国河南省鄭州市)の農民軍が中矣令を殺害する。
187 4 何苗が滎陽の農民軍を破り車騎将軍に任じられ、済陽(現在の中国河南省)侯となった。
187 4 韓遂が涼州にて反乱を起こす。後漢政府が涼州刺史に耿鄙を任命する。耿は佞吏を信用した為、氐族・羌族が反乱を起こし、治中程球を先鋒として涼州6郡を包囲し、兵と馬の徴発を開始して韓率いる反乱軍と対峙した。耿は程を気に入っていたが、程は裏切り者で強欲であった為、涼州の民から嫌われていた。反乱軍は北宫伯玉・李文侯と北宫伯玉の従者数百名を殺害し、100,000名の兵を奪い、隴西郡を包囲した。隴西太守李相如が韓と連なり、反乱軍に寝返った。又、漢陽太守盖勳は優れた実績を持っていたが、耿から軽蔑されていた為、故郷に帰った。後任として傅燮が漢陽太守に就任した。傅は耿に対し「訓練を受けていない者を戦場に連れて行くのは、人命を無駄にする事だ」と孔子の言葉を引き合いに出し、更に「貴方はまだ涼州に来て間もない。今、貴方が訓練を受けていない人達を率いて、大長征という危険な障害を乗り越えようとしているのは、100%危険な事で、政府軍が来ると聞けば、反乱軍は団結する事だろう。 休戦を宣言して、報酬と罰を明確にした軍事的規律を定めたらどうだろう。私達が抵抗しないのを見ると、反政府勢力は私達を臆病者だと思い、多くの反政府勢力のリーダーが権力と利益を求めて再び内部抗争を起こすだろう。 貴方は危険で誤った決断をしたと思っている。又、程がいては官軍の心が1つに纏まらない」と続けた。しかし耿は応じなかった。
187 5 耿鄙が兵を率い狄道(現在の中国甘粛省定西市臨洮県)に向かったが、別駕によって先ず程球が、次に耿が殺害され、軍が散り散りになった。城中の兵は少なく、食糧も尽きたが傅燮は城を守った。扶風(現在の中国陝西省宝鶏市)の司馬馬騰と漢陽人王国が韓遂率いる反乱軍に寝返った。王は自らを「連民将軍」と名乗り、韓と馬は反乱軍の指導者として王を支持し、王と共に三輔に侵攻した。王は傅燮に対し酒泉太守の黃衍を遣わせ「天は既に後漢に無い。我が軍を率いて貰えないか」と後漢政府軍から傅燮を引き抜こうとするが、傅燮は剣を掴み「私に賊になれと言うのか」と黃を叱った。さらに、司徒の崔烈が傅燮に涼州を放棄する事を提案するが、傅燮に激しく批判された。一方、胡騎数千名が韓遂に従った。胡騎は城外で「傅燮を故郷の霊州(現在の中国寧夏回族自治区銀川市)に送りたい」と叩頭した。傅燮の息子傅幹は傅燮に対し「後漢はもう駄目です。此の漢陽は守れません。氐族・羌族に甘えて故郷に帰りましょう」と進言するが、言い終える前に「伯夷はどれだけ殷が駄目でも周に仕えなかった。私も後漢に殉ずる。俸禄を賜った以上は逃げるわけにはいかない。お前には才智がある。努力せよ。主簿の楊會は、私にとっての程嬰だ。傅幹は、楊を頼れ」と返すと傅幹は喉を詰まらせて言葉にならず、周囲の者達も皆泣き崩れた。そして傅燮は両翼の軍勢を率いて進撃し戦死した。反乱軍は漢陽軍を包囲し、漢陽太守の傅燮が戦死した事で後漢政府は涼州の支配権を失った。
187 5 張温が、反乱を鎮められなかったとして太尉を罷免され、後任に崔烈が就いた。張は其の後衛尉に転任した。
187 6 前月に太尉に就任した崔烈の後任として許相が司徒に就く。更に光禄勲であった沛国(現在の中国安徽省・河南省・江蘇省・山東省)の丁宮が司空に任命された。
187 7 以下の人間が張純率いる軍に殺害される。
①護烏桓校尉公綦稠
②右北平太守劉政
③遼東太守陽終
其の後公孫瓚が3,000名の兵を率い張を追撃して撃破し、烏桓族を率いていた貪至王が公孫に降伏した。戦功として公孫は騎都尉に昇進した。
187 10 11 太丘県(現在の中国河南省商丘市永城市)の長の陳寔が死去し、淇陽城(現在の中国河南省安陽市林州市)に葬られた。葬儀には30,000名が参列し、中郎将蔡邕が碑文を刻み、大将軍何進が使者を遣わせ弔辞を読ませた。又、司空荀爽や太僕韓融等多数の人々が喪に服した。
187 11 長沙郡(現在の中国湖南省)の反乱軍の指導者であった区星が、住民を10,000名余り集め、長沙城を攻撃する。しかし議郎であった孫堅が長沙太守に就任し、一ヶ月で此れを鎮圧した。更に、区に呼応した以下2名等も孫によって鎮圧された。其の際宜春(現在の中国広西省)長であった廬江(現在の中国安徽省合肥市)太守陸康の従子は、反乱軍に攻め入られた為、使いを送り孫に助けを求めた。孫が出撃準備に取り掛かると、主簿は止めようとした。しかし孫は「太守には文徳が無く、征伐を功としてきた。郡界を越えて攻討し、異国を全うするのだ。此れによって罪を獲たとて、どうして海内に媿じようか?」と言って静止を振り切り出撃した。反乱軍は孫がやって来る事を知って逃走した。其の後霊帝は孫の功績を讃え、烏程(現在の中国浙江省湖州市)侯に封じた。
①零陵郡(現在の中国湖南省・広西チワン族自治区)の周朝
②桂陽郡(現在の中国湖南省・広東省・広西チワン族自治区)の郭石
187 12 崔烈が太尉を解任され、後任に大司農の曹嵩が就いた。
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